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退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


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第5話 直そうとした音

 次の日、葵のノートの端には、小さな休符が三つ並んでいた。


 書こうと思って書いたわけではない。


 授業中に先生が黒板へ書いた数式を写していて、ふと手が止まった。窓側のいちばん左の列の、いちばん後ろ。葵の席からは、校庭の端と、別館の屋根が少しだけ見える。


 チョークの音が、途切れて、また続く。


 その途切れたところに、昨日見た動画のサビ前が入り込んできた。


 一拍。


 誰も鳴らしていないのに、そこだけ音が空いた気がした。


 気づくと、ノートの余白に、黒い小さな四角が三つ置かれていた。音符というほど整っていなくて、ただ、何かを止めておくためのしるしみたいだった。


「葵」


 小さな声が、右斜め前から飛んできた。


 顔を上げると、右斜め前の席で、千夏が半分だけ振り向いていた。先生の目を盗むみたいに、シャープペンを口元に立てている。


「そこ、授業の範囲じゃないよ」


 葵は慌ててノートを手で隠した。


「わかってる」


「数学に休符出てきたら、私、今日から理系やめる」


「まだ始めてもないでしょ」


 千夏は、声を出さずに笑った。


 その笑い方が、いつもより少しだけ遅れて見えた。


 先生が黒板を叩く。


「ここ、試験に出るぞ」


 教室の空気が一瞬だけ締まって、何人かが同時にペンを走らせた。紙をこする音が、雨みたいに広がる。


 葵もペンを持ち直した。


 ノートの端に残った三つの休符は、手で隠しても、そこにあることだけは消えなかった。


 昼休みになると、右斜め前の千夏が、弁当箱を持って葵の席まで来た。


「今日の葵、窓際の哲学者みたい」


「何それ」


「外を見て、ノートに謎の記号を書いて、パンじゃなくて世界を食べてる人」


「お弁当だけど」


「じゃあ世界弁当」


「大きすぎる」


 千夏は近くの空いている椅子を引き寄せて座った。膝の上に弁当箱を置くと、箸を割る前に、机の端を指で軽く叩いた。


 とん、とん。


 小さな二つの音。


 いつもの千夏なら、そのまま三つ目を入れて、何かふざけたリズムにしてくる。けれど今日は、二つ目で止まった。


 指が、机の上で浮いたままになる。


 葵はその指を見た。


 千夏も、自分の指を見た。


「……今の、サビ前っぽくなった」


「うん」


「机、悪くないのに」


「机は悪くないね」


「机に罪なし」


 千夏はそう言って、今度こそ弁当のふたを開けた。


 明るい声だった。ちゃんと明るい。ふざけようとしているのではなく、本当に少しでも軽くしようとしている声だった。


 それなのに、言葉の後ろにできた小さな空き地へ、昨日の動画の音がまた入ってきた。


 葵はスマホを取り出した。


 通知欄に、梨花からの短いメッセージがある。


『放課後、サビ前から。昨日のところ、ちゃんと詰めたい』


 その下に、瀬奈の返事。


『水買っていく』


 そして千夏。


『サビ前修理工場、開店』


 最後に、梨花の返事。


『工場じゃなくて練習』


 葵は画面を見ながら、少しだけ笑った。


「梨花、昼休みも譜面見てるって」


 千夏が卵焼きをつまみながら言った。


「見たの?」


「廊下で。梨花が譜面見てて、瀬奈が横で水の本数数えてた。同じクラスの二人で、昼休みからもう部室の準備してるみたいだった」


「千夏も今、机でドラムしてた」


「あれは素振り」


「机に罪はないのに」


「それ使う?」


「使わない」


 二人で笑った。


 笑えたことに、葵は少し安心した。


 でも、安心したあとに、胸の奥が小さく遅れた。


 放課後になっても、その遅れは残っていた。


 教室の片づけが終わると、千夏はスティックケースを肩に引っかけて、「工場長のところに、行きますか」と言った。


「工場長って誰?」


「梨花」


「怒られるよ」


「もう怒られる前提で生きてる」


 千夏はそう言いながらも、声の大きさを少し落としていた。


 葵は鞄を持ち、教室を出た。


 廊下には、部活へ向かう生徒たちの足音が重なっている。制服の袖、体育館シューズの袋、笑い声。昨日と同じ学校なのに、同じ音の中に、別の音が混じっている気がした。


 本校舎の入口付近には、梨花と瀬奈が先に来ていた。


 梨花はケースを肩にかけ、片手に折りたたんだ紙を持っている。瀬奈はペットボトルを四本入れた袋を提げていた。


「遅い」


 梨花が言った。


「チャイム鳴ってから五分も経ってないよ」


 千夏が答える。


「今日は早く始めたい」


「工場長、やる気」


「工場じゃない」


 梨花の返事はすぐだった。


 瀬奈が袋を少し持ち上げる。


「水、四本。足りなかったらまた買う」


「瀬奈、補給班すぎる」


「補給は大事」


「言い方が強い」


 葵は鞄の持ち手を握り直しながら、三人の声を聞いていた。


 いつも通りの会話だった。


 梨花は急いでいる。千夏は名前をつける。瀬奈は必要なものを持ってくる。


 どれも、昨日までと大きく変わらない。


 それでも、四人が本校舎を出て、校内の短い階段を下り、別館へ向かう間、誰も後輩の動画の話を直接はしなかった。


 外の空気は少し湿っていた。


 階段の脇の植え込みで、葉がこすれる音がする。


 千夏が一段だけ飛ばして下りた。


「よし。サビ前修理工場、別館支店」


「支店増やさない」


 瀬奈が言った。


「じゃあ本店」


「店にしない」


 梨花が前を向いたまま言う。


「今日は、練習」


 その言葉だけが、階段の下に落ちたみたいに聞こえた。


 別館の入口で、四人は外靴を脱いだ。室内シューズに履き替える音が、順番に小さく鳴った。


 部室の鍵を開けると、いつもの匂いがした。


 木の床、古いアンプ、ケースの布、少しだけこもった空気。


 葵は窓を開けた。外の音が薄く入り、部室の空気がゆっくり動く。


 千夏がドラム椅子に座り、ペダルを踏む前に室内シューズのかかとを床につけ直した。瀬奈はベースを肩にかけ、チューナーを見ながら一本ずつ弦を鳴らす。梨花は紙を譜面台に置いた。


 そこには、曲名の代わりに、サビ前、と大きく書かれていた。


 その下に、小さく線が引かれている。


 一拍。


 葵はマイクスタンドの高さを直した。


「まず、昨日の最後のところから」


 梨花が言った。


「動画の真似じゃなくて、うちらの中で空ける」


 千夏がスティックを回しかけて、落としそうになった。


「名言っぽい」


「茶化さない」


「ごめん。でも、いいと思った」


 梨花は少しだけ黙って、譜面台を見た。


「なら、やる」


 千夏がカウントを出す。


「ワン、ツー」


 音が入った。


 最初の一回は、悪くなかった。


 悪くない、と思えるくらいには、四人とも覚えていた。


 梨花のギターは迷わず前に出る。瀬奈のベースは床を支える。千夏のドラムは走らない。葵の声も、喉の奥で引っかからずに出た。


 サビ前に差しかかる。


 梨花の右手が、少しだけ遅くなる。


 瀬奈の低い音が、一歩後ろへ引く。


 千夏のハイハットが、開く前に閉じる。


 葵は、そこへ声を入れた。


 入った。


 外れてはいない。


 でも、声が部室のどこへ行ったのか、葵にはわからなかった。


 マイクを通った自分の声が、壁に当たる前に、誰かが用意した線の上で止まったみたいだった。


 最後の音が消える。


 千夏が小さく息を吐いた。


「……悪くは、ない」


 その言い方で、誰も頷かなかった。


 梨花が譜面台の紙に目を落とす。


「今の、空け方が浅い」


「浅い?」


 葵が聞くと、梨花は右手で空中を少しだけなぞった。


「空いたように聞こえるけど、入る場所が狭い。葵が入る前に、ギターがまだ残ってる」


「私、少し下げた方がいい?」


 瀬奈が言う。


「ベースは……下げすぎると消える」


「じゃあ、置く」


「うん。置いて」


「ドラムは?」


 千夏がスティックを持ち上げた。


「カウント一つ前から、もう少し軽く」


「軽く」


「軽く。でも、なくさない」


「むず」


 千夏は笑った。


 笑ったあと、すぐに真面目な顔になった。


「了解」


「もう一回」


 梨花の声に、四人が同時に構える。


 今度は、最初から少し違った。


 違ってしまった、と言った方が近かった。


 梨花のギターは前へ出ようとして、途中で自分の影を踏むみたいに止まる。瀬奈のベースは葵の入り口を邪魔しないように、低いところで薄く広がる。千夏のドラムは軽くしようとして、叩く前の息まで小さくなった。


 音と音がぶつからない。


 誰も邪魔をしていない。


 だからこそ、真ん中にあるはずの場所が、ぽっかり空きすぎて見えた。


 葵はそこへ声を入れた。


 声は入った。


 けれど、入った瞬間、ひとりで部屋の真ん中に立たされたみたいだった。


 歌っているのに、届いていない。


 届かせるために空けてもらったはずの場所で、自分の声だけが少し寒かった。


「止める」


 梨花が右手を上げた。


 音が切れる。


「今の、空きすぎ」


「だよね」


 千夏がスティックの先で自分の膝を軽く叩いた。


「空き地になった」


「空き地?」


「サビ前空き地問題」


 瀬奈がペットボトルの入った袋を開けながら言う。


「問題名にしない」


「じゃあ、サビ前余白会議」


「会議でもない」


 瀬奈は水を一本、梨花に渡した。


 梨花は受け取りながら、少しだけ息を吐いた。


「でも、今のは今ので、わかった」


「何が?」


 千夏が聞く。


「空ければいいわけじゃない」


 梨花の言葉に、葵はマイクスタンドを握り直した。


 空ければいいわけじゃない。


 昨日、あの動画の中で見えた一拍は、ただ何もない場所ではなかった。


 後輩の声が入る前に、誰かが息を吸っていた。


 誰かが引いたのではなく、そこへ進むために空いていた。


 葵たちは今、その形だけを触っている。


「次、サビ前の二小節前から」


 梨花が言った。


「葵、入りを気にしすぎないで」


「うん」


「瀬奈、支えは残して」


「残す」


「千夏、軽いけど前に」


「軽トラくらい?」


「違う」


「軽自動車」


「車から離れて」


 今度は、葵も笑った。


 笑うと、少しだけ喉が開いた。


 千夏がカウントを出す。


 音が走り出す。


 さっきより、部室が近くなった気がした。


 梨花のギターが前に来る。けれど、サビ前で強く握りすぎない。瀬奈のベースが低いところに残り、床を薄く照らすみたいに支える。千夏のハイハットが、叩く音ではなく、次へ行く息を作った。


 その一瞬だけ、部室が広がった。


 葵の声が入る。


 今度は、誰かが用意した線の上ではなかった。


 声が、ギターの横を通って、ベースの上に乗り、ドラムの息に押されて、壁へ届いた。


 短い。


 本当に短い、一瞬だった。


 それでも、そこには四人がいた。


 直した音ではなく、戻ってきた音だった。


 千夏の息が小さく笑い、瀬奈の低い音がまだ床に残って、梨花の右手が一度だけ止まった。


 葵は、今の一瞬なら、もう少し歌っていたいと思った。


 終わったあと、誰もすぐには喋らなかった。


 千夏がスティックを握ったまま、目を丸くしている。


「今の」


 梨花が先に言った。


「今の、もう一回」


 その声に、葵の胸が小さく跳ねた。


 もう一回。


 つかめそうだった。


 つかんでしまえば、昨日の動画を見た時にできた穴を、少しだけ埋められる気がした。


「今の感じで」


 梨花が紙に短く印をつける。


「ギター、ここで残しすぎない。瀬奈は今の位置。千夏はハイハットそのまま。葵は今の入り」


「今の入り、か」


 葵は小さく繰り返した。


 さっきの入りは、気にしなかったから入れた。


 それをもう一度やろうとした瞬間、入り口に印がついた。


 千夏が明るく言う。


「いける。今、部室ちょっと広かった」


「どれくらい」


 瀬奈が聞く。


「二センチ」


「少ない」


「でも貴重な二センチ」


 梨花がスティックの方を見た。


「千夏、カウント」


「はい」


 千夏は姿勢を直した。


 さっきと同じように、軽く。


 同じように、前へ。


 同じように。


 その言葉が、口に出されていないのに、部室の中で増えていく。


 カウント。


 音。


 サビ前。


 梨花の右手が、今度は正確に引いた。


 瀬奈のベースが、決めた場所に置かれる。


 千夏のハイハットが、さっきと同じ長さで空気を切る。


 葵は声を入れた。


 入れた、と思った。


 でも、声はさっきよりきれいに入ったぶん、さっきより遠かった。


 形は合っている。


 タイミングもずれていない。


 なのに、部室は二センチ広がらなかった。


 むしろ、足元に薄い線が引かれて、その線から出ないように歌っている感じがした。


 最後まで合わせる。


 止まらない。


 崩れない。


 だから、余計に言葉が出なかった。


「……もう一回」


 梨花が言った。


 それから、何度も繰り返した。


 サビ前の二小節前から。


 サビ前の一小節前から。


 カウントだけ。


 葵の入りだけ。


 ギターを少し引いて。


 ベースを残して。


 ドラムを軽く。


 もう少し前に。


 もう少し後ろに。


 もう一回。


 もう一回。


 何度目かで、千夏が大きめに声を出した。


「よし、次で部室三センチ!」


 明るい声だった。


 本当に、沈まないように上げてくれた声だった。


 けれど、その大きさに、葵の肩が少しだけ上がった。


 瀬奈がそれに気づいたように、ベースの音をさらに柔らかくした。


 柔らかくなったぶん、瀬奈の音は奥へ下がった。


 梨花はそれを聞いて、すぐに言う。


「瀬奈、消えないで」


「消えてない」


「うん。わかってる。でも、もう少し見えるように」


 瀬奈は短く頷いた。


「わかった」


 その返事はいつも通りだった。


 でも、葵には、瀬奈がベースのストラップを少しだけ握り直したのが見えた。


 支えようとして、消えかける。


 消えないようにすると、今度は葵の入り口に近づきすぎる。


 誰かが悪いわけではなかった。


 梨花は聞いている。


 瀬奈は支えている。


 千夏は明るくしようとしている。


 葵は歌っている。


 全部、続けるためのことだった。


 それなのに、続けるためのものが、ひとつずつ部室の真ん中に置かれて、足の踏み場を狭くしていく。


 葵はマイクの前で息を吸った。


 今度こそ、気にしすぎない。


 そう思った時点で、もう気にしていた。


 声は出た。


 高いところも外さない。


 語尾も震えない。


 梨花のギターとも、瀬奈のベースとも、千夏のドラムとも、ぶつからなかった。


 きれいに避けて、きれいに収まった。


 収まってしまった。


 最後の音が消えたあと、千夏がスティックを膝の上に置いた。


「……今の、悪くない」


 言ったあと、千夏は自分で少し眉を下げた。


 その言葉が、良い意味だけで届かないことを、千夏もわかっているみたいだった。


 梨花は譜面台の紙を見たまま、ペンを持っている。


 紙の上には、印が増えていた。


 どこで引くか。


 どこで残すか。


 どこで入るか。


 直すための印が増えるほど、紙の白い部分が少なくなっていく。


 瀬奈が袋から最後の水を取り出して、葵に渡した。


「飲んで」


「ありがとう」


 キャップを開けると、手の中で小さな音がした。


 その音だけが、少し自由だった。


 葵は水を飲んだ。


 喉は痛くない。


 歌えている。


 歌えているのに、胸の奥に熱が残らない。


 それがいちばん怖かった。


「今日は、ここまで」


 梨花が言った。


 千夏がすぐに顔を上げる。


「え、もう一回くらい」


「今日はここまで」


 梨花は同じ声で繰り返した。


 怒っているわけではない。


 疲れたと言っているわけでもない。


 これ以上続けたら、今あるものまで硬くなると、梨花はたぶん聞いている。


 瀬奈が静かに頷いた。


「うん。今日は止めた方がいい」


 千夏は少しだけ口を開けて、それから閉じた。


「……じゃあ、閉店」


「店じゃない」


 梨花が言った。


 いつもの返しだった。


 千夏も、いつものように笑おうとした。


 でも、その笑いは最後まで丸くならなかった。


 片づけの音が始まる。


 シールドを巻く音。


 スタンドを下げる音。


 ケースのファスナー。


 誰かが失敗したわけではないから、謝る言葉もなかった。


 誰かが上手くいったわけでもないから、褒める言葉もなかった。


 部室の窓から入っていた風が弱くなって、カーテンが壁に寄る。


 葵はマイクスタンドをしまいながら、さっき一瞬だけ広がった部室のことを考えた。


 あれは確かにあった。


 四人とも聞いた。


 だから、またやればいい。


 そう思いたかった。


 けれど、もう一度やろうとした瞬間に、その一瞬は印になって、決まりになって、狭い線になった。


 梨花が譜面台の紙を折った。


「明日も、同じところからやろう」


 誰も反対しなかった。


 千夏が「了解」と言い、瀬奈が「水、また買う」と言った。


 葵も頷いた。


 続けるための言葉だった。


 明日へ持っていくための、ちゃんと前を向いた言葉だった。


 それなのに葵には、同じ場所から動けなくなる言葉みたいに聞こえた。


 直した音は、昨日より少し正しかった。


 でも、正しくなったぶんだけ、部室は少し狭くなっていた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

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