第二章 同居人
転居の届けが出ると、確認に行く。
確認といっても、むずかしいことはしない。前の住所を訪ねて、本人が本当に引っ越したかを聞く。本人がいなければ、同じ家に住んでいる人に聞く。聞いた答えを紙に書いて、局に出す。それで終わりだ。
研修のとき、班長の大橋さんは、それを「居住の確認」と呼んでいた。
「疑ってかかる仕事じゃないからね。届けが本物かどうか、念のため見に行くだけ。本人がいなきゃ、家の人に聞けばいい。家の人がそう言うなら、そうなんだから」
六年のあいだに、何十回か行った。たいていは、ドアの向こうに誰も出てこないか、出てきた人が「ええ、もう出ていきました」と言う。それを書く。書いた紙は、翌日には誰の机の上からもなくなっている。
浅井さんの家の分は、朝の組み立てのあとで、大橋さんから渡された。
「三区の、施設のやつ。今日、回れる?」
「回れます」
「家族からの届けだから、まあ、形だけだと思うけど」
大橋さんはそう言って、次の紙を四区の須藤くんに渡した。
*
その朝は、坂の途中から霧が出ていた。
三丁目の角の石の前で、ギアを一段落とした。石の頭が、白く濡れていた。
浅井さんの家の前にバイクを止めると、縁側のガラス戸は閉まっていた。カーテンも引いてある。毎朝ここに来るようになってから、縁側が閉まっているのを見たのは、数えるほどしかない。
わたしは、ほかの家と同じように、郵便受けに電気料金の封筒を入れた。それから、門を開けた。門を開けて中に入るのは、書留のときと、こういうときだけだ。
呼び鈴を押すと、しばらくして、廊下を歩く音がした。
「はい」
引き戸を半分開けたのは、恵美子さんだった。エプロンをして、手に布巾を持っていた。五十代の半ばくらいだろうか。毎朝、門の外から、洗濯物を干している背中は見ていたが、正面から顔を見るのは、これがはじめてかもしれなかった。
「郵便局です。転居の届けをいただいた件で、確認に伺いました」
「ああ」
恵美子さんは、少し笑った。
「ご丁寧に。義母のですよね」
「はい。浅井キヨさんが、こちらから転居されたということで、お間違いないでしょうか」
「ええ。先週から、施設です」
恵美子さんの声は、落ち着いていた。窓口で、同じことを何度も言ってきた人の声だった。
そのとき、恵美子さんの肩の向こうで、何かが動いた。
廊下の奥は暗かった。突き当たりに、台所の明かりがついていて、その手前に、小さな人が立っていた。
キヨさんだった。
寝間着の上に、毛糸のカーディガンを着ていた。両手で、何か四角いものを抱えていた。水槽だった。縁側の、あの亀の水槽だ。重いのか、腕が少し震えていた。
キヨさんは、わたしを見た。それから、少し首をかしげた。
「郵便屋さん」
声は、毎朝と同じだった。
「何か来てる?」
恵美子さんは、振り向かなかった。布巾を持った手を、引き戸の縁にかけたまま、わたしの顔を見ていた。
「施設の住所は、届けに書いたとおりです。郵便は、全部そちらに回してください」
「わかりました」
わたしは、ほかに何を聞けばいいのか、考えた。
研修の資料には、聞くことは書いてあった。本人は転居したか。いつ転居したか。新しい住所は届けのとおりか。聞いてはいけないことは、書いていなかった。聞かなくていいことも、書いていなかった。
家の人がそう言うなら、そうなんだから。
「ありがとうございました」
わたしが頭を下げると、恵美子さんも頭を下げた。
「ご苦労さまです。寒いのに」
引き戸が閉まる前に、もう一度だけ、廊下の奥を見た。キヨさんは、まだ水槽を抱えて、同じところに立っていた。わたしのほうを見ていたのか、引き戸のガラスを見ていたのかは、わからなかった。
*
門を出ると、向かいの小池さんが、郵便受けの前に立っていた。竹ぼうきは持っていなかった。
「真壁さん、今、浅井さんのとこ、入ってった?」
「はい。ちょっと、確認で」
「確認」
小池さんは、わたしの手の中の紙を見た。それから、閉まったままの縁側を見た。
「キヨさん、今朝は出てこないのね」
「寒いですから」
「そうね。寒いものね」
小池さんは、それ以上は聞かなかった。わたしも、それ以上は言わなかった。郵便物の中身と、届けの中身は、人に話してはいけない。それも決まりだった。
坂の上の団地を回っているあいだ、ずっと、紙のことを考えていた。
考えていたのは、キヨさんのことではなかった。紙のどの欄に、どう書くかだった。転居の事実を確認した相手。本人か、同居人か。わたしは、同居人の欄に丸をつけることになる。同居人は、本人は転居したと答えた。わたしはそれを聞いた。
書いたことに、嘘は一つもない。
団地の四号棟の前で、エンジンを止めて、紙に書いた。字は、いつもより丁寧になった。
*
局に戻って、紙を大橋さんの机の箱に入れた。
「どうだった、施設の」
「家の人が、先週から施設だって」
「そう。じゃあ、それで」
大橋さんは紙を見もしないで、パソコンの画面に目を戻した。
翌朝、三区の棚の、浅井さんの家の位置から、細長い紙はなくなっていた。代わりに、キヨさんあての郵便は、棚の端の、転送の箱に入るようになった。
最初の一通は、はがきだった。
宛名は、浅井キヨ様。差出人の欄はなかった。字は、筆ペンで書いた、少し右上がりの字だった。郵便物の中身は、読んではいけない。はがきの裏は、見なかった。
見なかったが、手に取ったとき、表の宛名の横に、小さく何か書き添えてあるのは目に入った。
――縁側で、待っていてください。
わたしは、はがきを転送の箱に入れた。
十時過ぎに、三丁目に上がった。
霧は晴れていた。縁側のガラス戸が開いて、キヨさんがいつもの座布団に座っていた。膝に毛布をかけていた。足元に、水槽が戻っていた。
「郵便屋さん」
わたしは、バイクを止めなかった。止めないで、門の前を、ゆっくり通り過ぎた。
「何か来てる?」
「今日は、何も」
わたしは、そう答えた。
この家に、キヨさんあての郵便は、もう来ない。来たものは、市の反対側に行く。
嘘ではなかった。




