第7話 まだ、同じところ
その週の金曜日、別館の入口で、葵は自分たちの靴音が前より少し揃っていることに気づいた。
外靴を脱ぐ音。
室内シューズを床に置く音。
かかとを入れて、つま先を一度だけ鳴らす音。
梨花、瀬奈、千夏、葵。
誰が先に決めたわけでもないのに、順番はだいたい決まっていた。決まってしまった、という方が近い気もした。
「入社三日目」
千夏が小さく言った。
声は明るかったけれど、前みたいに廊下いっぱいに広がるほどではない。入口の内側で、靴音と一緒に止まるくらいの大きさだった。
「まだ株式会社なの」
梨花が返す。
「週末なので、そろそろ福利厚生を要求したい」
「なにそれ」
「サビ前支社、休憩室が狭い」
葵は少し笑った。
笑いながら、千夏がこちらを見たことにも気づいた。
今の冗談で大丈夫か、確かめるみたいな目だった。
火曜日なら、千夏はもう一つ重ねていた。水曜日なら、自分で自分の言葉を拾って、別の冗談にしていた。昨日は、言いかけてやめた。
今日は、ひとつだけ置いた。
それが、今週の時間の長さだった。
梨花はギターケースを肩にかけ直した。片手には、折り目の多い紙がある。角が少し丸くなっていた。
月曜日、その紙には赤い線が増えた。
火曜日、線の横に小さな丸がついた。
水曜日、丸の下に青い字が増えた。
木曜日、梨花は一度だけ紙を伏せて、紙を見ないまま弾いた。
それでも金曜日には、また紙を持っていた。
直すための紙。
忘れないための紙。
好きな音を、嫌いにならないための紙。
葵は、その紙が嫌いではなかった。
紙があると、梨花がどれだけ本気で残そうとしているのかわかる。どこを責めたいのではなく、どこを失いたくないのかが見える。
ただ、今週の途中から、葵はその紙を見るたびに少しだけ息を浅くしていた。
月曜の赤い線は、まだ道しるべだった。
火曜の丸は、成功した場所の目印だった。
水曜の青い字は、誰かがつまずく前に置かれた手すりだった。
木曜には、手すりが少し多すぎて、どこに手を置けばいいのかわからなくなった。
「今日、紙見る?」
瀬奈が聞いた。
いつもより少し早かった。部室に入る前に、もう確認が始まっている。
梨花は紙の端を親指でなぞった。
「最初だけ。途中で伏せる」
「了解」
瀬奈は短く頷く。手には、ペットボトルが二本と、のど飴の袋と、予備の小さなクロスがあった。
「瀬奈、また荷物増えた?」
千夏がのぞき込む。
「増えてない」
「いや、火曜日より装備が強い」
「火曜日と比べないで」
「火曜の瀬奈も強かった」
「だから比べないで」
瀬奈の返事はいつもの低さだった。
でも、葵には、瀬奈が袋を持つ指に少し力を入れたのが見えた。
足りないより、多い方がいい。
誰かが困る前に、全部置いておいた方がいい。
そういう瀬奈の良さが、今週は少しずつ部室の床に増えていた。水の本数みたいに。クロスの枚数みたいに。誰も頼んでいないのに、頼れる形で。
四人は部室へ向かった。
別館の廊下は、本校舎より少し静かだ。金曜日の放課後のざわめきも、ここまで来ると薄くなる。楽器ケースの金具が揺れる音と、室内シューズの底が床を擦る音だけが残った。
葵は、その音が嫌いではなかった。
むしろ、少し安心した。
同じ入口。同じ廊下。同じ部室。
同じ場所へ来ることは、まだ四人が集まっている証拠だった。
鍵を開けると、部室の空気が少しだけ遅れてこちらへ来た。
木の匂い。古いアンプの匂い。窓際に残った夕方の光。譜面台の金属の冷たさ。
葵はマイクスタンドを立てながら、月曜日のことを思い出した。
月曜日、最初の一回は良かった。
火曜日、良かったところを残そうとして、少しだけ硬くなった。
水曜日、紙を見ないでやってみたら、一瞬だけ広くなった。
木曜日、その一瞬をもう一度探して、全員が少しずつ自分の場所を狭くした。
金曜日。
今日は、まだ始まっていない。
なのに、もう少し疲れている。
「最初、紙ありで」
梨花が言った。
誰も反対しなかった。
千夏がドラム椅子に座る。座る前に、椅子の位置を一度だけ戻した。いつもなら、少し大げさに「本日の椅子、着席を許可します」とか言いそうなところだった。
言わなかった。
瀬奈がベースを構え、足元のケーブルを軽く整える。整えたあと、もう一度だけ見た。
梨花は紙を譜面台に置いた。紙の上には、今週の四日分が重なっている。
千夏軽く。
瀬奈近く。
葵、前に置きすぎない。
ギター残す。
言葉は、どれも間違っていなかった。
間違っていない言葉が増えるほど、葵は、自分がどこで息を吸えばいいのかを考えるようになっていた。
「一回、通す」
梨花の声に、千夏が頷く。
「ワン、ツー」
音が入った。
金曜日の一回目は、崩れなかった。
梨花のギターは、紙に書いた通りに前へ出すぎない。瀬奈のベースは近くにいて、葵の声の下に低く残る。千夏のドラムは軽い。軽いけれど、逃げていない。
サビ前。
葵は、自分の声を少しだけ前へ置いた。
遠くへ投げるのではなく、誰かの手の届くところに置く。
声は、ちゃんと乗った。
最後までいった。
終わったあと、千夏がスティックを握ったまま、口を開きかけた。
たぶん、三センチ、と言おうとした。
でも言わなかった。
代わりに、小さく息を吐く。
「今の、悪くなかった」
千夏の声は静かだった。
梨花は紙を見た。
「うん。悪くなかった」
「悪くなかった、より上は?」
千夏が少しだけ笑う。
梨花はペンを持ったまま考えた。
「残したい、くらい」
その言葉で、部室の空気が少しだけ柔らかくなった。
残したい。
悪くないより、ずっといい言葉だった。
瀬奈も、ベースの弦から指を離して頷いた。
「今の葵、近かった」
「近い?」
「うん。遠くなかった」
葵はマイクを握ったまま、自分の手を見た。
遠くなかった。
それは、褒め言葉に聞こえた。
千夏がスティックを軽く鳴らす。
「じゃあ、残したい金曜日、二回目いきますか」
「名前をつけない」
梨花が返す。
「じゃあ無名の金曜日」
「もっと名前っぽくなった」
瀬奈が言う。
葵は笑った。
今の笑いは、入口で笑った時より自然だった。
やっぱり、四人でいると戻るものがある。
戻るものがあるから、戻したくなる。
戻したくなるから、もう一回やる。
「もう一回」
梨花が言った。
千夏のカウントが入る。
二回目は、少しだけ丁寧だった。
丁寧になった分、音の端に線が引かれた。梨花は引きすぎない場所を守り、瀬奈は近くいることを守り、千夏は軽く逃げないことを守った。
葵は、遠くならないように歌った。
遠くならないように、と思った瞬間、声の行き先が少しだけ近くなりすぎた。
自分の前で止まる。
壁までは届く。音程も外れない。呼吸も崩れない。
でも、さっき誰かの手の届くところに置けたものが、今度は自分の指先に引っかかったままだった。
終わる。
悪くない。
悪くない、という言葉が、部室の中で少しだけ硬くなる。
「もう一回」
梨花が言った。
三回目。
瀬奈が近くなりすぎた。
「ごめん」
瀬奈がすぐ言った。
「今の、私が前に出すぎた」
「出すぎってほどじゃない」
梨花が言う。
「でも葵の下、少し詰まった」
瀬奈は自分で続けた。
誰かに言われる前に、もう直す場所を見つけていた。
「次、下がる」
「下がりすぎなくていい」
「うん」
瀬奈は頷いた。
その頷きが、少しだけ小さかった。
四回目。
千夏のカウントが、今度は明るくなった。
明るくなった瞬間、千夏の目が瀬奈を見た。
今の明るさで大丈夫か。
そう聞く前に、瀬奈が小さく頷いた。
それを見てから、千夏が叩いた。
音は悪くなかった。
でも、確認してから始まる明るさは、少しだけ部屋に遅れて届いた。
五回目。
梨花が紙を伏せた。
「見ない」
自分に言うみたいに言った。
千夏がすぐにカウントを入れる。
その一回は、また少しだけ広かった。
紙がない分、梨花のギターが呼吸した。瀬奈のベースは、近いのに自分の線を消さなかった。千夏のドラムは、誰かに許可を取る前に明るく前へ出た。
葵の声も、さっきより外へ出た。
通った。
短いけれど、ちゃんと通った。
音が止まる。
誰もすぐに喋らなかった。
言葉を入れると、その一回が形になってしまう気がした。
形にすれば、残せる。
でも、形にした瞬間、また狭くなる。
葵は、マイクの前で息を整えた。
梨花は伏せた紙を見ないまま、ペンを握っている。
書きたいのを我慢している手だった。
瀬奈は水のボトルを取ろうとして、やめた。今渡すと、音の余韻を片づけてしまうと思ったのかもしれない。
千夏はスティックを回しかけて、最後まで回した。
くるり、と一周。
それだけで、葵は少し笑った。
千夏も笑った。
「今の」
梨花が言った。
紙を見ないまま。
「今のは、たぶん、紙に書かない方がいい」
瀬奈が顔を上げる。
「残さないの?」
「残したい」
梨花はすぐに答えた。
すぐだった。
「でも、書いたら、さっきみたいになる気がする」
部室が静かになった。
葵は、梨花の手を見た。
ペンを握る手。
何度も線を増やしてきた手。
その手が今、書かないことを選ぼうとしている。
好きな音を残すために書いてきた梨花が、好きな音を壊さないために書けなくなっている。
そのことが、葵には少し怖かった。
「じゃあ」
千夏が言った。
声は、いつもの明るさより少しだけ低かった。
「体で覚える?」
「体育会系みたい」
梨花が言う。
「ギターも、まあまあ体育」
「まあまあ?」
「ケース重いし」
瀬奈が小さく言った。
「ベースも重い」
「ドラムは分解されてるから実質軽い」
「嘘」
瀬奈が即答する。
その速さに、千夏が笑った。
葵も笑った。
梨花も、少しだけ笑った。
四人で笑ったあと、誰もすぐに次を始めなかった。
少しだけ、部室が広くなったままだった。
けれど、その広さは長く続かなかった。
廊下の向こうから、誰かの声がした。
「一年の子たち、昼休みにまた合わせてたって」
「え、あの曲?」
「たぶん。なんか、もう普通にライブみたいだったらしいよ」
通りすがりの声だった。
悪意はなかった。
ただ、学校の中を流れている普通の話題だった。
それなのに、部室の広さが一度だけ止まった。
梨花の手が、ペンを握り直す。
瀬奈が水のボトルを一本、葵の近くへ置いた。
千夏はスティックを膝に置いて、いつもの顔を作ろうとした。
「一年、元気だねえ」
明るい声だった。
明るい声にしようとした声だった。
瀬奈が千夏を見る。
千夏は笑ったまま、少しだけ肩をすくめた。
「いや、ほんとに。元気はいいこと」
「うん」
梨花が言った。
「いいこと」
その声が、痛いほど正しかった。
いいことだから、何も責められない。
上手いことも、楽しそうなことも、誰かに話題にされることも、全部いいことだった。
いいことに、四人が少しずつ傷ついている。
葵は、水を飲んだ。
喉は乾いていない。
けれど、飲まないと声が出なくなりそうだった。
良い一回が出たから、平気になると思っていた。
でも違った。
良い一回が出たから、その良さを守ろうとして、次の一回がさらに怖くなる。
負けているだけなら、悔しいと言えたかもしれない。
自分たちが全然だめなら、もっと練習しようと言えたかもしれない。
けれど、さっきの音は好きだった。
好きだったから、雑に壊せなかった。
雑に壊せないから、全員が少しずつ丁寧になりすぎた。
「もう一回」
梨花が言った。
紙はまだ伏せたままだった。
六回目。
今度は、全員が少しだけ上手かった。
梨花は書かないように弾き、瀬奈は支えすぎないように支え、千夏は明るくしすぎないように明るくした。
葵は、届かせすぎないように歌った。
誰も間違えなかった。
誰も邪魔しなかった。
誰も、ひとりで前へ出すぎなかった。
だからこそ、終わったあと、葵には部室の空気が少し薄く感じられた。
上手くなっている。
そのことが、ちゃんとわかる。
わかるのに、胸の中のどこかが追いつかない。
直す場所が減るほど、立てる場所まで減っていくみたいだった。
「今の、悪くない」
梨花が言った。
「悪くない、禁止にしない?」
千夏が笑って言う。
いつもの調子に近かった。
梨花が少しだけ眉を上げる。
「じゃあ、なんて言うの」
「えーと」
千夏は考えるふりをした。
少し長く考えた。
前なら、すぐに変な言葉を出していたはずだった。
「まだ、好き」
千夏が言った。
部室の空気が止まった。
千夏自身も、言ってから少し驚いた顔をした。冗談に戻せる場所を探すみたいに、視線が一度だけ床へ落ちる。
でも、戻さなかった。
「今の、まだ好き」
もう一度、今度は少しだけ小さく言う。
瀬奈が、ゆっくり頷いた。
「うん」
梨花は、伏せた紙を見た。
それから、ペンを置いた。
「私も」
葵はマイクを握ったまま、息を吸った。
何か言いたかった。
でも、言葉にすると、今度は葵が形にしてしまう気がした。
だから、頷くだけにした。
声にはならなかったけれど、さっきの音は同じ形で喉の奥に残っていた。
まだ、好き。
それは、金曜日の部室に置ける言葉として、ぎりぎりの明るさだった。
好きだから大丈夫、ではない。
好きだから、雑に終われない。
雑に終われないから、息をする場所がまた少し狭くなる。
それでも、まだ好き。
それだけで、四人はもう一回だけ音を出した。
七回目は、いちばん静かに始まった。
千夏のカウントが小さく、瀬奈のベースが低く、梨花のギターが紙の外で少し震えた。
葵の声は、前へ出た。
出たけれど、どこへ行くのかは、やっぱりわからなかった。
部室の真ん中まで届いて、そこで立ち止まる。
その場所には、四人全員がいた。
近すぎるくらいに。
音が終わる。
千夏は何も言わなかった。
瀬奈も、水を渡さなかった。
梨花は紙を開かなかった。
葵は、マイクの前で息を吐いた。
悪くなかった。
好きだった。
それなのに、息が足りなかった。
好きなまま続ける方法を、みんなで探している。
それなのに、探すたびに、好きなままいられる場所が少しずつ狭くなっていく。
誰かが壊したのではない。
誰かが怠けたのでもない。
全員が大事にしようとしているから、音の周りに手が増えていく。
増えた手は優しい。
優しいのに、呼吸の場所を減らしていく。
「今日は、ここまでにしよう」
梨花が言った。
千夏が、ほんの少しだけ口を開いた。
もう一回、と言いかけたのだと思う。
でも、言わなかった。
「うん」
千夏はスティックを置いた。
「ここまで」
瀬奈が頷き、空いたボトルをまとめる。
葵もマイクスタンドを下げた。
片づけの音が、いつもより大きく聞こえた。
シールドを巻く音。
ケースのファスナー。
譜面台を畳む音。
ドラム椅子の高さを戻す音。
梨花が紙を折る音。
その音が、今週でいちばん細かった。
部室を出る時、千夏が鍵を持つ梨花の横に並んだ。
「金曜日、終了」
明るく言った。
明るいのに、ふざけてはいなかった。
梨花は鍵を閉めた。
「うん」
瀬奈が袋を持ち直し、葵の方を見る。
「のど飴、持って帰る?」
「今日はいい」
「そっか」
瀬奈はそれ以上勧めなかった。
それも、今週覚えた距離だった。
別館の入口で、四人は室内シューズを脱いだ。
来た時と同じ順番で、音が鳴る。
でも、帰りの靴音は揃わなかった。
梨花が少し先に外へ出た。
瀬奈が袋の口を直すために遅れた。
千夏がその間で、どちらにも合わせられないみたいに立った。
葵は最後に外靴を履いた。
外の空気は、部室より少し冷たかった。
本校舎の方から、放課後の声がまだ聞こえる。遠くで誰かが笑い、どこかの部活の笛が鳴った。
学校は、普通に金曜日を終えようとしている。
四人だけが、まだ同じところに残っている気がした。
本校舎へ戻る短い階段を上がる前、梨花が一度振り返った。
何かを言おうとした顔だった。
千夏も、瀬奈も、葵も、少しだけ待った。
次も、同じところから。
そう言えば、たぶん済むはずだった。
昨日までなら、そう言っていた。
明るくても、静かでも、言えば次に進める言葉だった。
けれど梨花は、何も言わなかった。
代わりに、小さく頷いて階段を上がる。
瀬奈が続いた。
千夏も続いた。
葵は、最後に一段目へ足をかけた。
同じところから始めるたびに、少しずつ上手くなっている。
少しずつ、優しくなっている。
少しずつ、誰も間違えなくなっている。
それなのに、部室の中で息をする場所だけが、少しずつ減っていた。
好きじゃなくなったから、離れていくのではない。
好きなまま残す方法が、少しずつ狭くなっている。
葵は、梨花の背中と、瀬奈の袋と、千夏のスティックケースを見た。
誰もひとりで悪くない。
誰もひとりで止められない。
そのことが、金曜日の夕方に、いちばん静かに残った。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




