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退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


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8/15

第8話 紙の外で

 次の週の水曜日、葵は本校舎の入口で、部室へ向かう足を止めていた。


 放課後の本校舎は、まだ一日の熱を残している。


 廊下の向こうでは、誰かが笑っていた。教室のドアが閉まる音。机を引きずる音。部活へ向かう足音。先生に呼び止められた生徒の、少しだけ長い返事。


 その全部が、いつもなら背中を押す。


 教室を出て、本校舎を抜けて、外へ出て、短い校内の階段を下りて、別館へ行く。


 それだけの道が、最近はひとつの手順みたいになっていた。


 手順になると、迷わなくていい。


 迷わなくていいことが、少し怖い。


「葵、待機中?」


 千夏が横に並んだ。


 同じ教室から出てきたはずなのに、少し遅れてきた。手にはスティックケースではなく、授業で使っていたノートを持っている。ページの端に、小さな点がいくつも並んでいた。


「待機中」葵は答えた。「たぶん」


「たぶん待機って、命令待ちの機械みたい」


「千夏も、ノートに点を打ってる」


 千夏は、はっとした顔でノートを胸に寄せた。


「これは点じゃなくて、えーと、未来のドラム」


「すごく点に見える」


「未来って、最初は点だから」


 いつもの千夏なら、そこで自分の言葉に自分で笑って、さらに変な理屈を重ねたと思う。


 でも今日は、そこまでだった。


 千夏はノートの端を指でなぞり、少しだけ口を閉じた。


 葵は、その指を見た。


 点は、たぶんリズムだった。


 教室の机を叩けない代わりに、鉛筆で紙の隅に落とした音。誰にも迷惑をかけないくらい小さくされた明るさ。


「ごめん。今の、変だった?」


 千夏が聞いた。


「変じゃない」


「ほんと?」


「未来って、最初は点だから」


 葵がそのまま返すと、千夏は一度だけ目を丸くした。


 それから、小さく笑った。


「採用された」


 その笑いが、少しだけ廊下に広がった。


 広がって、すぐに戻ってきた。


 向こうから、梨花と瀬奈が歩いてくる。


 梨花の手には、いつもの紙があった。角がさらに丸くなっている。けれど今日は、開いていない。折られたまま、ギターケースのベルトと一緒に握られていた。


 瀬奈は、いつもの袋を持っていなかった。


 水のボトルも、のど飴も、予備のクロスも見えない。


 持っていないことに気づいて、葵は少しだけ驚いた。


 瀬奈が何も持っていないのは、瀬奈が何も考えていないという意味ではない。むしろ逆だ。持っていかない、と決める方が、たぶんずっと難しい。


「ごめん、待たせた」


 梨花が言った。


「待ってない。待機してた」


 千夏が返す。


「なにそれ」


「葵と私、現在待機中」


 瀬奈が少しだけ首を傾けた。


「じゃあ、開始する?」


 その言い方が、いつもより軽かった。


 瀬奈はたぶん、軽くしようとしたのではない。ただ、持ってきすぎないことと同じように、言葉も少しだけ置きすぎないようにしたのだと思う。


 梨花は、本校舎の入口から外を見た。


 別館へ向かう短い階段の方ではなく、まだ廊下の内側に視線を残している。


「今日さ」


 梨花は紙を握り直した。


「同じところから、じゃなくてもいいと思う」


 千夏のノートの点が、少しだけ止まった気がした。


 瀬奈はすぐに聞き返さなかった。


 葵も、言葉の続きを待った。


「サビ前から始めるとか、紙を見てから決めるとか、昨日までみたいに、まず同じ場所を直すとか」


 梨花は、折った紙の端を親指で押さえた。


「それじゃなくていいと思う。一回だけ」


「一回だけ?」


 千夏が言う。


「うん。一回だけ。続け方、変える」


 続け方。


 その言葉は、部室へ行く前の本校舎の入口に置かれると、音より少し大きく聞こえた。


 やめ方ではない。


 終わらせ方でもない。


 続け方。


 葵は、その言葉の軽さと重さを、同時に感じた。


「紙、使わない?」瀬奈が聞いた。


「捨てない」梨花はすぐに言った。「でも、今日は最初に開かない」


「開かない紙」


 千夏が小さく言う。


「折りたたみ式の圧」


「圧って言わないで」


 梨花が言って、少しだけ笑った。


 笑ってから、自分の紙を見た。


「圧なのは、わかってるけど」


 その言葉で、廊下の音が少し遠くなった。


 葵は、梨花の紙を嫌いではない。


 金曜日にも思った。あの紙は、責めるためのものではない。好きな音を、どこで失くしたのか覚えておくためのものだ。


 でも、覚えておこうとするほど、そこから離れられなくなる。


 紙は、道しるべだった。


 いつの間にか、戻る場所になっていた。


「じゃあ、今日は紙の外?」


 千夏が言った。


 いつもの軽い言葉のようで、そうではなかった。


 梨花は少し考えてから、頷いた。


「うん。紙の外」


 四人は、本校舎を出た。


 外の空気は、廊下より少しだけ明るかった。夕方の光が、校舎の壁に薄く伸びている。体育館の方から、ボールの跳ねる音が遠く聞こえた。


 別館へ向かう途中、前を歩く生徒たちの声が流れてきた。


「一年の軽音の子たち、昼休みにまた集まってたよ」


「見た。なんか人増えてた」


「すごいよね。あの子たち、普通に楽しそう」


 悪い言葉は、ひとつもなかった。


 すごい。


 楽しそう。


 普通に。


 その普通さが、今は少しだけ痛い。


 千夏が口を開きかけた。


 たぶん、何かを笑いに変えようとした。


 でも、言わなかった。


 代わりに、ノートの端を軽く叩く。とん、とん、と小さい音が二つ。


 瀬奈が千夏を見た。


 何かを言うのではなく、ただ見た。


 千夏はそれに気づいて、少しだけ肩をすくめる。


「今日、点は二個まで」


「何の制限?」


 瀬奈が聞いた。


「私の中の委員会」


「厳しい委員会だね」


「委員長が瀬奈だから」


「私、そんな委員長になった覚えない」


 瀬奈の返事が早かった。


 千夏が笑った。


 葵も、少し笑った。


 梨花も、紙を握ったまま、口元だけで笑った。


 四人の笑いは、前みたいに大きくはない。


 けれど、途切れなかった。


 別館の入口に着く。


 そこで外靴を脱ぐ。室内シューズを出して、足を入れる。


 金曜日と同じ音がした。


 でも、今日は少しだけ順番が違った。


 瀬奈が先に靴を揃えすぎない。千夏がその隣に少し雑に置く。梨花が紙を脇に挟んで、片手でかかとを直す。葵は最後に足を入れた。


 同じ場所。


 同じ入口。


 でも、同じ始め方ではない。


 部室の鍵を開ける前、梨花が紙をもう一度だけ見た。


 開かないまま。


「今日、最初は、最後のところからやる」


「最後?」


 千夏が聞く。


「うん。いつも詰まる前じゃなくて、終わるところ。そこから戻る」


「逆走」


「逆走じゃない」


「じゃあ、帰り道から登校」


 瀬奈が短く言った。


「それはちょっとわかる」


 葵は言った。


 三人がこちらを見る。


 葵は、自分で言ってから、少しだけ首をすくめた。


「帰る場所から始めたら、行き先が見えるかなって」


 言葉にすると、少し大げさに聞こえた。


 でも、誰も笑わなかった。


 梨花が、小さく頷いた。


「それでいこう」


 部室に入ると、梨花は紙を譜面台に置かなかった。


 畳んだまま、譜面台の下に置いた。


 見ようと思えば見える。


 でも、そこへ視線を落とさなければ見えない。


 それくらいの距離。


 瀬奈は水のボトルを置かなかった。代わりに、自分のベースをいつもより少し前に構えた。


 千夏は椅子に座ってから、すぐに叩かなかった。スティックを両手で持ち、深呼吸みたいに一度だけ上下させる。


 葵はマイクの前に立った。


 最後のところから。


 帰る場所から。


 言葉は、頭の中ではきれいに聞こえる。


 でも、音にするには少し怖い。


「カウント、千夏でいい?」


 梨花が聞いた。


「本日の委員長、許可をお願いします」


 千夏が答える。


 瀬奈がすぐに言う。


「委員長じゃないけど、許可」


 千夏は笑った。


 その笑いは、さっきよりも少しだけ素直だった。


「ワン、ツー」


 最後の小節に近いところから、音が始まった。


 いつもと違う始まり方をすると、部室の形まで少し違って感じられた。


 梨花のギターが、前へ急がない。


 瀬奈のベースが、下から支えるだけでなく、少しだけ輪郭を見せる。


 千夏のドラムは明るい。明るいけれど、誰かの息を急かさない。


 葵は、最後に向かう声を出した。


 いつもなら、サビ前からうまく抜けられるかを考えていた。今日は違う。終わる場所から始めたせいで、声の先に少しだけ空白があった。


 そこへ、声が入った。


 部室の真ん中を越えた。


 窓の方へ少しだけ届いた。


 届いた瞬間、葵は、自分の声が誰かに守られているだけではないことを思い出した。


 声は、守られなくても出る。


 でも、聞いてくれる人がいると、遠くまで行ける。


 最後のところまで通った。


 音が止まる。


 誰もすぐに喋らなかった。


 金曜日の沈黙に似ていた。


 でも、少し違う。


 今日の沈黙には、息を吸う場所があった。


 その沈黙の中で、誰も急いで紙を探さなかった。


 葵は、今の一回が失敗を避けた音ではなく、四人が同じ部屋に戻ってきた音だったと感じた。


「今の」


 千夏が言った。


 声が少しだけ弾んでいる。


「逆走、よかった」


「だから逆走じゃない」


 梨花が言う。


 けれど、否定の声はやわらかかった。


 瀬奈は、自分の弦を見ていた。


「私、少し前に出た」


「出てた」梨花が言った。


 瀬奈の肩が、ほんの少しだけ硬くなる。


 梨花は続けた。


「よかった」


 その一言で、瀬奈の指が止まった。


「よかった?」


「うん。今のベース、置いていかない感じだった」


 瀬奈は、すぐには返事をしなかった。


 ただ、弦の上に置いた指を、少しだけ押さえ直した。


「……じゃあ、次もそれでいく」


「次も、同じにしなくていい」


 梨花が言った。


 言ってから、自分で少しだけ驚いた顔をした。


 同じにしなくていい。


 それは、梨花が今日いちばん言いにくかった言葉かもしれない。


 千夏がスティックを軽く回した。


「同じにしなくていい委員会、発足」


「委員会、多い」


 瀬奈が言う。


「本日限定です」


「限定ならいい」


「いいの?」


 梨花が思わず聞く。


 瀬奈は少し考えてから、頷いた。


「今だけなら」


 今だけ。


 その言葉が、部室を少しだけ自由にした。


 今だけなら、同じにしなくていい。


 今だけなら、紙を開かなくていい。


 今だけなら、支えすぎなくていい。


 今だけなら、明るさを確認しすぎなくていい。


 今だけなら、声は、守られすぎないまま出ていける。


 二回目は、最後の少し前から始めた。


 千夏のカウントが、今度は自然に前へ転がる。瀬奈のベースが、それを下から受ける。梨花のギターは、前に出るのではなく、隣に来る。葵の声は、さっきよりも少しだけ高い場所を通った。


 完璧ではなかった。


 でも、部室は広かった。


 音の中に、四人が少しずつ自分の場所を持っていた。


 終わったあと、千夏がスティックを膝の上で二本そろえた。


「あのさ」


 千夏が言った。


 いつもの冗談の入り口ではない声だった。


「今の、楽しかった」


 それだけ言って、少し照れたみたいに顔をそらす。


 瀬奈が、低く笑った。


「短い」


「大事なことほど短く、って委員会が」


「その委員会は、まあいい」


 瀬奈が言う。


 千夏が目を丸くして、それから笑った。


 葵も笑った。


 梨花も笑った。


 四人で笑った音が、部室の壁に軽く当たって戻ってきた。


 戻ってきた笑いは大きくなかった。


 でも、部室のどこにもぶつからず、四人の間にちゃんと残った。


 葵は、その戻ってきた笑いが好きだと思った。


 まだ、好き。


 金曜日の言葉が、少しだけ形を変えて戻ってくる。


 でも今日は、その言葉を誰も言わなかった。


 言わなくても、部室の中にあった。


 梨花が譜面台の下を見た。


 紙は、まだ折られている。


 開けないでいられる。


 そのことが、今日の小さな勝ちみたいだった。


「もう一回」


 梨花が言った。


 その声は明るかった。


 明るかったから、葵は一瞬だけ安心した。


 三回目。


 同じように、最後の少し前から始める。


 同じにしなくていい、と思って始める。


 けれど、思った瞬間、それはもう一つの決まりになる。


 同じにしないように。


 紙を見ないように。


 支えすぎないように。


 明るくしすぎないように。


 守りすぎないように。


 葵は、自分の声を守りすぎないように、と思った。


 すると、声は少しだけ不安定になった。


 瀬奈がすぐに下から支えようとする。


 支えようとして、少しだけ自分の音を引いた。


 梨花がそれに気づく。


 気づいて、ギターを少し前へ出す。


 千夏が、空いた場所を明るく埋めようとする。


 明るくしすぎないように、という顔で。


 音は崩れなかった。


 崩れなかったのに、さっきの広さは少しだけ縮んだ。


 終わる。


 誰も失敗していない。


 それが、少し苦しい。


「ごめん」


 瀬奈が言った。


「今、私、引いた」


「私が先に出た」梨花が返す。


「その前に、私が明るくしようとした」


 千夏が言う。


 葵は、マイクを握ったまま、少しだけ口を開いた。


 自分の声が不安定になったからだ、と言おうとした。


 けれど、言う前に、全部が並んでしまった気がした。


 瀬奈のせい。


 梨花のせい。


 千夏のせい。


 葵のせい。


 そうやって順番に並べれば、たぶん誰のせいでもなくなる。


 でも、誰のせいでもない場所に置いた瞬間、また四人で同じものを抱えることになる。


「さっきみたいに、できると思った」


 葵は言った。


 責める言葉ではなく、ただ自分の中にあった言葉を置いた。


 梨花が頷いた。


「私も」


 瀬奈も頷いた。


「私も」


 千夏は少し遅れて頷いた。


「私も」


 四つの「私も」が、部室の中に並んだ。


 同じ気持ちなのに、同じ場所には戻れない。


 梨花は譜面台の下に置いた紙を見た。


 手が伸びる。


 途中で止まる。


 紙を開けば、直す場所は見つかる。


 たぶん、すぐに。


 瀬奈が引いた場所。梨花が前へ出た場所。千夏が明るさを置いた場所。葵の声が揺れた場所。


 線を引けば、次は少し良くなる。


 少し良くなったら、また残したくなる。


 残そうとしたら、また狭くなる。


「開けない」


 梨花が言った。


 自分に言い聞かせるみたいだった。


「今日は、開けない」


 千夏が、スティックを軽く握った。


「じゃあ、どうする?」


 いつもの「どうする?」より、ずっと静かだった。


 瀬奈は、しばらく黙ってから言った。


「一回、何もしない」


「何もしない?」


「うん。弾く前に、直さない。今のを片づけない」


 梨花が瀬奈を見た。


「片づけない」


「たぶん、すぐ片づけるから、次が狭くなる」


 瀬奈の声は低い。


 でも、今日はその低さが前に出ていた。


 支える低さではなく、自分の場所を持つ低さだった。


 梨花は、少しだけ息を吸った。


「それ、いい」


 瀬奈は目を伏せた。


「いいなら、いい」


「今の、瀬奈の音っぽい」


 葵が言った。


 瀬奈が顔を上げる。


 言ってから、葵は少しだけ慌てた。


「ごめん、変な言い方かも」


「変じゃない」


 瀬奈は、すぐに言った。


 すぐだった。


「変じゃない」


 二回言った。


 千夏が、静かにスティックを膝に置いた。


「じゃあ、何もしない時間」


 誰も弾かなかった。


 部室の音がなくなる。


 外から、遠くの部活の声が入ってくる。風が窓を少しだけ揺らす。古いアンプの小さなうなりが、今までよりはっきり聞こえた。


 葵は、マイクの前で息を吸った。


 歌わないのに、息だけ吸う。


 その息が、体の奥まで入った。


 今まで、音を出す前から直そうとしていた。


 直す場所を探すことは、悪いことではない。


 でも、直す前に、そこにある音を聞く時間が必要だったのかもしれない。


 梨花が、紙ではなく瀬奈を見た。


 千夏が、ノートの点を思い出したように、スティックの先で空中に小さく点を打つ。


 葵は、その点を見て、少しだけ笑った。


「未来、増えた」


 葵が言うと、千夏が目を細めた。


「増やしていい?」


「今だけ」


 瀬奈が言った。


 千夏は、嬉しそうに頷いた。


「今だけ委員会、強い」


 梨花が笑う。


 その笑いのあとで、四人はもう一度だけ音を出した。


 今度は、何もしない時間のあとだった。


 だから、最初の音が急がなかった。


 瀬奈のベースは、はっきり聞こえた。低いのに、隠れていない。そこにある、とわかる音だった。


 梨花のギターは、その上で少しだけ自由だった。前に出るのではなく、瀬奈の低さを信じて動いた。


 千夏のドラムは、明るかった。


 明るいまま、真剣だった。


 葵の声は、部室の真ん中を越えて、窓の少し手前まで届いた。


 うまいかどうかより先に、四人がいる、とわかった。


 音が終わったあと、千夏が小さく言った。


「今の、帰りたくなかった」


 誰もすぐに返せなかった。


 千夏も、冗談に戻さなかった。


 葵は、その言葉が好きだと思った。


 帰りたくなかった。


 それは、続けたい、より少しだけ弱い。


 でも、今の四人には、その弱さが正しかった。


 梨花は、譜面台の下の紙を見た。


 今度は、手を伸ばさなかった。


「私も」


 梨花が言った。


 瀬奈も頷いた。


「私も」


 葵も頷いた。


「私も」


 それだけで、今日は少しだけ、うまくいった気がした。


 勝ったわけではない。


 それでも、今日はまだ帰りたくなかった、と言えるくらいには、音がここにあった。


 小さくても、ちゃんとあった。


 だからこそ、次の沈黙は重かった。


 もう一度やれば、たぶん近づける。


 もう一度やれば、たぶんどこかがずれる。


 ずれたら、直したくなる。


 直したら、残したくなる。


 残そうとしたら、また狭くなる。


 同じところから始めなくても、同じやり方に戻ってしまう。


 紙を開かなくても、頭の中に紙ができてしまう。


 梨花が、ゆっくり息を吐いた。


「今日、ここまでにする?」


 その言葉に、千夏が少しだけ顔を上げた。


 もう一回、と言いたい顔だった。


 でも、千夏は言わなかった。


 代わりに、スティックケースを開ける。


「ここまで」


 瀬奈が頷いた。


「ここまで」


 葵も、マイクスタンドを下げた。


 片づけの音が始まる。


 シールドを巻く音。


 ギターケースの留め具。


 ベースのストラップを外す音。


 ドラム椅子を戻す音。


 紙は最後まで開かれなかった。


 それが今日の勝ちなのか、負けなのか、葵にはわからなかった。


 部室を出て、別館の入口で室内シューズを脱ぐ。


 室内シューズを揃える時、千夏が少しだけ足を止めた。


「靴ってさ」


 千夏が言った。


「外と中で変えるじゃん」


「うん」


 瀬奈が返す。


「音も、そういうのできたらいいのにね」


 梨花が、外靴に足を入れながら千夏を見る。


「外用と中用?」


「うん。痛くない場所では、痛くない音。部室では、部室の音」


 千夏は言ってから、少しだけ笑った。


「今の、変?」


「変じゃない」


 葵は言った。


「でも、難しい」


 梨花が続けた。


「たぶん、同じ足で履くから」


 千夏は、目を伏せてから、短く笑った。


「それ、ずるい。ちょっと名言っぽい」


「やめて」


 梨花はすぐに言った。


 でも、顔は少しだけ赤かった。


 瀬奈が、外靴の紐を結び直しながら言う。


「名言委員会は?」


「今日は休会」


 千夏が答える。


 四人は別館を出た。


 外の空気は、少しだけ冷えていた。


 本校舎へ戻る短い階段の前で、梨花が足を止めた。


 金曜日と同じ場所だった。


 あの日、梨花は「次も、同じところから」と言えなかった。


 今日は、同じところから始めなかった。


 それで、一度だけ広くなった。


 広くなったから、終わりではない。


 広くなった場所まで、守りたくなってしまう。


「同じところから、じゃなくてもいいと思った」


 梨花が言った。


 千夏も、瀬奈も、葵も、黙って聞いた。


「今日、それで少し戻った。ほんとに」


 梨花は、部室の方を見なかった。


 本校舎の方も見なかった。


 ちょうど、その間を見ていた。


「でも、このまま同じやり方で続けたら」


 紙を持つ手が、少しだけ動いた。


「好きなところまで、削っちゃう気がする」


 誰も、すぐには返事をしなかった。


 その言葉は、部室の中ではなく、外の空気の中に置かれた。


 置かれた瞬間、思ったよりも静かに広がった。


 好きなところまで、削る。


 嫌いな場所を直しているつもりだった。


 うまくいかない場所を削っているつもりだった。


 けれど、本当に削れていたのは、好きなところかもしれない。


 千夏が、スティックケースを握り直した。


 瀬奈は、何かを言おうとして、やめた。


 葵も、声を出せなかった。


 今日、音は一度だけ広くなった。


 瀬奈の音が聞こえた。


 千夏の明るさが逃げなかった。


 梨花は紙を開かなかった。


 葵の声は、窓の少し手前まで届いた。


 だから、大丈夫。


 そう言えたら、どれだけ楽だろうと思う。


 でも、言えなかった。


 大丈夫ではないからではない。


 大丈夫にしたいものが、まだ部室に残っているからだ。


 梨花が階段を上がり始めた。


 瀬奈が続く。


 千夏が、一段目で一度だけ振り返った。


 別館の入口は、もう閉まっている。


 紙の外で鳴った音は、たしかにあった。


 でも、それを残す方法は、まだ見つかっていない。


 葵は最後に一段目へ足をかけた。


 同じところから始めなくても、同じ痛みに戻ってしまうなら。


 好きなまま残すためには、どこから始めればいいのだろう。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

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