第6話 同じところから
次の日の昼休み、葵のノートには、同じ言葉が二度書かれていた。
同じところから。
一度目は、授業の板書の端に、先生の字と同じ大きさで。二度目は、ページの下の余白に、少しだけ小さく。
どちらも、書いたつもりはなかった。
黒板では、古文の助動詞が横に並んでいる。先生が「未然形」と言うたびに、葵の頭の中では、部室のサビ前が小さく鳴った。
まだ起きていないこと。
まだ、そうなっていない形。
意味を考えようとして、葵はシャープペンを止めた。
右斜め前から、消しゴムの角が飛んできた。
机の端に当たって、ころん、と止まる。
顔を上げると、千夏が半分だけ振り向いていた。先生から見えない角度で、口だけ動かす。
消しゴム。
葵はそれを拾い、ノートの上に置いた。
千夏の視線が、ノートの端に落ちる。
同じところから。
その字を読んだ千夏は、少しだけ目を細めた。それから、口を小さく動かす。
「社訓?」
葵は首を横に振った。
千夏は消しゴムを受け取ると、今度は自分のノートの端に何かを書いた。授業が終わるまで、葵にはそれが見えなかった。
チャイムが鳴り、教室が一気にほどける。
椅子が引かれ、弁当箱のふたが開き、誰かが購買のパンを持って走っていく。いつもの昼休みの音が、窓際の列まで押し寄せてきた。
千夏が椅子ごと少しだけ後ろへずれた。
「見ます?」
「何を」
千夏は、自分のノートの端を葵に向けた。
そこには、同じところ株式会社、と書いてあった。
「入社した覚えない」
「私もない。でも昨日から出勤してる」
「どこに」
「サビ前支社」
葵は笑った。
ちゃんと笑えた。
千夏も笑った。けれど、その笑いのあと、すぐにペン先で自分のノートをこつんと叩いた。
「今日も、そこからだよね」
「たぶん」
「まあ、やるしかないか」
千夏は軽く言った。
軽く言ったはずなのに、その言葉は机の上に少し重く残った。
葵は弁当箱の包みをほどいた。箸を持つ。卵焼きをつまむ。口に入れる。
甘い味がした。
でも、甘いとわかっただけで、味がどこかへ届く前に消えてしまった。
千夏が、わざとらしく箸を掲げる。
「本日の会議議題。サビ前支社の労働環境について」
「会議にしないで」
「じゃあ面談」
「もっと嫌」
「そっか。じゃあ昼食」
「最初からそれ」
また笑えた。
笑えると、ほんの少しだけ、昨日の部室が遠くなる。
その遠さがありがたくて、少しだけ怖かった。
遠くなったはずの部室は、次の瞬間にはまたノートの端に戻ってくる。
同じところから、という言葉だけが、昼休みの机までついてきていた。
放課後、千夏はいつもより早く席を立った。
スティックケースを肩にかけ、机の横に立つ。その動きが、どこか準備運動みたいだった。
「行こ」
「うん」
葵が鞄を持つと、千夏は一度だけ窓の外を見た。別館の屋根が、昼より少し暗い色になっている。
「今日、部室ちょっと広いといいね」
「二センチ?」
「三センチ希望」
「控えめ」
「欲張ると怒られるから」
誰に、と聞こうとして、葵はやめた。
梨花に怒られる、という冗談なのか。
音に怒られる、という話なのか。
聞くと、どちらかに決まってしまう気がした。
本校舎の入口付近では、梨花と瀬奈が先に待っていた。
梨花はギターケースを肩にかけ、片手に小さく折った紙を持っている。昨日の譜面よりも、折り目が多い。何度も開いて、何度も閉じた紙の形だった。
瀬奈の手には、ペットボトルの袋と、のど飴の小さな袋があった。
「早いね」
葵が言うと、梨花は紙を持った手を少しだけ上げた。
「昼休みに少し見直した」
「少し?」
千夏が聞く。
「少し」
瀬奈が、横から静かに言った。
「五時間目の休みも見てた」
「瀬奈」
「事実」
「言わなくていい事実」
千夏が袋をのぞき込む。
「瀬奈、それ水と飴?」
「うん。葵の喉用と、千夏の糖分用」
「私、糖分担当?」
「よく動くから」
「ベースに栄養士がいる」
「いない」
瀬奈は短く返して、袋の持ち手を握り直した。
その手が少し赤くなっている。重いほどの量ではない。それでも瀬奈は、四人分より少し多く持ってきていた。
足りないことが、怖いみたいに。
廊下の向こうから、別の生徒たちの声が近づいてきた。
「一年の動画、また回ってたよね」
「あれ、普通に上手くない?」
「軽音、今年強いんじゃない?」
笑い混じりの声だった。
誰かを刺そうとしている声ではない。廊下に落ちている普通の話題だった。
それでも四人は、同時に少しだけ黙った。
梨花は紙を折り直した。瀬奈は袋を持つ手に力を入れた。千夏は一度だけ息を吸って、それから明るく言った。
「強いのはいいこと。学校の治安がいい」
「治安?」
葵が聞く。
「音楽治安」
「なにそれ」
「上手い人がいる町は、たぶん平和」
千夏の声は、ちゃんと明るかった。
でも、誰もその話を続けなかった。
四人は本校舎を出た。
外の空気は昨日より少し湿っていた。校舎の影に入ると、制服の袖に冷たい風が触れる。短い学校内の階段を下りる間、楽器ケースの金具が小さく鳴った。
千夏が前を歩き、二段目で一度だけ振り返る。
「本日もサビ前支社へご案内します」
「案内しなくていい」
梨花がすぐ返した。
その返しの速さに、千夏は少しだけ嬉しそうにした。
別館の入口で、四人は外靴を脱いだ。室内シューズに履き替える音が、狭い入口に順番に重なる。
千夏がかかとを床につけて、軽くつま先を鳴らした。
「よし。足元よし」
「今日は足元じゃなくて音」
「足元も音の一部です」
梨花は少しだけ目を細めた。
「それは、そう」
千夏が、勝ったみたいな顔をする。
「やった」
部室の鍵を開けると、昨日と同じ空気があった。
同じ匂い。同じ床。同じアンプ。同じ窓。
葵はそれを見て、少しだけ息を吸った。
同じ場所は、安心できるはずだった。
千夏がドラム椅子に座る。瀬奈が水を机の端に並べる。梨花が譜面台に紙を置く。葵がマイクスタンドを自分の高さに合わせる。
全部、昨日と同じ順番だった。
同じ順番で動けることが、前は安心だった。
今日は、誰かが合図を出す前から体が戻ってしまうことの方が怖かった。
梨花の紙には、線が増えていた。
サビ前、と書かれた文字の下に、二小節前、一小節前、葵入り、千夏軽く、瀬奈残す、ギター引きすぎない、と小さな字が並んでいる。
直すための言葉が、紙の上にきれいに詰まっていた。
「昨日の最後のところから」
梨花が言った。
その声に、誰も迷わず頷いた。
千夏がスティックを持ち、二回だけ空中で小さく振る。
「ワン、ツー」
音が入る。
最初の一回は、思っていたよりも近かった。
梨花のギターは昨日ほど硬くない。瀬奈のベースは薄くなりすぎず、低いところに残っている。千夏のドラムは、軽さを忘れずに前へ進んだ。
サビ前。
葵は、入り口を探しすぎないようにした。
探さず、置く。
そう思った瞬間、声がすっと入った。
部室の真ん中に、ほんの少しだけ通り道ができる。
昨日の二センチより、少しだけ広い。
最後まで合わせきったあと、千夏がスティックを上げた。
「三センチ!」
葵は笑った。
瀬奈も、口元だけ少しゆるめた。
梨花は紙を見て、それから顔を上げた。
「今の千夏のカウント、よかった」
千夏の目が丸くなる。
「え、私?」
「うん。軽いけど、置いていかなかった」
「梨花が褒めた」
「褒めたっていうか、事実」
「事実でも嬉しい」
千夏はスティックを両手で握って、小さく胸の前に寄せた。
その仕草が、ふざけているようで、少しだけ本気に見えた。
部室が一瞬、ちゃんと部室に戻った気がした。
誰かを責める場所ではなく、四人で音を出す場所に。
梨花はペンを持ったまま、紙の端に短く印をつけた。
「もう一回。今の、忘れないうちに」
葵は頷いた。
千夏もすぐに構える。
その時、瀬奈が低く言った。
「梨花」
「なに」
「今の、楽しかった」
梨花の手が止まった。
瀬奈はベースのネックを見たまま続ける。
「ちゃんと、少し広かった」
「うん」
梨花は短く返した。
それから、少しだけ息を吸った。
「だから、直したい」
紙の上で、ペン先が止まる。
「好きなままでいたいから、直したいんだよ」
部室の中が、静かになった。
強い言葉ではなかった。大きい声でもなかった。
でも葵には、その言葉が、昨日から増え続けていた印の下にあるものを、初めて見せた気がした。
梨花は、音を支配したいわけではない。
勝ちたいだけでもない。
自分たちの音を、嫌いになりたくないのだ。
千夏が、スティックを持ったまま小さく頷いた。
「じゃあ、直しましょう」
いつもの軽い声より、少し低い。
瀬奈も頷く。
「うん」
葵はマイクの前に立った。
「もう一回」
今度は葵が言った。
梨花がこちらを見た。
その目が、少しだけ驚いて、それからすぐに真剣になる。
千夏のカウント。
音が入る。
さっきよりも、みんなが少しだけ前にいた。
梨花は引きすぎない。瀬奈は消えない。千夏は軽さで逃げない。葵は置くだけではなく、少しだけ届かせようとした。
サビ前の一拍に、四人の息が重なる。
短い。
やっぱり短い。
けれど、そこには確かに熱があった。
終わったあと、誰もすぐに喋らなかった。
千夏が静かにスティックを膝に置き、瀬奈がベースの弦を手のひらで止める。梨花は紙を見なかった。
葵は、マイクの前で息を吐いた。
今のなら、忘れたくない。
そう思った。
思った瞬間、梨花が紙に手を伸ばした。
「今の、二小節前からの入りがよかった。千夏はさっきのカウント。瀬奈は今の残り方。葵は、置くより少し前。ギターはここで引きすぎない」
ペンが走る。
今あった熱が、線になる。
線になれば、もう一度たどれる。
たどれるはずだった。
「もう一回」
梨花が言う。
もう一回。
音が入る。
今度は、千夏のカウントが少し丁寧になった。丁寧になったぶん、さっきの勢いが少しだけ後ろへ下がる。
瀬奈のベースは、残り方を意識しているのがわかる。消えないように、でも邪魔しないように。低い音が、部室の床に薄く広がった。
梨花のギターは、決めた場所で引く。
葵は、置くより少し前に出ようとした。
その少し前が、難しかった。
前に出ようとすると、梨花のギターを踏む気がする。下がると、瀬奈が作った場所の奥に自分が沈む。千夏のハイハットが軽く押してくれるのに、その押し方を意識した瞬間、声が少し硬くなった。
最後まで外れなかった。
崩れもしなかった。
けれど、さっきの熱は、同じ形の中に戻ってこなかった。
「もう一回」
梨花が言った。
もう一回。
今度はサビ前の一小節前から。
もう一回。
今度はカウントだけ。
もう一回。
今度は葵の入りだけ。
もう一回。
今度は瀬奈のベースを少し見えるように。
もう一回。
今度は千夏の音量を半分だけ上げる。
もう一回。
今度は梨花が引きすぎないように。
直すための言葉が増えていく。
増えるたびに、誰かが少しだけ自分を小さくした。
千夏は、カウントの前に余計なことを言わなくなった。
瀬奈は、水を渡すタイミングまで、音を止めた瞬間に合わせるようになった。
梨花は、紙を見る回数が増えた。
葵は、声を出す前に、自分の入り口を探す時間が長くなった。
誰も間違っていない。
それが、いちばん息苦しかった。
「ごめん、今の私、遅かった」
葵が言うと、瀬奈がすぐに首を振った。
「遅くない。私が下がりすぎた」
「下がりすぎっていうか、ベースは残ってた」
梨花が紙から顔を上げる。
「でも、残し方が少し遠い。葵を支えるなら、もう少し近くていい」
「近いと邪魔にならない?」
「ならない。たぶん」
「たぶん」
瀬奈は小さく繰り返した。
その声が、少しだけ薄かった。
千夏がスティックをくるりと回そうとして、途中でやめる。
「じゃあ、私がちょっと明るくする」
「明るく?」
梨花が聞く。
「音を。部屋を。あと、気持ちを」
「全部一人でやらなくていい」
梨花の返事は、責めてはいなかった。
けれど千夏の指が、スティックの真ん中をぎゅっと握った。
「わかってる」
千夏は笑った。
「でも、私の部署なので」
「部署にしない」
瀬奈が言った。
その短い返しで、葵は少しだけ笑った。
千夏も、今度はちゃんと笑った。
梨花も、口元だけゆるめた。
それだけで、部室の空気が少し戻る。
小さな戻り方だった。
なくしたら困るくらい、小さかった。
梨花がペンを置いた。
「五分休憩」
千夏がすぐに立ち上がる。
「休憩も業務」
「休憩は休憩」
瀬奈が水を一本ずつ渡す。葵は受け取って、キャップをひねった。
喉は、まだ痛くない。
声も出る。
さっきも、出ていた。
出ているのに、届く場所がわからなくなる。
葵は水を飲みながら、譜面台の紙を見た。
白いところが、また少し減っていた。
直すための印。
残すための印。
消えないための印。
どれも、続けるためのものだった。
それなのに、その印の間に立つと、足元が狭い。
休憩が終わると、梨花は紙を半分だけ閉じた。
「印、見すぎると固まるから」
自分に言っているようでもあった。
千夏が頷く。
「じゃあ、紙なしチャレンジ」
「チャレンジじゃない」
「紙なし通常業務」
「業務でもない」
瀬奈の返しが少し早かった。
千夏は嬉しそうに、スティックを構えた。
その一回は、悪くなかった。
紙から目を離したぶん、梨花のギターは少しだけ息をした。瀬奈のベースも、さっきより近かった。千夏のドラムは、明るくしようとするより、ただ前に進んでいた。
葵の声も、壁まで届いた。
届いたけれど、胸の奥にはまだ小さな空洞が残った。
音が終わる。
誰も、すぐに次とは言わなかった。
梨花がギターのネックを見つめたまま、ゆっくり息を吐く。
「今日は、ここまでにしよう」
千夏が目を上げた。
「もう一回くらい、いけそうじゃない?」
「いけそうだから、やめる」
梨花の声は静かだった。
千夏の口が少しだけ開く。
瀬奈が水の空きボトルをまとめながら、低く言った。
「たぶん、その方がいい」
「瀬奈も?」
「うん」
千夏はスティックを見た。
それから、ドラムのふちを一度だけ軽く叩いた。
「了解。サビ前支社、本日閉店」
「閉店もしない」
梨花が返す。
いつもの返しだった。
でも、そこに続く笑いは、途中で薄くなった。
片づけの音が始まる。
シールドを巻く音。ケースのファスナー。譜面台を畳む小さな金属音。
瀬奈が水の袋をまとめ、余ったのど飴を葵に差し出した。
「持って帰って」
「でも、瀬奈が買ってきたやつ」
「葵が使うから」
「ありがとう」
受け取った袋は、軽かった。
軽いのに、瀬奈の手から離れた瞬間、瀬奈が少しだけ空いたように見えた。
千夏はドラム椅子の高さを戻しながら、鼻歌を歌いかけた。
一音だけ。
すぐにやめる。
梨花が紙を折る音がしたからかもしれない。
あるいは、自分でその音が部屋に合わないと思ったのかもしれない。
葵はマイクスタンドを壁際へ寄せた。
今日の練習は、昨日より悪くなかった。
むしろ、良くなっているところもあった。
千夏のカウント。瀬奈の近さ。梨花が紙を閉じた一回。自分の声が壁まで届いた瞬間。
ちゃんと、残したいものはある。
なのに、残そうとするほど、四人の立つ場所が細くなっていく。
部室を出る前、梨花が鍵を持って振り返った。
「明日も、同じところから」
千夏がすぐに「はい」と答えた。
瀬奈も頷いた。
葵も、頷いた。
誰も嫌だとは言わなかった。
言う理由がなかった。
同じところから始めるのは、前に進むためのやり方だから。
でも葵には、その言葉が昨日より少しだけ違って聞こえた。
同じところから。
それは昨日まで、明日へ向かうための言葉だった。
今日は、四人の周りに引かれた細い線みたいに聞こえた。
線は、誰かが引いたものではなかった。
毎日同じ場所に戻るたびに、四人で少しずつ濃くしてしまったものだった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。
楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。
そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




