↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
4/15

第4話 聞こえてくる名前

 後輩たちの名前は、四人が呼ぶ前に廊下を歩き始めていた。


 次の日の昼休み、葵は教室の窓際で購買のパンの袋を開けながら、そのことを知った。


 最初は、ただの笑い声だった。


 隣のクラスの女子が、廊下に半分だけ出たままスマホを囲んでいる。画面の明るさが指の間から白く漏れて、誰かが「そこ、もう一回」と言った。


 短い再生音が鳴る。


 体育館で聞いた声が、スマホの小さなスピーカーから一瞬だけこぼれた。


 葵はパンの袋を開ける手を止めた。


 音はすぐに誰かの笑い声に飲まれた。体育館で聞いた時みたいに、床を震わせるわけでも、天井へ伸びるわけでもない。薄くて、少し割れていて、本当なら聞き流せるくらいの音だった。


 それでも、喉の奥だけが先に反応した。


「これ一年生なんだよね」


「そう。軽音の子たち」


「え、今年の一年すごくない?」


 声に悪意はなかった。


 誰かを落とすための言い方ではなく、良いものを見つけた時の、ただ明るい声だった。


 葵は、机の上に置いた牛乳パックを見た。白い紙の面に、小さな水滴がついている。


 良いものを良いと言うだけで、どうしてこんなに息が浅くなるのだろう。


「葵」


 廊下側から呼ばれて顔を上げると、千夏が入口にもたれていた。スティックケースは持っていない。昼休みだから当たり前なのに、肩に何もない千夏を見ると、少しだけ別人みたいに見えた。


「パン、開封式の途中で止まってる」


「え」


「そこから先に進まないタイプの儀式?」


 葵は自分の手元を見た。


 袋の口が、半分だけ破けたまま止まっている。


「……ちょっと、固かった」


「パンの袋に負けるボーカル、なかなかレアだよ」


「勝つ」


「勝ち負けにした」


 千夏が笑った。


 葵も少しだけ笑って、袋を開けきった。破けた音が、やけに大きく聞こえた。


 千夏は隣の席の椅子を借りて座った。


「瀬奈は?」


「購買。梨花に頼まれた水も買うって」


「梨花は?」


「廊下で立ち止まってる」


「立ち止まってる?」


 葵が聞き返すと、千夏は廊下の方をあごで示した。


 梨花は、教室から少し離れた窓の下にいた。友だちと話しているわけではない。ただスマホを持って、画面を見ている。平気そうな顔だった。平気そうに見える時の梨花は、たいてい情報を拾いすぎている。


「動画、見てるのかな」


 葵が言うと、千夏はすぐには返さなかった。


「通知欄を見て、見た気になってる可能性もある」


「それ、あるの?」


「ある。私、昨日それやった。見てないのに疲れた」


「見てないのに」


「見ないって、けっこう体力使うんだよ」


 千夏は笑ったけれど、その笑いは廊下までは届かなかった。


 葵はパンを一口かじった。


 味はした。


 けれど、自分が何を食べているのか、少し遅れてからわかった。クリームが入っている。甘い。いつもなら、千夏が勝手に「一口」と言って奪いに来るやつだ。


「いる?」


 葵が差し出すと、千夏は一瞬だけ目を丸くした。


「え、いいの」


「うん」


「葵が甘いパンを差し出した。今日、雪降る?」


「五月に」


「山の上だからワンチャン」


「ない」


 瀬奈の声が横から入った。


 いつの間に戻ってきたのか、瀬奈は購買の袋を片手に持っていた。もう片方の手にはペットボトルの水が二本ある。


「山の上でも五月に雪は降らない」


「そこ、ちゃんと否定するんだ」


「葵のパンはもらっていいと思う」


「そっちは肯定するんだ」


 千夏が言うと、瀬奈は少しだけ首をかしげた。


「差し出されたから」


「なるほど。差し出された甘さは受け取る派」


 葵は思わず笑った。


 今度は、ちゃんと笑えた気がした。


 瀬奈は購買の袋から、丸いメロンパンを一つ取り出した。


 袋の端には、小さなメロンパンのキーホルダーが揺れている。瀬奈が前に旅行の土産だと言っていた、地方限定のやつだった。


「今日の、端のザラメが落ちにくいやつ。焼き色もいい。たぶん中は、昨日のより少ししっとりしてる」


 そこだけ、瀬奈の言葉が急に細かくなった。


「瀬奈、メロンパンのことになると情報量増えるよね」


「好きだから」


 言ってから、瀬奈は自分で気づいたみたいに口を閉じた。


「……たまたま」


 言い訳みたいなその一言に、葵と千夏は同時に小さく笑った。


 その笑いに合わせるみたいに、廊下の向こうでまたスマホの音が鳴った。


 ほんの二秒。


 後輩ボーカルの声が、サビへ入る手前でふっと伸びる。


 葵の笑いは、そこで止まった。


 瀬奈が葵を見た。


 千夏も見た。


 二人とも何も言わなかった。


 その沈黙が、言葉より先に葵の肩へ置かれた。


「学校の廊下にも、おすすめ欄ってあるんだね」


 千夏が言った。


 軽い声だった。


 でも、ほんの少しだけ遅かった。


「おすすめ欄?」


 瀬奈が繰り返す。


「あるじゃん。見たくないのに、勝手に流れてくるやつ」


「廊下はアプリじゃない」


「じゃあ、廊下アルゴリズム」


「余計わからない」


 千夏が肩をすくめる。


 葵は、もう一度パンをかじった。


 甘さがさっきより強くなっていた。


 梨花が戻ってきたのは、昼休みが終わる少し前だった。


 手にはスマホと、水のペットボトルがあった。ペットボトルは瀬奈が買ってきたもののはずなのに、いつの間に受け取ったのだろう。そういう小さな受け渡しを、葵はよく見落とす。


「放課後、部室で」


 梨花はそれだけ言った。


 千夏が手を上げる。


「議題は?」


「昨日の続き」


「確認会?」


「練習」


「確認会、名称却下され続けてる」


 梨花は少しだけ目を細めた。


「名称の問題じゃない」


「それはそう」


 千夏の返事は早かった。


 早すぎて、少しだけ不自然だった。


 昼休み終了のチャイムが鳴った。


 教室へ戻る生徒たちの足音が増える。スマホの音は消えた。後輩たちの声も、教科書を開く音と椅子を引く音に紛れた。


 けれど、消えたわけではない。


 聞こえなくなっただけだった。


 午後の授業は、黒板の文字がいつもより遠かった。


 五時間目の英語で、先生が短い会話文を指した時も、葵はすぐに気づけなかった。


 昼休みに聞こえた二秒が、まだ耳の奥に残っている。


「葵、当たってる」


 右斜め前から、千夏が口だけで教えた。


「……はい」


 葵は慌てて立った。どこから読むのか一瞬だけ迷って、千夏が指で教科書の行を示す。


 それでも、声に出した瞬間、英文はすらすらと出た。声を張ったつもりはないのに、子音の端と短い間だけが、教室の後ろまできれいに届いた。


 前の席の男子が小さく「すげー」と言い、千夏が半分だけ振り返って、口だけで「かっこいいのずるい」と言った。


 葵は視線を落として席に戻り、何もなかったみたいにノートの続きを書いた。


 そのあとも先生の声はちゃんと届いている。ノートも取れている。けれど葵の頭の中では、ときどき昼休みの二秒が戻ってきた。


 スマホの小さなスピーカーからこぼれた声。


 体育館で聞いた時よりずっと薄いのに、それでも届く声。


 葵はシャープペンを持つ手に力を入れた。


 声は、どこまで届けば届いたことになるのだろう。


 放課後、四人は本校舎の出入口で合流した。


 梨花はいつもより少し早く来ていた。ギターケースのベルトを肩にかけ直しながら、誰かを待っているのではなく、何かを先に考えている顔をしている。


 瀬奈はベースケースを背負って、葵を見ると小さくうなずいた。


 千夏は最後に来た。手には細長い菓子の箱を持っている。


「それ、今から食べるの」


 瀬奈が聞く。


「部室に着くまでの燃料」


「近い」


「近いからこそ、短距離用の燃料がいる」


「短距離用は初めて聞いた」


 葵が笑うと、千夏は少し得意そうに細長い箱を掲げた。


「今日の私は燃費を改善していきます」


 箱から出した白いシュガレットを、千夏はわざと指の間に挟んだ。


「先に言っとくけど、お菓子です」


「見ればわかる」


 瀬奈が言うと、千夏は少しだけ顎を上げて、かっこつけた顔で端をかじった。


「その顔は何」


「燃料補給中のドラマーです」


「顔はいらない」


「形から入ると効率が上がるので」


「上がってない」


 梨花が歩き出した。


「行くよ」


「はいはい。燃料搭載済みです」


 四人は本校舎を出た。


 部室のある別館へは、外に出てから校内の短い階段を下り、左奥の建物へ回り込む。五月の風は昨日より少し乾いていて、制服の袖を軽く持ち上げた。


 階段の上で、前を歩いていた一年生たちが振り返った。


「あ、軽音の先輩」


 その言い方に、葵は少しだけ足を止めそうになった。


 軽音の先輩。


 自分たちも、その言葉の中に入っている。


 けれど最近、その言葉を聞くと、後輩たちの方が先に浮かぶようになっている。


「昨日の動画、見ました」


 別の一年生が言った。


 葵たちの動画の話ではないことは、すぐにわかった。


「あの子たち、ほんとすごいですね」


 梨花が「うん」と短く返した。


 ちゃんと笑っていた。


 先輩として、間違っていない笑い方だった。


 千夏も明るく言った。


「ね。うちの一年、初期装備が強い」


「初期装備」


 一年生が笑う。


 悪い笑いではなかった。


 千夏の冗談も、ちゃんと届いた。


 それなのに、葵はその場に置いていかれたような気がした。


 自分たちのことではない話題に、自分たちが先輩として笑って答える。


 たったそれだけのことが、少しずつ体の中のどこかを削っていく。


 階段を下りきると、千夏が小さく息を吐いた。


「初期装備、うまくない?」


「自分で言う?」


 瀬奈が返す。


「今のはまあまあ良かったと思うんだけど」


「言葉は良かった」


「言葉は」


「言った人の顔が少し固かった」


「瀬奈、観察眼が敵に回ると怖い」


「敵じゃない」


「じゃあ味方の怖さ」


 千夏は笑った。


 葵も笑った。


 梨花は笑わなかった。


 でも怒っているわけではない。ただ、さっきの一年生の言葉を、自分の中でどこかに置こうとしているように見えた。


 別館の扉の前で、昨日の一年生のギターの子が待っていた。


 肩にかけたケースの紐を両手で持って、四人に気づくとすぐに背筋を伸ばす。


「先輩、昨日のシールド、ありがとうございました」


 梨花が受け取った。


「大丈夫だった?」


「はい。ちゃんと鳴りました。すごく助かりました」


「それならよかった」


 一年生の子は、梨花の手元を見てから、少しだけ葵たち全員へ視線を動かした。


「あの、昨日も、ありがとうございました」


「昨日?」


 千夏が聞く。


「部室で。貸してもらった時、みなさん練習中だったのに」


「ああ」


 千夏が手を振った。


「全然。シールド一本で世界が救われることもあるし」


「世界」


 一年生の子が少し笑った。


 その笑い方も、嫌なところがなかった。


「でも、本当に助かりました。先輩たち、昨日も合わせてましたよね」


 葵の喉が細くなる。


 一年生の子は、何も刺そうとしていない。


 むしろ、ちゃんと礼儀正しく話している。


「あの、サビ前のところ、昨日も少し聞こえて。四人で入る感じ、やっぱり好きです」


 やっぱり。


 その言葉が、昨日の部室をもう一度開けた。


 梨花が受け取ったシールドを軽く巻き直しながら言った。


「ありがとう」


「いえ」


 一年生の子は、少し照れたように頭を下げた。


 その時、別館の廊下の奥から誰かの声がした。


「ねえ、さっきの動画のコメント、また増えてるって」


 一年生の子がそちらを振り返る。


「今行く」


 そして、すぐに四人へ向き直った。


「すみません。ありがとうございました」


 もう一度頭を下げて、廊下の奥へ走っていく。


 足音が軽かった。


 軽くて、まっすぐだった。


 その足音が遠ざかってから、四人は入口で外靴を脱ぎ、室内シューズに履き替えた。


 千夏が小さく言った。


「礼儀正しい子に追い打ちされると、こっちの逃げ場がない」


「追い打ちじゃない」


 瀬奈が言う。


「わかってる。わかってるから、さらにない」


 千夏は自分のシュガレットの箱を見下ろした。


「燃料、足りないかも」


 梨花はシールドを棚に戻した。


 いつもならすぐにギターケースを開けるのに、今日は立ったままスマホを取り出した。


「見る?」


 誰も、何をとは聞かなかった。


 部室の中に、外の音が少しだけ入り込んでいる。


 廊下の奥で一年生たちが笑っている声。別の部屋から鳴るアンプの低い音。窓の外を通る風の音。


 瀬奈が先に言った。


「見なくていい」


 短い言葉だった。


 いつもの瀬奈なら、それで終わる。


 けれど今日は、言ったあとで少しだけ目を伏せた。


「……と思う」


 梨花が瀬奈を見る。


「見ないままの方が、気になる」


「見たら、もっと気になる」


「それはそう」


 梨花は認めた。


 認めた上で、スマホを手の中で少し回した。


「でも、気になってるものを見ないまま練習しても、たぶん気になる」


「梨花、それ、真面目な人の自傷行為みたいなこと言ってる」


 千夏が言った。


 梨花は眉を寄せた。


「言い方」


「ごめん。今のは言い方が重かった」


「内容も軽くはない」


「うん」


 千夏は笑わなかった。


 葵はマイクスタンドのそばに立ったまま、四人の真ん中に置かれたスマホを見ていた。


 見たくない。


 でも、知らないまま歌うのも怖い。


 昼休みの二秒だけで、もう十分に怖かった。見ないようにしても、廊下は勝手に流してくる。誰かが良いと言うたびに、音は少しずつ形を変えて戻ってくる。


 それなら、自分たちで見る方がましなのかもしれない。


 見ない間に、怖さだけが勝手に育っていくのは、もっと嫌だった。


 そう思った時点で、もう半分は負けている気もした。


「私は」


 葵が言うと、三人が見た。


 声が歌う時より小さかった。


「見ないままだと、たぶん勝手に頭の中で大きくなる」


 千夏が軽く目を閉じた。


「それ、わかる」


「だから、一回だけ」


 葵は言った。


「一回だけ見て、そのあと練習したい」


 言ってから、練習したい、という言葉が自分のものとして少し遠く聞こえた。


 梨花はうなずいた。


「じゃあ、一回」


 瀬奈は何も言わなかった。


 ただ、ベースケースを床に置いて、スマホの画面が見える位置へ少しだけ近づいた。


 千夏は椅子を引いた。


「動画鑑賞会、正式開催」


「鑑賞会にしない」


 瀬奈が言う。


「確認会も却下、鑑賞会も却下。うちらの会議、名前つかないね」


「名前をつける必要ない」


「名前がないものほど怖いんだよ」


 千夏がそう言ってから、少しだけ黙った。


 その言葉が、部室の床に落ちた。


 梨花が再生ボタンを押した。


 スマホはアンプの上に置いた。


 小さな画面の中で、体育館のステージが始まる。


 画角は少し斜めだった。誰かの肩が端に映っていて、音もところどころ割れている。実際に体育館で聞いた時より、ずっと小さい。低い音は薄くなり、ドラムの輪郭も平たくなっている。


 それなのに、良かった。


 その事実だけが、圧縮されても消えていなかった。


 ボーカルの子が歌い出す。


 葵は、自分の喉を触らないように手を握った。


 声は少しかすれている。完璧な音ではない。高いところで息が混じる。けれどその息まで、どこかへ向かっている。


 誰かに届かせようとしているというより、届く場所があることを信じている声だった。


 葵は、自分の声を思い出す。


 部室の壁に当たって戻ってきた声。


 きれいに出ているのに、どこへ行けばいいのかわからなかった声。


 画面の中で、ギターの子の左手が動く。


 梨花の目がそこを追った。


「サビ前、ここ」


 梨花が小さく言った。


 声が必要以上に冷静だった。


「一拍、置いてる」


「置いてる?」


 千夏が聞く。


「前に出る前に、空けてる。だからボーカルが入る場所がある」


 梨花は画面から目を離さない。


「昨日、うちらが合わせたところ、たぶんここが狭い」


 瀬奈が、スマホではなく梨花を見た。


 葵は、画面を見た。


 画面の中のボーカルは、その空いた場所へ迷わず入っていく。


 自分のために開いた場所だと、最初から知っているみたいに。


 ベースの音が前に出る。


 瀬奈の指が、ケースの上で少し動いた。


 音は小さなスマホから出ているのに、その二小節だけは床の位置が変わったように感じた。


 ドラムの子が笑う。


 千夏が小さく息を吐いた。


「スマホって、ずるいね」


「なにが」


 瀬奈が聞く。


「こんなに小さいのに、体育館を部室に連れてくる」


 誰も笑わなかった。


 笑えない冗談ではなかった。


 むしろ、千夏らしい言い方だった。


 でも今は、その言葉がそのまま本当だった。


 動画は最後まで流れた。


 最後の音が止まる。


 画面の中で拍手が起きる。音は薄く割れていて、実際の体育館よりずっと小さいはずなのに、葵には十分すぎるほど大きかった。


 梨花が画面を閉じた。


 部室が静かになった。


 窓の外で、運動部のかけ声が遠く聞こえる。


 廊下の奥では、まだ一年生たちの声がしている。


 動画を見れば、少しは楽になるかもしれないと思っていた。


 怖いものの形がわかれば、怖さは小さくなるかもしれないと。


 でも、形がわかった怖さは、小さくならなかった。


 ただ、名前がついただけだった。


 あの声。


 あの一拍。


 あの二小節。


 あの笑顔。


 悪く言えないものが、また増えた。


「明日」


 梨花が言った。


 誰も返事をしなかった。


「サビ前から。今のところ、直そう」


 瀬奈が少しだけ目を伏せた。


「今日じゃなくて?」


「今日は、一回見たから」


 梨花の声は、落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


「今やると、たぶん急ぐ」


 千夏がスティックケースの紐を指で押さえた。


「梨花が明日にするって言うの、珍しい」


「珍しいこともする」


「じゃあ、明日。サビ前から」


 千夏はそう言って、わざと明るくうなずいた。


 瀬奈も小さくうなずく。


 葵は、少し遅れてうなずいた。


 前向きな言葉のはずだった。


 見ないまま怖がるのではなく、見た上で直す。


 逃げているわけではない。


 たぶん、正しい。


 正しいからこそ、部室の空気が少し硬くなった。


 梨花はギターケースを開けなかった。


 瀬奈もベースを出さなかった。


 千夏は残っていたシュガレットを一本かじって、白い端を小さく折った。


 葵はマイクスタンドに触れた。


 今日は歌わない。


 そう決まっただけで、少しだけほっとした自分がいた。


 そのことに気づいて、葵は手を離した。


 直す。


 明日、ここを直す。


 その言葉は、前へ進むためのもののはずだった。


 それなのに今日は、少しだけ怖い音で鳴った。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。