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エル・カルド(失われた聖剣)  作者: 夜田 眠依
第二十四章 建国祭
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183 選ばなかった道

 エディシュは闘技場を見下ろす観覧席の陰に身を潜め、観客のざわめきを聞いていた。風が吹き抜けるたび、砂の匂いと鉄の気配が鼻先をかすめる。

 息をひそめ、観客席を見渡す。

 帽子を深く被る者、仮面を着ける者、世話をする従者たち――誰が怪しいかなど、わからなかった。


 そんなときだった。

 不意に背後から声が落ちてくる。


「……何してんだ、こんなとこで」


 振り向いた瞬間、呼吸が止まった。

 金色の髪、薄く笑った唇――その顔を見た瞬間、心臓が止まりそうになる。


 ――ゲルノット。


(なんで今、あんたなのよ……)


 かつての婚約者。

 今では、顔を合わせることすら避けたい相手。


「……あんたこそ、何やってんの」


 努めて冷たく言い放つ。

 ゲルノットは染めたばかりの金髪を乱暴にかき上げ、やれやれと肩をすくめた。


「それはこっちの台詞だ。エイリーク様との顔合わせはどうした?」


「知ってたんだ」


 思わず顔を逸らす。胸の奥で、何かが軋んだ。


「当然だろ。俺はレオンハルト殿下付きの武官だぞ」


「……それ、前にも聞いた」


「まあいい。早く行けよ。相手を待たせるもんじゃない」


「行かないわよ。もともと、そのつもりなかったから」


「は? どういう意味だよ」


「エル・カルドへ行くの。だから顔合わせはなし」


 ゲルノットの眉が、ぴくりと動いた。

 風が吹き抜け、二人の間に砂塵が舞う。


「……正気か? 相手はベラノーシュの王子だぞ。すっぽかしたら、ただの無礼どころじゃ済まない。下手すりゃ外交問題だ」


 珍しく、まっとうな言葉だった。

 エディシュは視線を落とす。


「……でも、行けないの。匂いが……」


 ゲルノットが一歩近づき、鼻をひくつかせた瞬間、顔をしかめた。


「……大蒜(ベリ・ルク)、だな」


「やっぱり分かるんだ」


「当然だ。ちょっと待ってろ」


 そう言って、階段を駆け下りていく。

 砂埃が舞い、足音が遠ざかる。

 やがて戻ってきた彼の手には、白い小瓶が握られていた。


「イリスの香油。建国祭の土産で手に入れた。……婚約者に渡そうと思って」


「婚約者……できたんだ」


「最近な。じいちゃんが持ってきた話だ。セントフェルドのお偉いさんの娘さ」


「……そう。おめでとう」


 瓶を受け取ったものの、指がためらう。

 白磁のような小瓶が、陽を受けて静かに輝いていた。


「でも、これは使えない。婚約者に悪いわ」


「それは試しに開けたやつだから。気にするな。ほら」


 しぶしぶ蓋を開ける。

 一滴、手首に落とすと、柔らかな香りがふわりと広がった。

 まるで遠い春の庭が、一瞬で心の内に咲いたようだった。


「いい匂い……」


 横でウィンが目を輝かせる。

 ゲルノットは小さく笑い、顎をしゃくった。


「早く行けよ。もう始まるぞ」


「……うん。ありがとう」


 彼の後ろ姿が、闘技場の光の中に溶けていく。

 エディシュはその背を見送りながら、ふと昔のことを思い出した。


(あいつ、昔からこういうところだけは悪くないんだよね)


 だが、記憶はすぐに別の場面を呼び戻す。

 あの顔合わせ。父を“平民の成り上がり”と笑ったあの腹立たしい顔。


(やっぱり、あいつはない。あんな言葉、絶対に許せない)


 思い出すたびに頬が熱くなる。

 あのとき、怒りにまかせて手を上げた自分は、未熟だったのかもしれない。

 それでも、後悔はなかった。


 ――彼とは、やっぱり縁がなかったんだ。

 

 そう思いながら、エディシュは顔を上げる。

 風が頬を撫で、香油の匂いが背中を押した。 


◇◇◇


 特別観覧席に着くと、見慣れた衛兵が笑顔で迎えた。


「エディシュ・ゼーラーン嬢がお着きです」


 広々とした席の中央には、皇帝アルドリックとレダ妃の姿。

 その隣に、異国の光をまとった青年――ベラノーシュ第一王子エイリークがいた。


 その姿を一目見て、エディシュは思わず胸が飛び跳ねた。


 (金髪、割れた顎、太い腕……)


 ――あと五年もすれば、自分好みのおじさまになりそうだった。


「エイリーク、この娘がエディシュだ。エディシュ、私の甥のエイリークだよ」


 レダ妃が柔らかく口の端を上げる。

 お前の好みだろう、と言わんばかりの笑顔だった。

 

 エディシュは、頬を赤らめ顔を伏せると席へ進んだ。


「遅れて申し訳ごさいません」


「よい、陛下より事情は聞いた。ちょうどいい、コンラッドの試合が始まるところだ」


 その言葉を聞いた瞬間、鼓動が早まる。

 視線をやると、兄コンラッドがすでに剣を構えている。額には汗、肩で息をしている。


「お兄ちゃん……」


 開始の合図と同時に、剣が閃いた。

 光の線が空気を裂き、相手の剣が弾き飛ばされる。


「ほう」


 エイリークが感嘆の声を上げる。

 その青い瞳が、真剣な光を帯びていた。


「見事な剣筋だ。だが……あまりに容赦がない。情を欠く戦い方は、敵を増やすものだ」


「あ、あの……兄は、今立っているのがやっとでございます」


 真っすぐな言葉だった。

 一国の王子に怯まず返す娘を前に、エイリークは目を見張った。

 

「……それで大蒜(ベリ・ルク)か」


「レダ様っ!」


 思わず声が裏返る。レダ妃は口元に手を当て、楽しげに笑った。


「イリスの香りでは、消しきれなかったか。だがよい。心ある者は、かすかな香りの向こうに、お前の想いを感じるものだ」


 頬が熱く染まる。

 エイリークは隣で静かに頷いた。


「なるほど。……あの者は、何が何でも倒れるわけにはいかんというわけか」


 コンラッドの足元がふらついた。

 エディシュは椅子を蹴るように立ち上がった。


「申し訳ございません、エイリーク様、レダ様。私、兄のところへ行って参ります」


「そうか」と、レダ妃がうなずく。


「それから……。やはり、このお話はなかったことに……」


 ひざまずき、深く頭を下げた。

 その姿に、一瞬の静寂が訪れる。


「私、エル・カルドへ行きとうございます」


「なんと……」


 レダ妃は驚きに息を呑んだが、すぐにその瞳がやわらいだ。


「……そうか、わかった。エイリーク、すまぬな。これは私の先走りであった」


 エイリークは微笑み、軽く首を振る。


「叔母上、お気になさらず。どうやらこの御婦人は、私の手に負える方ではなさそうだ。――エディシュ殿、もしベラノーシュの近くへ来ることがあれば、遠慮なく立ち寄っていただきたい」


「恐れ入ります」


「兄上にもよろしく。試合の続きも楽しみにしている」


 エディシュは深く一礼し、席を後にした。

 ほんの少し、エイリークの割れた顎の輪郭に未練を残しながら。


 香油の香りが、静かにその後を追った。

次回、第184話 「控え室」 1月20日(火)19:15更新予定

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