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退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


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6/15

第6話 同じところから

 次の日の昼休み、葵のノートには、同じ言葉が二度書かれていた。


 同じところから。


 一度目は、授業の板書の端に、先生の字と同じ大きさで。二度目は、ページの下の余白に、少しだけ小さく。


 どちらも、書いたつもりはなかった。


 黒板では、古文の助動詞が横に並んでいる。先生が「未然形」と言うたびに、葵の頭の中では、部室のサビ前が小さく鳴った。


 まだ起きていないこと。


 まだ、そうなっていない形。


 意味を考えようとして、葵はシャープペンを止めた。


 右斜め前から、消しゴムの角が飛んできた。


 机の端に当たって、ころん、と止まる。


 顔を上げると、千夏が半分だけ振り向いていた。先生から見えない角度で、口だけ動かす。


 消しゴム。


 葵はそれを拾い、ノートの上に置いた。


 千夏の視線が、ノートの端に落ちる。


 同じところから。


 その字を読んだ千夏は、少しだけ目を細めた。それから、口を小さく動かす。


 「社訓?」


 葵は首を横に振った。


 千夏は消しゴムを受け取ると、今度は自分のノートの端に何かを書いた。授業が終わるまで、葵にはそれが見えなかった。


 チャイムが鳴り、教室が一気にほどける。


 椅子が引かれ、弁当箱のふたが開き、誰かが購買のパンを持って走っていく。いつもの昼休みの音が、窓際の列まで押し寄せてきた。


 千夏が椅子ごと少しだけ後ろへずれた。


「見ます?」


「何を」


 千夏は、自分のノートの端を葵に向けた。


 そこには、同じところ株式会社、と書いてあった。


「入社した覚えない」


「私もない。でも昨日から出勤してる」


「どこに」


「サビ前支社」


 葵は笑った。


 ちゃんと笑えた。


 千夏も笑った。けれど、その笑いのあと、すぐにペン先で自分のノートをこつんと叩いた。


「今日も、そこからだよね」


「たぶん」


「まあ、やるしかないか」


 千夏は軽く言った。


 軽く言ったはずなのに、その言葉は机の上に少し重く残った。


 葵は弁当箱の包みをほどいた。箸を持つ。卵焼きをつまむ。口に入れる。


 甘い味がした。


 でも、甘いとわかっただけで、味がどこかへ届く前に消えてしまった。


 千夏が、わざとらしく箸を掲げる。


「本日の会議議題。サビ前支社の労働環境について」


「会議にしないで」


「じゃあ面談」


「もっと嫌」


「そっか。じゃあ昼食」


「最初からそれ」


 また笑えた。


 笑えると、ほんの少しだけ、昨日の部室が遠くなる。


 その遠さがありがたくて、少しだけ怖かった。


 遠くなったはずの部室は、次の瞬間にはまたノートの端に戻ってくる。


 同じところから、という言葉だけが、昼休みの机までついてきていた。


 放課後、千夏はいつもより早く席を立った。


 スティックケースを肩にかけ、机の横に立つ。その動きが、どこか準備運動みたいだった。


「行こ」


「うん」


 葵が鞄を持つと、千夏は一度だけ窓の外を見た。別館の屋根が、昼より少し暗い色になっている。


「今日、部室ちょっと広いといいね」


「二センチ?」


「三センチ希望」


「控えめ」


「欲張ると怒られるから」


 誰に、と聞こうとして、葵はやめた。


 梨花に怒られる、という冗談なのか。


 音に怒られる、という話なのか。


 聞くと、どちらかに決まってしまう気がした。


 本校舎の入口付近では、梨花と瀬奈が先に待っていた。


 梨花はギターケースを肩にかけ、片手に小さく折った紙を持っている。昨日の譜面よりも、折り目が多い。何度も開いて、何度も閉じた紙の形だった。


 瀬奈の手には、ペットボトルの袋と、のど飴の小さな袋があった。


「早いね」


 葵が言うと、梨花は紙を持った手を少しだけ上げた。


「昼休みに少し見直した」


「少し?」


 千夏が聞く。


「少し」


 瀬奈が、横から静かに言った。


「五時間目の休みも見てた」


「瀬奈」


「事実」


「言わなくていい事実」


 千夏が袋をのぞき込む。


「瀬奈、それ水と飴?」


「うん。葵の喉用と、千夏の糖分用」


「私、糖分担当?」


「よく動くから」


「ベースに栄養士がいる」


「いない」


 瀬奈は短く返して、袋の持ち手を握り直した。


 その手が少し赤くなっている。重いほどの量ではない。それでも瀬奈は、四人分より少し多く持ってきていた。


 足りないことが、怖いみたいに。


 廊下の向こうから、別の生徒たちの声が近づいてきた。


「一年の動画、また回ってたよね」


「あれ、普通に上手くない?」


「軽音、今年強いんじゃない?」


 笑い混じりの声だった。


 誰かを刺そうとしている声ではない。廊下に落ちている普通の話題だった。


 それでも四人は、同時に少しだけ黙った。


 梨花は紙を折り直した。瀬奈は袋を持つ手に力を入れた。千夏は一度だけ息を吸って、それから明るく言った。


「強いのはいいこと。学校の治安がいい」


「治安?」


 葵が聞く。


「音楽治安」


「なにそれ」


「上手い人がいる町は、たぶん平和」


 千夏の声は、ちゃんと明るかった。


 でも、誰もその話を続けなかった。


 四人は本校舎を出た。


 外の空気は昨日より少し湿っていた。校舎の影に入ると、制服の袖に冷たい風が触れる。短い学校内の階段を下りる間、楽器ケースの金具が小さく鳴った。


 千夏が前を歩き、二段目で一度だけ振り返る。


「本日もサビ前支社へご案内します」


「案内しなくていい」


 梨花がすぐ返した。


 その返しの速さに、千夏は少しだけ嬉しそうにした。


 別館の入口で、四人は外靴を脱いだ。室内シューズに履き替える音が、狭い入口に順番に重なる。


 千夏がかかとを床につけて、軽くつま先を鳴らした。


「よし。足元よし」


「今日は足元じゃなくて音」


「足元も音の一部です」


 梨花は少しだけ目を細めた。


「それは、そう」


 千夏が、勝ったみたいな顔をする。


「やった」


 部室の鍵を開けると、昨日と同じ空気があった。


 同じ匂い。同じ床。同じアンプ。同じ窓。


 葵はそれを見て、少しだけ息を吸った。


 同じ場所は、安心できるはずだった。


 千夏がドラム椅子に座る。瀬奈が水を机の端に並べる。梨花が譜面台に紙を置く。葵がマイクスタンドを自分の高さに合わせる。


 全部、昨日と同じ順番だった。


 同じ順番で動けることが、前は安心だった。


 今日は、誰かが合図を出す前から体が戻ってしまうことの方が怖かった。


 梨花の紙には、線が増えていた。


 サビ前、と書かれた文字の下に、二小節前、一小節前、葵入り、千夏軽く、瀬奈残す、ギター引きすぎない、と小さな字が並んでいる。


 直すための言葉が、紙の上にきれいに詰まっていた。


「昨日の最後のところから」


 梨花が言った。


 その声に、誰も迷わず頷いた。


 千夏がスティックを持ち、二回だけ空中で小さく振る。


「ワン、ツー」


 音が入る。


 最初の一回は、思っていたよりも近かった。


 梨花のギターは昨日ほど硬くない。瀬奈のベースは薄くなりすぎず、低いところに残っている。千夏のドラムは、軽さを忘れずに前へ進んだ。


 サビ前。


 葵は、入り口を探しすぎないようにした。


 探さず、置く。


 そう思った瞬間、声がすっと入った。


 部室の真ん中に、ほんの少しだけ通り道ができる。


 昨日の二センチより、少しだけ広い。


 最後まで合わせきったあと、千夏がスティックを上げた。


「三センチ!」


 葵は笑った。


 瀬奈も、口元だけ少しゆるめた。


 梨花は紙を見て、それから顔を上げた。


「今の千夏のカウント、よかった」


 千夏の目が丸くなる。


「え、私?」


「うん。軽いけど、置いていかなかった」


「梨花が褒めた」


「褒めたっていうか、事実」


「事実でも嬉しい」


 千夏はスティックを両手で握って、小さく胸の前に寄せた。


 その仕草が、ふざけているようで、少しだけ本気に見えた。


 部室が一瞬、ちゃんと部室に戻った気がした。


 誰かを責める場所ではなく、四人で音を出す場所に。


 梨花はペンを持ったまま、紙の端に短く印をつけた。


「もう一回。今の、忘れないうちに」


 葵は頷いた。


 千夏もすぐに構える。


 その時、瀬奈が低く言った。


「梨花」


「なに」


「今の、楽しかった」


 梨花の手が止まった。


 瀬奈はベースのネックを見たまま続ける。


「ちゃんと、少し広かった」


「うん」


 梨花は短く返した。


 それから、少しだけ息を吸った。


「だから、直したい」


 紙の上で、ペン先が止まる。


「好きなままでいたいから、直したいんだよ」


 部室の中が、静かになった。


 強い言葉ではなかった。大きい声でもなかった。


 でも葵には、その言葉が、昨日から増え続けていた印の下にあるものを、初めて見せた気がした。


 梨花は、音を支配したいわけではない。


 勝ちたいだけでもない。


 自分たちの音を、嫌いになりたくないのだ。


 千夏が、スティックを持ったまま小さく頷いた。


「じゃあ、直しましょう」


 いつもの軽い声より、少し低い。


 瀬奈も頷く。


「うん」


 葵はマイクの前に立った。


「もう一回」


 今度は葵が言った。


 梨花がこちらを見た。


 その目が、少しだけ驚いて、それからすぐに真剣になる。


 千夏のカウント。


 音が入る。


 さっきよりも、みんなが少しだけ前にいた。


 梨花は引きすぎない。瀬奈は消えない。千夏は軽さで逃げない。葵は置くだけではなく、少しだけ届かせようとした。


 サビ前の一拍に、四人の息が重なる。


 短い。


 やっぱり短い。


 けれど、そこには確かに熱があった。


 終わったあと、誰もすぐに喋らなかった。


 千夏が静かにスティックを膝に置き、瀬奈がベースの弦を手のひらで止める。梨花は紙を見なかった。


 葵は、マイクの前で息を吐いた。


 今のなら、忘れたくない。


 そう思った。


 思った瞬間、梨花が紙に手を伸ばした。


「今の、二小節前からの入りがよかった。千夏はさっきのカウント。瀬奈は今の残り方。葵は、置くより少し前。ギターはここで引きすぎない」


 ペンが走る。


 今あった熱が、線になる。


 線になれば、もう一度たどれる。


 たどれるはずだった。


「もう一回」


 梨花が言う。


 もう一回。


 音が入る。


 今度は、千夏のカウントが少し丁寧になった。丁寧になったぶん、さっきの勢いが少しだけ後ろへ下がる。


 瀬奈のベースは、残り方を意識しているのがわかる。消えないように、でも邪魔しないように。低い音が、部室の床に薄く広がった。


 梨花のギターは、決めた場所で引く。


 葵は、置くより少し前に出ようとした。


 その少し前が、難しかった。


 前に出ようとすると、梨花のギターを踏む気がする。下がると、瀬奈が作った場所の奥に自分が沈む。千夏のハイハットが軽く押してくれるのに、その押し方を意識した瞬間、声が少し硬くなった。


 最後まで外れなかった。


 崩れもしなかった。


 けれど、さっきの熱は、同じ形の中に戻ってこなかった。


「もう一回」


 梨花が言った。


 もう一回。


 今度はサビ前の一小節前から。


 もう一回。


 今度はカウントだけ。


 もう一回。


 今度は葵の入りだけ。


 もう一回。


 今度は瀬奈のベースを少し見えるように。


 もう一回。


 今度は千夏の音量を半分だけ上げる。


 もう一回。


 今度は梨花が引きすぎないように。


 直すための言葉が増えていく。


 増えるたびに、誰かが少しだけ自分を小さくした。


 千夏は、カウントの前に余計なことを言わなくなった。


 瀬奈は、水を渡すタイミングまで、音を止めた瞬間に合わせるようになった。


 梨花は、紙を見る回数が増えた。


 葵は、声を出す前に、自分の入り口を探す時間が長くなった。


 誰も間違っていない。


 それが、いちばん息苦しかった。


「ごめん、今の私、遅かった」


 葵が言うと、瀬奈がすぐに首を振った。


「遅くない。私が下がりすぎた」


「下がりすぎっていうか、ベースは残ってた」


 梨花が紙から顔を上げる。


「でも、残し方が少し遠い。葵を支えるなら、もう少し近くていい」


「近いと邪魔にならない?」


「ならない。たぶん」


「たぶん」


 瀬奈は小さく繰り返した。


 その声が、少しだけ薄かった。


 千夏がスティックをくるりと回そうとして、途中でやめる。


「じゃあ、私がちょっと明るくする」


「明るく?」


 梨花が聞く。


「音を。部屋を。あと、気持ちを」


「全部一人でやらなくていい」


 梨花の返事は、責めてはいなかった。


 けれど千夏の指が、スティックの真ん中をぎゅっと握った。


「わかってる」


 千夏は笑った。


「でも、私の部署なので」


「部署にしない」


 瀬奈が言った。


 その短い返しで、葵は少しだけ笑った。


 千夏も、今度はちゃんと笑った。


 梨花も、口元だけゆるめた。


 それだけで、部室の空気が少し戻る。


 小さな戻り方だった。


 なくしたら困るくらい、小さかった。


 梨花がペンを置いた。


「五分休憩」


 千夏がすぐに立ち上がる。


「休憩も業務」


「休憩は休憩」


 瀬奈が水を一本ずつ渡す。葵は受け取って、キャップをひねった。


 喉は、まだ痛くない。


 声も出る。


 さっきも、出ていた。


 出ているのに、届く場所がわからなくなる。


 葵は水を飲みながら、譜面台の紙を見た。


 白いところが、また少し減っていた。


 直すための印。


 残すための印。


 消えないための印。


 どれも、続けるためのものだった。


 それなのに、その印の間に立つと、足元が狭い。


 休憩が終わると、梨花は紙を半分だけ閉じた。


「印、見すぎると固まるから」


 自分に言っているようでもあった。


 千夏が頷く。


「じゃあ、紙なしチャレンジ」


「チャレンジじゃない」


「紙なし通常業務」


「業務でもない」


 瀬奈の返しが少し早かった。


 千夏は嬉しそうに、スティックを構えた。


 その一回は、悪くなかった。


 紙から目を離したぶん、梨花のギターは少しだけ息をした。瀬奈のベースも、さっきより近かった。千夏のドラムは、明るくしようとするより、ただ前に進んでいた。


 葵の声も、壁まで届いた。


 届いたけれど、胸の奥にはまだ小さな空洞が残った。


 音が終わる。


 誰も、すぐに次とは言わなかった。


 梨花がギターのネックを見つめたまま、ゆっくり息を吐く。


「今日は、ここまでにしよう」


 千夏が目を上げた。


「もう一回くらい、いけそうじゃない?」


「いけそうだから、やめる」


 梨花の声は静かだった。


 千夏の口が少しだけ開く。


 瀬奈が水の空きボトルをまとめながら、低く言った。


「たぶん、その方がいい」


「瀬奈も?」


「うん」


 千夏はスティックを見た。


 それから、ドラムのふちを一度だけ軽く叩いた。


「了解。サビ前支社、本日閉店」


「閉店もしない」


 梨花が返す。


 いつもの返しだった。


 でも、そこに続く笑いは、途中で薄くなった。


 片づけの音が始まる。


 シールドを巻く音。ケースのファスナー。譜面台を畳む小さな金属音。


 瀬奈が水の袋をまとめ、余ったのど飴を葵に差し出した。


「持って帰って」


「でも、瀬奈が買ってきたやつ」


「葵が使うから」


「ありがとう」


 受け取った袋は、軽かった。


 軽いのに、瀬奈の手から離れた瞬間、瀬奈が少しだけ空いたように見えた。


 千夏はドラム椅子の高さを戻しながら、鼻歌を歌いかけた。


 一音だけ。


 すぐにやめる。


 梨花が紙を折る音がしたからかもしれない。


 あるいは、自分でその音が部屋に合わないと思ったのかもしれない。


 葵はマイクスタンドを壁際へ寄せた。


 今日の練習は、昨日より悪くなかった。


 むしろ、良くなっているところもあった。


 千夏のカウント。瀬奈の近さ。梨花が紙を閉じた一回。自分の声が壁まで届いた瞬間。


 ちゃんと、残したいものはある。


 なのに、残そうとするほど、四人の立つ場所が細くなっていく。


 部室を出る前、梨花が鍵を持って振り返った。


「明日も、同じところから」


 千夏がすぐに「はい」と答えた。


 瀬奈も頷いた。


 葵も、頷いた。


 誰も嫌だとは言わなかった。


 言う理由がなかった。


 同じところから始めるのは、前に進むためのやり方だから。


 でも葵には、その言葉が昨日より少しだけ違って聞こえた。


 同じところから。


 それは昨日まで、明日へ向かうための言葉だった。


 今日は、四人の周りに引かれた細い線みたいに聞こえた。


 線は、誰かが引いたものではなかった。


 毎日同じ場所に戻るたびに、四人で少しずつ濃くしてしまったものだった。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

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