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退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


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3/15

第3話 悪く言えない音

 まだ、終わり方の名前なんて、どこにもなかった。


 後輩たちのあの曲を聞いた翌日の放課後、部室へ向かう廊下は、いつもと同じに見えた。


 窓の外では、五月に入って間もない光が校舎の壁に薄く貼りついている。運動部のかけ声がグラウンドから上がり、吹奏楽部の音階練習が別の棟から細く伸びてきて、誰かの笑い声が階段の方で跳ねた。


 全部、いつもの山上高校だった。


 なのに、葵は歩く速度を少しだけ決められずにいた。


 梨花は先頭でギターケースを背負っている。いつもなら、ケースの重さに合わせて自然に少し前へ出る。瀬奈はその半歩後ろ。千夏は手すり側を歩きながら、スティックケースの紐を指で弾いている。


 並びも、歩幅も、昨日までとほとんど変わらない。


 変わっていないものを探すみたいに、葵は三人の背中を見ていた。


「一年の子たち、昨日の動画、もう誰か上げてたよね」


 階段の上から、知らない女子の声が降ってきた。


「見た。普通にうまくない?」


「ね。あれ部内発表って感じじゃなかった」


 悪意のない声だった。


 明るくて、少し興奮していて、ただ良いものを見つけた人の声だった。


 梨花の歩幅が、一段だけ短くなった。


 瀬奈は顔を上げなかった。


 千夏が、スティックケースの紐を弾くのをやめた。


 誰も、何も言わなかった。


 そのまま別館へ向かう短い外階段を下りる。湿った風が制服の袖を少しだけ押した。昨日、体育館からの帰りに歩いた百段坂とは違う、校内の小さな階段だった。それでも一段ごとに、足の裏へ昨日の音が戻ってくる気がした。


「動画って、仕事早すぎじゃない?」


 千夏が、ようやく言った。


 声は軽かった。


 軽くしようとしている声だった。


「昨日の夜には上がってた」


 瀬奈が答える。


「見たんだ」


「通知だけ」


「通知だけで偉い。私、通知見て閉じた。精神の省エネ」


「省エネできてる?」


「できてない。めちゃくちゃ燃費悪い」


 千夏が笑う。


 葵も少しだけ笑った。


 笑ったあと、すぐに口の中が乾いた。


 笑いが、音になる前に止まる。そんな感じがした。


 別館の入口で、四人は外靴を脱ぎ、室内シューズに履き替えた。


 部室の扉を開けると、古い木の匂いとアンプの埃っぽい匂いがした。窓際には、誰かが置いていったピックが昨日と同じ角度で落ちている。壁の文化祭ポスターも、ドラムセットのシンバルについた指紋も、何も変わっていない。


 変わっていないことが、少しだけ意地悪だった。


 梨花がギターケースを下ろした。


「昨日のこと、少しだけ確認してから合わせよう」


「反省会?」


 千夏が言う。


「確認」


「反省会って言うと負けた感あるもんね。確認会。うん、負けてない。確認してるだけ」


「会にしなくていい」


 瀬奈がベースケースを開けながら言った。


 いつもの返しだった。


 でも、千夏の笑いは半拍遅れた。


 梨花はチューナーを取り出して、弦を一本ずつ鳴らした。音が部室の狭い壁に当たって戻ってくる。体育館では遠くへ散っていった音が、ここではすぐに自分たちのところへ戻ってくる。


 ピックを探して制服のポケットに手を入れた梨花が、二枚、三枚と続けて机の上に出した。最後に小さなクロスまで出てきて、千夏が「梨花のポケット、楽器屋さん?」と目を丸くする。


「予備」


「予備の量じゃない」


 瀬奈が短く言った。


「梨花、もしポケット洗濯したら大事件だね」


「洗濯しない」


「そこ断言なんだ」


「出す」


「出すんだ」


 千夏が笑い、葵も少しだけ笑った。


 梨花は笑わなかった。ただ、選んだ一枚を持ち直す時、ほんの少しだけ耳が赤かった。


 それで、その話は終わった。


 チューナーの小さな針が、真ん中で止まる。


 梨花は弦から手を離した。


「一年のギターの子」


 梨花が言った。


 誰も、その続きを急かさなかった。


「昨日、サビ前で一回リズムから外れかけたのに、戻り方が自然だった。ずれたのを隠すんじゃなくて、そのまま前に持っていった」


 梨花の声は静かだった。


 悔しさで乱れているわけではない。


 本当に、正確に見ていた人の声だった。


「あと、音が怖がってなかった。荒いところはあるけど、前に出るのをやめてない」


「梨花」


 千夏が呼んだ。


「なに」


「それ、褒めすぎると、逆にうちらの胸に刺さるやつ」


「事実だから」


「事実が一番刺さるって、誰か学校で教えてくれなかった?」


「教わってない」


「じゃあ、今覚えた。胸で」


 千夏が自分の胸を押さえた。


 いつもなら、そこで葵は笑っていた。


 今日は笑ったのに、笑いきれなかった。


 梨花も、少しだけ口元をゆるめた。でも、その目はギターの指板を見ていた。


「悪く言えないんだよね」


 葵は、気づいたら言っていた。


 三人が葵を見る。


 自分で出した声なのに、葵は少し驚いた。歌う時より小さくて、でも思ったよりまっすぐ部室に落ちた。


「悪くないどころか、良かったから」


 瀬奈が言った。


 短い言葉だった。


 それだけで、部室の中に昨日の体育館が戻ってきた。


 明るい照明。まっすぐ伸びたマイクスタンド。最初の音で顔を上げた誰か。ギターの子の左手。ボーカルの子の少しかすれた声。ベースの二小節。ドラムの笑顔。


 嫌な音ではなかった。


 だから、消えてくれなかった。


 扉が軽く叩かれた。


 四人が同時にそちらを見る。


「失礼します」


 入ってきたのは、一年生のギターの子だった。昨日ステージで、梨花が見ていた左手の子だ。肩から小さなケースを下げていて、扉のところで少しだけ背筋を伸ばしている。


「あの、予備のシールドって、一本お借りできますか。うちの、接触が悪くて」


 声まで、ちゃんとしていた。


 焦っているのに、乱暴ではない。先輩の部室に入ってきたことを、ちゃんと意識している。


 梨花がすぐに棚へ向かった。


「こっちの短いのでよければ。端子、ゆるいかもしれないから気をつけて」


「ありがとうございます」


 一年生の子は両手で受け取った。


 それから、少しだけ迷った顔をした。


「昨日の先輩たちの、最後のところ」


 葵の喉が、きゅっと狭くなった。


「四人で入るところ、好きでした」


 部室の音が、そこで一度止まった。


 褒められた。


 たぶん、ちゃんと褒められた。


 でも葵は、すぐに「ありがとう」と言えなかった。


 梨花が先に言った。


「ありがとう」


 いつもの梨花だった。必要な言葉を、必要な場所に置ける人だった。


 葵は、その「ありがとう」が遅れなかったことを見ていた。苦しい空気の中でも、梨花は相手を悪者にしない場所だけは手放していない。


 一年生の子は、少し安心したように笑った。


「また返しに来ます」


「うん」


 扉が閉まる。


 廊下の足音が遠ざかっていく。


 千夏が、小さく息を吐いた。


「いい子すぎない?」


「いい子だった」


 瀬奈が言った。


「やめて。もうどこにも怒れない」


「怒る相手を探す話じゃない」


「わかってる。だから困ってる」


 千夏の声は、ちゃんと軽かった。


 けれど最後の一言だけ、ほんの少し下がった。


 葵はマイクスタンドの前に立った。今言われたばかりの一年生の言葉が、まだ耳の奥に残っている。


 四人で入るところ、好きでした。


 好きと言われた場所を、自分たちはちゃんと覚えていただろうか。


 梨花がアンプのつまみを調整する。


「合わせよう」


「いつもの?」


 瀬奈が聞く。


「うん。昨日やったところ。最初から」


 千夏がスティックを持つ。


「テンポは?」


「少し落とす」


「逃げ?」


 いつもの調子で言ったのに、空気が少しだけ硬くなった。


 千夏自身も、それに気づいた顔をした。


 梨花は怒らなかった。


「聞くため」


 その言葉で、葵は少しだけ息を吸った。


 聞くため。


 体育館では、いろんな音が遠かった。自分の声さえ、天井の方へ逃げていった気がした。部室なら、逃げられない。逃げられないかわりに、聞こえてしまう。


 瀬奈がベースを構える。いつもより指の位置を丁寧に確かめているように見えた。


 千夏がハイハットを軽く踏む。乾いた音が一つだけ鳴った。


 梨花がピックを構える。


 葵は、マイクに近づいた。


 昨日のボーカルの子の声を思い出さないようにした。


 思い出さないようにした時点で、もう思い出していた。


「ワン、ツー」


 千夏のカウントが入る。


 最初の音は、悪くなかった。


 梨花のギターは丁寧だった。いつもより少しだけ、角を丸くしている。前に出すぎないようにしているのが、葵にもわかった。


 瀬奈のベースは安定していた。安定していたけれど、昨日より少しだけ後ろにいる。全体を支えようとして、床の下へ潜っていくみたいだった。


 千夏のドラムは明るかった。明るいはずだった。けれど、ハイハットの開き方が少し硬い。笑うために口角を上げる時の、ほんの小さな力みに似ていた。


 葵の声は、ちゃんと出た。


 音程も外していない。息も足りている。きれいに出せている。


 きれいに出せているのに、どこへ届いているのかわからなかった。


 部室の壁に当たって、戻ってくる。


 戻ってきた自分の声は、自分のものなのに少しよそよそしかった。


 葵は、声を少し前へ出そうとした。


 その瞬間、梨花のギターが一歩引いた。


 瀬奈のベースがさらに支えに回る。


 千夏のキックが、ほんの少しだけ遅れた。


 誰かが間違えたわけではなかった。


 でも、四人が同時に誰かを待っているみたいな音になった。


「ごめん、止める」


 梨花が言った。


 音が切れる。


 部室が急に狭くなった。


「悪くはない」


 瀬奈が言った。


「悪くはない、ってやつ、今日ちょっと信用ならないね」


 千夏がスティックを肩に乗せる。


「何が」


「悪くはない、の中に良いが入ってる日と、入ってない日がある」


 瀬奈は少しだけ考えた。


「今日は」


「言わせないで」


 千夏が笑った。


 笑ったのに、誰も続けなかった。


 梨花は譜面の端を指で押さえた。


「サビ前、葵が出るところ、もう少し空ける」


「私?」


「うん。葵が悪いんじゃない。出る場所が狭くなってる」


 悪いんじゃない。


 その言葉が、かえって葵の胸に残った。


 悪くないものばかりが増えていく。


 後輩も悪くない。


 梨花も悪くない。


 瀬奈も千夏も悪くない。


 自分の声だって、たぶん悪くない。


 それなのに、何かが少しずつ置き場所をなくしている。


「じゃあ、そこだけ」


 葵は言った。


 歌える、とは言わなかった。


 昨日から、その言葉を使うのが少し難しくなっている。


「サビ前から」


 梨花が言う。


 千夏が短くカウントを取る。


 二回目は、少しだけ良くなった。


 梨花のギターが葵のために空けた場所へ、声はまっすぐ入った。瀬奈のベースが下から支えて、千夏のハイハットが細く風を通す。


 たぶん、さっきより良かった。


 それはわかった。


 でも、良かった、と誰も言わなかった。


 言うと、昨日の一年生の音と同じ場所に置かれてしまう気がした。


 言葉の形は同じなのに、中身が違いすぎる。


「もう一回」


 梨花が言った。


 瀬奈がうなずく。


 千夏はスティックを持ち直した。


「了解。確認会、延長戦」


「延長しすぎると試合になる」


「じゃあまだ練習」


「最初から練習」


 短いやり取りが、今度は少しだけ自然に転がった。


 葵は、その転がり方にほっとした。


 まだ大丈夫だと思いたかった。


 四人でこうやって話せる。合わせられる。止めて、直して、もう一回と言える。


 それなら、昨日の音が残っていても、少しずつ薄くなっていくはずだった。


 練習は続いた。


 同じところを何度も合わせる。梨花が入りを整え、瀬奈が下を支え、千夏が空気を明るくしようとして、葵が声を乗せる。


 失敗したわけではない。


 崩れたわけでもない。


 でも、音が止まるたびに、誰かが次の修正点を探した。


 前なら、もっと早く笑っていた気がする。


 前なら、千夏が変な言い方をして、瀬奈が短く返して、梨花が呆れながらも次のカウントを出して、葵はその中で自然に息を吸っていた。


 今日は、笑いより先に確認が来た。


 間違えないための確認。


 比べないための確認。


 昨日聞いた音を、部室の隅へ追いやるための確認。


 けれど、追いやろうとするほど、後輩たちの音はそこに残った。


 窓の外が少し暗くなる頃、梨花がギターを下ろした。


「今日は、ここまでにしよう」


 千夏が「え、もう」と言いかけて、やめた。


 瀬奈はアンプの電源を落とした。


 葵はマイクスタンドから少し離れた。


 喉は痛くない。


 声も、ちゃんと出た。


 なのに、歌ったあと特有の小さな熱が、今日は胸の真ん中へ残らなかった。


「お疲れ」


 梨花が言った。


「お疲れ」


 瀬奈が返す。


「おつかれさまです、確認会のみなさん」


 千夏が言って、少しだけ笑った。


 葵も笑った。


 今度は、ほんの少し本当に笑えた。


 それでも、部室の空気は軽くならなかった。


 ギターをケースにしまう音。ベースの金具を閉じる音。スティックが布に擦れる音。マイクのケーブルを巻く音。


 いつもの片づけの音が、今日は全部、少しだけ丁寧だった。


 一年生のギターの子が借りていったシールドの空いた場所だけが、棚の中で細く暗くなっている。


 葵は、それを見ていた。


 貸しただけ。


 ただ、それだけ。


 それなのに、何かを持っていかれたみたいに見えた。


 部室を出る前、梨花が振り返った。


「明日も、同じところからやろう」


「了解」


 瀬奈が言う。


「あ、じゃあ明日も確認会?」


 千夏が聞く。


「練習」


 梨花が返す。


「ですよね。確認会って名前、ちょっと固いし」


「千夏が言った」


「私、たまに敵を自分で作るから」


 千夏が笑う。


 葵は、その笑いにうなずいた。


 明日も練習する。


 それが、普通のことのはずだった。


 普通のことを普通に続けていけば、普通に戻れるはずだった。


 でも部室の扉を閉めた時、廊下の向こうから一年生たちの声が聞こえた。


 明るくて、礼儀正しくて、少しだけ楽しそうな声。


 誰かが笑っている。


 誰かが、さっき借りたシールドの礼を言っている。


 その声に、怒る理由はどこにもなかった。


 練習は終わった。


 失敗したわけではなかった。


 でも、誰も「良かった」とは言わなかった。


 後輩たちの音は、悪く言えないまま、四人の部室に残っていた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

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