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退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


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9/15

第9話 紙の重さ

 職員室前の廊下には、紙を置くためだけの小さな棚があった。


 普段なら、葵はそこを見ない。


 通り過ぎる時に目に入るのは、印刷機の低い音とか、先生たちの笑い声とか、誰かが提出期限を聞きに来ている姿とか、そういうものだ。棚そのものは、廊下の壁と同じくらい当たり前にそこにあった。


 でもその日の放課後、棚の一段目に並んだ白い紙が、やけにきれいに見えた。


 入部届。


 活動場所変更願。


 校内掲示許可申請。


 欠席届。


 退部届。


 文字は全部、同じ黒だった。


 同じ大きさの紙に、同じような余白で印刷されている。誰かが特別に悲しい顔をして作ったわけではない。誰かが怒りながら置いたわけでもない。学校の中で何かを始めたり、変えたり、休んだり、終わらせたりするために、ただ並べられている。


 それが、嫌だった。


 この前、紙を開かないまま鳴った音は、まだ葵の喉の奥に残っていた。


 帰りたくなかった、と言った千夏の声も、瀬奈の低い音も、梨花が紙へ伸ばさなかった手も。


 それが残っているから、目の前の白い紙がただの手続きでいられることが、余計に痛かった。


 嫌なのに、目を離せなかった。


「葵?」


 少し先で、梨花が振り返った。


 その声で、葵は自分だけ足を止めていたことに気づいた。瀬奈も千夏も、職員室の扉から少し離れたところで待っている。


「ごめん」


 葵は棚から目を戻した。


「何見てたの」


 千夏が聞いた。いつもの調子に近かったけれど、近いだけだった。ちゃんといつもの場所まで届く前に、声が自分で止まってしまう。


「紙」


 葵が言うと、千夏は棚を見た。


 少し遅れて、瀬奈も見る。


 梨花は見なかった。


 見なかったことが、見たことよりもはっきりしていた。


「用事、済ませよう」


 梨花が言った。


 声は静かだった。急いでいるわけではない。でも、ここに長くいたら何かが決まってしまうことを、もう知っているみたいだった。


 四人は、職員室の扉に近づいた。


 真柴先生は、いなかった。


 職員室の奥、窓際の列の席に、先生の鞄だけが置かれている。机の上には赤ペンと、付箋の貼られた本が開いていた。誰かの作文なのか、小説なのか、葵にはわからない。けれど、そのページの前に先生はいない。


「真柴先生、会議だって」


 近くの机にいた副顧問の先生が、軽く顔を上げた。


 四人は、職員室の入口で少しだけ固まった。


 用事というほどの用事ではなかった。少なくとも、そういうことになっていた。


 軽音部の掲示物が古いままになっていて、貼り替えるなら真柴先生に確認しておいて、と言われただけだった。


 それだけのはずだった。


 だから、先生がいないなら帰ればよかった。


 そうすれば、棚の紙も、ただの棚の紙のままでいられた。


「急ぎ?」


 副顧問の先生が聞いた。


 梨花が、ほんの少しだけ首を振る。


「いえ。掲示のことで、確認したかっただけです」


「ああ、掲示ね。じゃあ明日でも大丈夫だと思うよ」


「はい」


 それで終わるはずだった。


 先生はまた机の上の書類に目を戻しかけた。葵も、扉から一歩下がろうとした。


 その時、千夏が棚の方を見た。


 見るだけだった。


 何も言わなかった。


 でも、その見るだけが、音みたいに廊下に残った。


 梨花が、初めて棚を見た。


 退部届の文字は、そこにあった。


 誰も、それを手に取らなかった。


 その日は。


 次の日、四人は別館へ行かなかった。


 行こうとしなかったわけではない。


 放課後になって、葵はいつものように鞄の中から水筒を取り出した。瀬奈はベースケースを机の横から持ち上げた。千夏はスティックケースを肩にかけた。梨花も、練習ノートを鞄に入れた。ここ何日か、譜面台に置いていたあの紙は、折られてそのノートの間に挟まれるようになっていた。


 それももう、部室へ行く前の準備の一つみたいになっていた。


 全部、いつも通りだった。


 教室を出る前までは。


 廊下に出たところで、梨花が言った。


「今日、部室じゃなくてもいい?」


 瀬奈は、すぐには答えなかった。


 千夏も、笑わなかった。


 葵だけが、鞄の紐を握り直した。


「いいと思う」


 そう言ったのは、葵だった。


 自分でも少し驚いた。


 部室に行けば、何かが変わるかもしれない。音を出せば、前の日みたいに、少しだけ広くなるかもしれない。そう思っていた。


 でも、同じくらい、行かなければ守れるものもある気がした。


 弾けなかった一音を、今日の失敗にしないで済む。


 笑えなかった沈黙を、部室のせいにしないで済む。


 四人は本校舎の出入口まで歩いた。


 誰かが後ろから走ってきて、千夏に声をかけた。


「この前の体育館のやつ、すごかったです」


 一年生だった。


 千夏は、いつもならそこで大げさに胸を張る。たぶん、ありがとう、今なら握手券ついてきます、とか言う。


 でもその日は、少しだけ笑って、


「ありがと」


 それだけ言った。


 一年生は悪くない。


 悪くないから、余計に返せる言葉が少なかった。


 出入口の外へ出ると、湿った風が制服の袖を揺らした。


 音を出さなかった日なのに、喉の奥が疲れていた。


 その次の日、四人は別館へ行った。


 別館の入口で外靴を脱ぐ。葵は、並べて置かれている室内シューズに足を入れた。


 踵があるだけで、少しだけちゃんと立たされる感じがする。


 千夏が前に言った「外と中で変えるじゃん」という言葉を、葵は思い出した。


 外用と中用。


 痛くない場所では、痛くない音。


 部室では、部室の音。


 そうできたらよかった。


 でも、梨花が言った通り、同じ足で履く。


 同じ足で外靴を履き、同じ足で室内シューズを履き、同じ足で部室の中に入る。


 だから、外で聞いた言葉も、中に持ち込んでしまう。


 部室で鳴った音も、外へ持って出てしまう。


 練習は、短かった。


 一曲を通したわけではない。イントロを少し合わせて、止めた。サビの前まで行って、止めた。瀬奈のベースが前より聞こえたところで、誰も褒めなかった。褒めたら、その場所に印をつけてしまう気がした。


 千夏がスティックを回しかけて、途中で落とした。


「あ」


 乾いた音が床に転がる。


 千夏があわてて拾おうとして、葵も同時に手を伸ばした。二人の指がぶつかった。


「早押し?」


 千夏が言った。


「何の?」


 瀬奈が真顔で返した。


 ほんの少し、笑いが起きた。


 本当に、ほんの少しだった。


 笑いは、部室の壁に当たって、すぐに小さくなった。


 誰も、その笑いを追いかけなかった。


 追いかければ、続きそうだった。


 続いたら、うれしくなってしまいそうだった。


 うれしくなったら、そのうれしさを次の日にも持っていきたくなる。


 それが今、怖かった。


 梨花は、練習ノートを開かなかった。


 開かないまま、表紙に指を置いていた。


「一回、出よう」


 梨花が言った。


 誰も理由を聞かなかった。


 部室を出て、別館の入口で室内シューズを脱いだ。室内シューズを揃える時、葵は前の日よりも丁寧に左右をそろえた。


 丁寧にそろえたからといって、何かが丁寧に終わるわけではない。


 でも、乱れたまま置いていくこともできなかった。


 四人は、本校舎へ戻る短い校内の階段を上がった。


 階段の途中で、梨花が止まった。


 前にも、ここで止まった。


 その時の梨花は「好きなところまで、削っちゃう気がする」と言った。


 今日は、もっと短かった。


「紙、あるよね」


 千夏が息を止めたのがわかった。


 瀬奈の手が、ベースケースの持ち手を少し強く握る。


 葵は、すぐに何の紙か聞けなかった。


 聞かなくてもわかってしまったからだ。


「退部届」


 梨花が、自分で言った。


 その三文字が、階段の踊り場に落ちた。


 落ちたのに、壊れなかった。


 壊れてくれたらよかった。


 冗談になって、欠片になって、誰かが拾って、これは危ないから捨てよう、と言えたらよかった。


 でも、文字は壊れない。


 紙に印刷される前から、言葉はもう形を持っている。


「梨花」


 瀬奈が呼んだ。


 それだけで、瀬奈が何を言おうとしているのか、葵には少しわかった。


 やめよう。


 待とう。


 もう少しだけ。


 でも瀬奈は、続けなかった。


 続けたら、梨花だけにもう少し持たせることになる。


 梨花が先に言った。


「嫌いになったからじゃない」


 誰も、うなずけなかった。


 うなずいたら、続きを許したことになる気がした。


 梨花は、手すりに触れた。


「嫌いになりたくないから」


 千夏が顔を上げた。


「それ、ずるいよ」


 声が震えていた。


 怒っているようにも聞こえたし、泣くのをこらえているようにも聞こえた。


「ごめん」


 梨花が言う。


「謝るのも、ずるい」


「うん」


 梨花は、逃げなかった。


 逃げないまま、少しだけ目を伏せた。


「好きなものを、最後まで嫌いにしない形があるなら、私はそっちを選びたい」


 葵は、息を吸うのを忘れた。


 名言みたいだ、と前なら千夏が言ったかもしれない。


 でも今は、誰も言わなかった。


 その言葉は、きれいだから重いのではなかった。


 梨花が本当にそう思ってしまっているから、重かった。


「でも」


 瀬奈が言った。


 今度は続いた。


「それ、終わるってことじゃん」


「うん」


「終わったら、嫌いにならないの?」


 梨花は答えなかった。


 答えなかったから、瀬奈の言葉は階段に残った。


 終わったら、嫌いにならないのか。


 終わらせれば守れるのか。


 続ければ壊れるのか。


 どちらも、まだ誰も知らない。


 でも知らないまま、毎日が進んでいた。


 葵は、そのことが怖かった。


 何かを決める前に、時間だけが先に決めてしまう。


 明日になる。


 来週になる。


 机の上に宿題が置かれる。


 雨が降りそうで降らない。


 先生に呼ばれる。


 後輩に声をかけられる。


 別館の鍵を返す。


 そうしているうちに、決めていないことが、決まった形に近づいていく。


「私、止めたい」


 葵は言った。


 言ってから、自分の声が思ったより小さいことに気づいた。


 三人が葵を見た。


 葵は、手すりから少し離れた。


「止めたい。ほんとは、誰かに止めてほしい。そんな紙、取らないでって言ってほしい」


 千夏の顔が、少し歪んだ。


 瀬奈が唇を結ぶ。


 梨花は、葵から目をそらさなかった。


「でも、それを言ったら、梨花にだけ、まだ頑張ってって言うことになる」


 言葉にすると、胸の奥が痛かった。


 葵は、続けた。


「千夏にも、瀬奈にも、私にも。たぶん、それぞれ痛いところがあるのに。誰か一人に、もう少しだけって言えば済むみたいにするの、違うと思う」


 千夏が、息を吐いた。


「葵、今日、ちゃんと言うじゃん」


「言えてない」


「言えてるよ」


 千夏は笑おうとして、やめた。


 そのやめ方が、今日は優しかった。


「私も、止めたい。止めたいけど、止める言葉が全部、軽くなる」


 千夏が言った。


「だって、続けようって言ったあと、じゃあどうやってって聞かれたら、今の私、たぶん面白いこと言って逃げる」


「逃げてない」


 瀬奈が言った。


「逃げてる」


 千夏はすぐに返した。


「逃げてるって、ちゃんと知ってる」


 その言い方が、いつもの千夏に似ていなかった。


 似ていないから、葵は聞き逃せなかった。


 瀬奈が、ベースケースを床に下ろした。


 階段の踊り場に、ケースの底が静かに触れる。


「私は、紙を見たくない」


 瀬奈が言った。


「でも、梨花が一人で見てるのも嫌」


 梨花のまぶたが、少しだけ揺れた。


「だから」


 瀬奈は、そこで少し詰まった。


 瀬奈は、短い言葉を選ぶのがうまい。


 でも今は、短くしたら落ちてしまうものが多すぎるように見えた。


「取るなら、一緒に取る」


 千夏が、目を閉じた。


 葵は、胸の奥で何かが小さく崩れるのを感じた。


 止める人がいなくなった。


 違う。


 止めることを諦めたわけではない。


 ただ、誰か一人を置いていかないことの方を、四人は選んでしまった。


 その優しさが、今日は救いにならなかった。


 でも、捨てることもできなかった。


 翌日の放課後、真柴先生はまた職員室にいなかった。


 会議、という言葉を聞く前から、葵にはなんとなくわかった。


 先生の席に置かれた赤ペンが、前と同じ向きに見えたからだ。もちろん、そんなことで本当にわかるはずはない。それでも葵は、いない、と思った。


「掲示の件?」


 副顧問の先生が、前と同じように顔を上げた。


 梨花は、前と同じようには答えなかった。


「あの」


 声は小さかった。


 でも、逃げていなかった。


「退部届の用紙って、ここでいただけますか」


 職員室の音が、その瞬間だけ少し遠くなった気がした。


 けれど、実際には何も止まっていない。


 印刷機は動いている。誰かが電話に出ている。隣の机では、別の先生が出席簿をめくっている。


 副顧問の先生だけが、少しだけ目を瞬いた。


「退部届?」


「はい」


「軽音部の?」


「はい」


 先生は、すぐに怒らなかった。


 驚きすぎもしなかった。


 ただ、机の横に置いてあるクリアケースを開けた。


「顧問の先生には話してある?」


 梨花が、一瞬だけ黙った。


 葵は、その一瞬で息が止まりそうになった。


「まだです」


 梨花は答えた。


「真柴先生がいらっしゃる時に、出します」


「そう」


 副顧問の先生は、棚の一段目から紙を取り出した。


 退部届。


 一枚。


 それから、もう一枚。


 もう一枚。


 もう一枚。


 四枚の紙が、机の上に重なった。


 音はほとんどしなかった。


 しなかったのに、葵には大きく聞こえた。


 薄い音さえしないのに、昨日の部室より狭く感じた。


 紙の白さは、何も覚えていない顔をしていた。


「書けたら顧問に出して。理由の欄は簡単でいいから」


 先生はそう言った。


 簡単でいい。


 葵は、その言葉を胸の中で繰り返した。


 簡単でいい理由なんて、どこにあるのだろう。


 でも用紙には、理由の欄がある。


 横線が一本引かれている。


 その線の上に、収まるくらいの理由を書かなければならない。


 四人で何週間も鳴らしてきた音も、あの日の「帰りたくなかった」も、その一本の上には乗りきらない。


 それでも、学校の紙は理由を一行で待っていた。


「ありがとうございます」


 梨花が言った。


 お礼を言う場面ではない気がした。


 でも、用紙を受け取ったら、お礼を言うしかなかった。


 梨花は四枚の紙を受け取った。


 千夏が横から言った。


「あ、クリアファイルあります」


 声が少しだけ明るかった。


 明るくしたのではなく、明るい形を借りただけだった。


 千夏は鞄から透明なクリアファイルを出した。いつも歌詞カードやメモを入れている、端が少しだけ丸くなったものだった。


 梨花が、その中に紙を入れる。


 退部届の文字が、透明な表紙の下から見えた。


 透明だから、隠せない。


 透明だから、汚さずに持てる。


 どちらも、今は苦しかった。


「提出は、真柴先生に直接で」


 副顧問の先生が言った。


「はい」


 梨花が答える。


 先生は、そこで少しだけ言葉を探したように見えた。


 でも、探した言葉は出てこなかった。


「まあ、まだ決める前なら、相談して」


 最後にそう言った。


 軽い言葉ではなかった。


 でも、届く場所が少し違っていた。


 決める前。


 葵たちは、決める前にここへ来たのだろうか。


 それとも、決まってしまう前に、止めてほしくてここへ来たのだろうか。


 どちらでもある気がした。


 どちらでもない気もした。


 四人は職員室を出た。


 廊下に戻ると、急に紙の白さが目立った。


 梨花はクリアファイルを胸の前に抱えていた。


 抱えたまま、すぐには歩き出さなかった。


「書く?」


 千夏が聞いた。


 冗談ではなかった。


 瀬奈が、窓の外を見た。


 六月の空は、雨が近い色をしている。


 葵は、クリアファイルの中の一番上の紙を見た。


 退部届。


 紙は、思っていたより薄かった。


 ギターケースより軽い。


 スティックケースより軽い。


 ベースケースよりずっと軽い。


 練習ノートよりも軽い。


 それなのに、梨花の腕は少し沈んで見えた。


「今じゃなくていい」


 瀬奈が言った。


「でも、持って帰るのも嫌」


 千夏が言った。


「家にあるの、無理かも」


 その言い方が、珍しく正直だった。


 葵も同じだった。


 鞄に入れたくなかった。


 家の机に置きたくなかった。


 夜、寝る前に思い出したくなかった。


 朝、鞄に入れ直したくなかった。


 でも、ここで書くのも違った。


 職員室前の廊下で、理由欄に一行を入れる。


 そんなふうに終わりを小さくしたくなかった。


 梨花が、クリアファイルを少しだけ抱え直した。


「明日」


 その声は、薄かった。


 でも、決める声だった。


「明日、書いて出す」


 千夏が、何か言おうとして、やめた。


 瀬奈は、うなずかなかった。


 葵も、うなずけなかった。


 それでも、明日は来た。


 金曜日だった。


 放課後の教室は、いつもより少しだけ早く空いた。


 週末の前の浮いた空気が、廊下の方へ流れていく。誰かが部活の集合時間を叫んでいる。誰かが傘を忘れたと言って笑っている。


 葵は、自分の机の上に置いた白い紙を見ていた。


 理由欄には、短い文字が書かれている。


 音楽性の違い。


 そうは書かなかった。


 活動継続が難しいため。


 四人で相談の上。


 どちらでも足りなかった。


 でも、足りる言葉は用紙の中にはなかった。


 梨花の紙には、もっと短い文字があった。


 瀬奈の紙も、千夏の紙も、それぞれ違うのに、同じくらい足りなかった。


 四人は、教室を出た。


 今日の始まりは教室だった。


 でも、教室から始まった感じはしなかった。


 昨日の棚から続いている。


 一昨日の階段から続いている。


 その前の別館の入口から続いている。


 体育館の音から、もっと前の、初めて四人で合わせた日から、ずっと続いている。


 続いているから、終わらせようとしている。


 そのことが、葵にはまだうまく飲み込めなかった。


 職員室前の廊下に着くと、梨花が透明なクリアファイルを胸の前に抱え直した。


 四人の歩幅は、いつもより少しだけ合わなかった。


 梨花が半歩先にいて、瀬奈がその隣に並びきれず、千夏が一度だけ靴音を遅らせた。葵は、そのずれを直せないままついていった。


 紙はたった四枚だった。


 けれど四人分の鞄よりも重そうに見えた。


 千夏が、扉を見て、それから天井を見た。


 瀬奈は、鞄の肩紐を少しだけ直した。


 葵は、クリアファイルの端を見ていた。


 中身が見えるのが嫌だった。


 見えなければ、まだ少しだけ違うもののふりができた。


 プリントとか、歌詞カードとか、部費の集金袋とか。


 でも、見えている。


 一番上の紙の左上に、黒い文字で退部届と印刷されている。


 梨花が息を吸った。


 千夏が、いつもの声より半音だけ高い声で言った。


「……ほんとに出すんだよね」


 梨花はクリアファイルを抱え直した。


 葵は、まだ何も言えなかった。


 職員室の扉は、目の前にあった。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

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