183 選ばなかった道
エディシュは闘技場を見下ろす観覧席の陰に身を潜め、観客のざわめきを聞いていた。風が吹き抜けるたび、砂の匂いと鉄の気配が鼻先をかすめる。
息をひそめ、観客席を見渡す。
帽子を深く被る者、仮面を着ける者、世話をする従者たち――誰が怪しいかなど、わからなかった。
そんなときだった。
不意に背後から声が落ちてくる。
「……何してんだ、こんなとこで」
振り向いた瞬間、呼吸が止まった。
金色の髪、薄く笑った唇――その顔を見た瞬間、心臓が止まりそうになる。
――ゲルノット。
(なんで今、あんたなのよ……)
かつての婚約者。
今では、顔を合わせることすら避けたい相手。
「……あんたこそ、何やってんの」
努めて冷たく言い放つ。
ゲルノットは染めたばかりの金髪を乱暴にかき上げ、やれやれと肩をすくめた。
「それはこっちの台詞だ。エイリーク様との顔合わせはどうした?」
「知ってたんだ」
思わず顔を逸らす。胸の奥で、何かが軋んだ。
「当然だろ。俺はレオンハルト殿下付きの武官だぞ」
「……それ、前にも聞いた」
「まあいい。早く行けよ。相手を待たせるもんじゃない」
「行かないわよ。もともと、そのつもりなかったから」
「は? どういう意味だよ」
「エル・カルドへ行くの。だから顔合わせはなし」
ゲルノットの眉が、ぴくりと動いた。
風が吹き抜け、二人の間に砂塵が舞う。
「……正気か? 相手はベラノーシュの王子だぞ。すっぽかしたら、ただの無礼どころじゃ済まない。下手すりゃ外交問題だ」
珍しく、まっとうな言葉だった。
エディシュは視線を落とす。
「……でも、行けないの。匂いが……」
ゲルノットが一歩近づき、鼻をひくつかせた瞬間、顔をしかめた。
「……大蒜、だな」
「やっぱり分かるんだ」
「当然だ。ちょっと待ってろ」
そう言って、階段を駆け下りていく。
砂埃が舞い、足音が遠ざかる。
やがて戻ってきた彼の手には、白い小瓶が握られていた。
「イリスの香油。建国祭の土産で手に入れた。……婚約者に渡そうと思って」
「婚約者……できたんだ」
「最近な。じいちゃんが持ってきた話だ。セントフェルドのお偉いさんの娘さ」
「……そう。おめでとう」
瓶を受け取ったものの、指がためらう。
白磁のような小瓶が、陽を受けて静かに輝いていた。
「でも、これは使えない。婚約者に悪いわ」
「それは試しに開けたやつだから。気にするな。ほら」
しぶしぶ蓋を開ける。
一滴、手首に落とすと、柔らかな香りがふわりと広がった。
まるで遠い春の庭が、一瞬で心の内に咲いたようだった。
「いい匂い……」
横でウィンが目を輝かせる。
ゲルノットは小さく笑い、顎をしゃくった。
「早く行けよ。もう始まるぞ」
「……うん。ありがとう」
彼の後ろ姿が、闘技場の光の中に溶けていく。
エディシュはその背を見送りながら、ふと昔のことを思い出した。
(あいつ、昔からこういうところだけは悪くないんだよね)
だが、記憶はすぐに別の場面を呼び戻す。
あの顔合わせ。父を“平民の成り上がり”と笑ったあの腹立たしい顔。
(やっぱり、あいつはない。あんな言葉、絶対に許せない)
思い出すたびに頬が熱くなる。
あのとき、怒りにまかせて手を上げた自分は、未熟だったのかもしれない。
それでも、後悔はなかった。
――彼とは、やっぱり縁がなかったんだ。
そう思いながら、エディシュは顔を上げる。
風が頬を撫で、香油の匂いが背中を押した。
◇◇◇
特別観覧席に着くと、見慣れた衛兵が笑顔で迎えた。
「エディシュ・ゼーラーン嬢がお着きです」
広々とした席の中央には、皇帝アルドリックとレダ妃の姿。
その隣に、異国の光をまとった青年――ベラノーシュ第一王子エイリークがいた。
その姿を一目見て、エディシュは思わず胸が飛び跳ねた。
(金髪、割れた顎、太い腕……)
――あと五年もすれば、自分好みのおじさまになりそうだった。
「エイリーク、この娘がエディシュだ。エディシュ、私の甥のエイリークだよ」
レダ妃が柔らかく口の端を上げる。
お前の好みだろう、と言わんばかりの笑顔だった。
エディシュは、頬を赤らめ顔を伏せると席へ進んだ。
「遅れて申し訳ごさいません」
「よい、陛下より事情は聞いた。ちょうどいい、コンラッドの試合が始まるところだ」
その言葉を聞いた瞬間、鼓動が早まる。
視線をやると、兄コンラッドがすでに剣を構えている。額には汗、肩で息をしている。
「お兄ちゃん……」
開始の合図と同時に、剣が閃いた。
光の線が空気を裂き、相手の剣が弾き飛ばされる。
「ほう」
エイリークが感嘆の声を上げる。
その青い瞳が、真剣な光を帯びていた。
「見事な剣筋だ。だが……あまりに容赦がない。情を欠く戦い方は、敵を増やすものだ」
「あ、あの……兄は、今立っているのがやっとでございます」
真っすぐな言葉だった。
一国の王子に怯まず返す娘を前に、エイリークは目を見張った。
「……それで大蒜か」
「レダ様っ!」
思わず声が裏返る。レダ妃は口元に手を当て、楽しげに笑った。
「イリスの香りでは、消しきれなかったか。だがよい。心ある者は、かすかな香りの向こうに、お前の想いを感じるものだ」
頬が熱く染まる。
エイリークは隣で静かに頷いた。
「なるほど。……あの者は、何が何でも倒れるわけにはいかんというわけか」
コンラッドの足元がふらついた。
エディシュは椅子を蹴るように立ち上がった。
「申し訳ございません、エイリーク様、レダ様。私、兄のところへ行って参ります」
「そうか」と、レダ妃がうなずく。
「それから……。やはり、このお話はなかったことに……」
ひざまずき、深く頭を下げた。
その姿に、一瞬の静寂が訪れる。
「私、エル・カルドへ行きとうございます」
「なんと……」
レダ妃は驚きに息を呑んだが、すぐにその瞳がやわらいだ。
「……そうか、わかった。エイリーク、すまぬな。これは私の先走りであった」
エイリークは微笑み、軽く首を振る。
「叔母上、お気になさらず。どうやらこの御婦人は、私の手に負える方ではなさそうだ。――エディシュ殿、もしベラノーシュの近くへ来ることがあれば、遠慮なく立ち寄っていただきたい」
「恐れ入ります」
「兄上にもよろしく。試合の続きも楽しみにしている」
エディシュは深く一礼し、席を後にした。
ほんの少し、エイリークの割れた顎の輪郭に未練を残しながら。
香油の香りが、静かにその後を追った。
次回、第184話 「控え室」 1月20日(火)19:15更新予定




