第3話 悪く言えない音
まだ、終わり方の名前なんて、どこにもなかった。
後輩たちのあの曲を聞いた翌日の放課後、部室へ向かう廊下は、いつもと同じに見えた。
窓の外では、五月に入って間もない光が校舎の壁に薄く貼りついている。運動部のかけ声がグラウンドから上がり、吹奏楽部の音階練習が別の棟から細く伸びてきて、誰かの笑い声が階段の方で跳ねた。
全部、いつもの山上高校だった。
なのに、葵は歩く速度を少しだけ決められずにいた。
梨花は先頭でギターケースを背負っている。いつもなら、ケースの重さに合わせて自然に少し前へ出る。瀬奈はその半歩後ろ。千夏は手すり側を歩きながら、スティックケースの紐を指で弾いている。
並びも、歩幅も、昨日までとほとんど変わらない。
変わっていないものを探すみたいに、葵は三人の背中を見ていた。
「一年の子たち、昨日の動画、もう誰か上げてたよね」
階段の上から、知らない女子の声が降ってきた。
「見た。普通にうまくない?」
「ね。あれ部内発表って感じじゃなかった」
悪意のない声だった。
明るくて、少し興奮していて、ただ良いものを見つけた人の声だった。
梨花の歩幅が、一段だけ短くなった。
瀬奈は顔を上げなかった。
千夏が、スティックケースの紐を弾くのをやめた。
誰も、何も言わなかった。
そのまま別館へ向かう短い外階段を下りる。湿った風が制服の袖を少しだけ押した。昨日、体育館からの帰りに歩いた百段坂とは違う、校内の小さな階段だった。それでも一段ごとに、足の裏へ昨日の音が戻ってくる気がした。
「動画って、仕事早すぎじゃない?」
千夏が、ようやく言った。
声は軽かった。
軽くしようとしている声だった。
「昨日の夜には上がってた」
瀬奈が答える。
「見たんだ」
「通知だけ」
「通知だけで偉い。私、通知見て閉じた。精神の省エネ」
「省エネできてる?」
「できてない。めちゃくちゃ燃費悪い」
千夏が笑う。
葵も少しだけ笑った。
笑ったあと、すぐに口の中が乾いた。
笑いが、音になる前に止まる。そんな感じがした。
別館の入口で、四人は外靴を脱ぎ、室内シューズに履き替えた。
部室の扉を開けると、古い木の匂いとアンプの埃っぽい匂いがした。窓際には、誰かが置いていったピックが昨日と同じ角度で落ちている。壁の文化祭ポスターも、ドラムセットのシンバルについた指紋も、何も変わっていない。
変わっていないことが、少しだけ意地悪だった。
梨花がギターケースを下ろした。
「昨日のこと、少しだけ確認してから合わせよう」
「反省会?」
千夏が言う。
「確認」
「反省会って言うと負けた感あるもんね。確認会。うん、負けてない。確認してるだけ」
「会にしなくていい」
瀬奈がベースケースを開けながら言った。
いつもの返しだった。
でも、千夏の笑いは半拍遅れた。
梨花はチューナーを取り出して、弦を一本ずつ鳴らした。音が部室の狭い壁に当たって戻ってくる。体育館では遠くへ散っていった音が、ここではすぐに自分たちのところへ戻ってくる。
ピックを探して制服のポケットに手を入れた梨花が、二枚、三枚と続けて机の上に出した。最後に小さなクロスまで出てきて、千夏が「梨花のポケット、楽器屋さん?」と目を丸くする。
「予備」
「予備の量じゃない」
瀬奈が短く言った。
「梨花、もしポケット洗濯したら大事件だね」
「洗濯しない」
「そこ断言なんだ」
「出す」
「出すんだ」
千夏が笑い、葵も少しだけ笑った。
梨花は笑わなかった。ただ、選んだ一枚を持ち直す時、ほんの少しだけ耳が赤かった。
それで、その話は終わった。
チューナーの小さな針が、真ん中で止まる。
梨花は弦から手を離した。
「一年のギターの子」
梨花が言った。
誰も、その続きを急かさなかった。
「昨日、サビ前で一回リズムから外れかけたのに、戻り方が自然だった。ずれたのを隠すんじゃなくて、そのまま前に持っていった」
梨花の声は静かだった。
悔しさで乱れているわけではない。
本当に、正確に見ていた人の声だった。
「あと、音が怖がってなかった。荒いところはあるけど、前に出るのをやめてない」
「梨花」
千夏が呼んだ。
「なに」
「それ、褒めすぎると、逆にうちらの胸に刺さるやつ」
「事実だから」
「事実が一番刺さるって、誰か学校で教えてくれなかった?」
「教わってない」
「じゃあ、今覚えた。胸で」
千夏が自分の胸を押さえた。
いつもなら、そこで葵は笑っていた。
今日は笑ったのに、笑いきれなかった。
梨花も、少しだけ口元をゆるめた。でも、その目はギターの指板を見ていた。
「悪く言えないんだよね」
葵は、気づいたら言っていた。
三人が葵を見る。
自分で出した声なのに、葵は少し驚いた。歌う時より小さくて、でも思ったよりまっすぐ部室に落ちた。
「悪くないどころか、良かったから」
瀬奈が言った。
短い言葉だった。
それだけで、部室の中に昨日の体育館が戻ってきた。
明るい照明。まっすぐ伸びたマイクスタンド。最初の音で顔を上げた誰か。ギターの子の左手。ボーカルの子の少しかすれた声。ベースの二小節。ドラムの笑顔。
嫌な音ではなかった。
だから、消えてくれなかった。
扉が軽く叩かれた。
四人が同時にそちらを見る。
「失礼します」
入ってきたのは、一年生のギターの子だった。昨日ステージで、梨花が見ていた左手の子だ。肩から小さなケースを下げていて、扉のところで少しだけ背筋を伸ばしている。
「あの、予備のシールドって、一本お借りできますか。うちの、接触が悪くて」
声まで、ちゃんとしていた。
焦っているのに、乱暴ではない。先輩の部室に入ってきたことを、ちゃんと意識している。
梨花がすぐに棚へ向かった。
「こっちの短いのでよければ。端子、ゆるいかもしれないから気をつけて」
「ありがとうございます」
一年生の子は両手で受け取った。
それから、少しだけ迷った顔をした。
「昨日の先輩たちの、最後のところ」
葵の喉が、きゅっと狭くなった。
「四人で入るところ、好きでした」
部室の音が、そこで一度止まった。
褒められた。
たぶん、ちゃんと褒められた。
でも葵は、すぐに「ありがとう」と言えなかった。
梨花が先に言った。
「ありがとう」
いつもの梨花だった。必要な言葉を、必要な場所に置ける人だった。
葵は、その「ありがとう」が遅れなかったことを見ていた。苦しい空気の中でも、梨花は相手を悪者にしない場所だけは手放していない。
一年生の子は、少し安心したように笑った。
「また返しに来ます」
「うん」
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかっていく。
千夏が、小さく息を吐いた。
「いい子すぎない?」
「いい子だった」
瀬奈が言った。
「やめて。もうどこにも怒れない」
「怒る相手を探す話じゃない」
「わかってる。だから困ってる」
千夏の声は、ちゃんと軽かった。
けれど最後の一言だけ、ほんの少し下がった。
葵はマイクスタンドの前に立った。今言われたばかりの一年生の言葉が、まだ耳の奥に残っている。
四人で入るところ、好きでした。
好きと言われた場所を、自分たちはちゃんと覚えていただろうか。
梨花がアンプのつまみを調整する。
「合わせよう」
「いつもの?」
瀬奈が聞く。
「うん。昨日やったところ。最初から」
千夏がスティックを持つ。
「テンポは?」
「少し落とす」
「逃げ?」
いつもの調子で言ったのに、空気が少しだけ硬くなった。
千夏自身も、それに気づいた顔をした。
梨花は怒らなかった。
「聞くため」
その言葉で、葵は少しだけ息を吸った。
聞くため。
体育館では、いろんな音が遠かった。自分の声さえ、天井の方へ逃げていった気がした。部室なら、逃げられない。逃げられないかわりに、聞こえてしまう。
瀬奈がベースを構える。いつもより指の位置を丁寧に確かめているように見えた。
千夏がハイハットを軽く踏む。乾いた音が一つだけ鳴った。
梨花がピックを構える。
葵は、マイクに近づいた。
昨日のボーカルの子の声を思い出さないようにした。
思い出さないようにした時点で、もう思い出していた。
「ワン、ツー」
千夏のカウントが入る。
最初の音は、悪くなかった。
梨花のギターは丁寧だった。いつもより少しだけ、角を丸くしている。前に出すぎないようにしているのが、葵にもわかった。
瀬奈のベースは安定していた。安定していたけれど、昨日より少しだけ後ろにいる。全体を支えようとして、床の下へ潜っていくみたいだった。
千夏のドラムは明るかった。明るいはずだった。けれど、ハイハットの開き方が少し硬い。笑うために口角を上げる時の、ほんの小さな力みに似ていた。
葵の声は、ちゃんと出た。
音程も外していない。息も足りている。きれいに出せている。
きれいに出せているのに、どこへ届いているのかわからなかった。
部室の壁に当たって、戻ってくる。
戻ってきた自分の声は、自分のものなのに少しよそよそしかった。
葵は、声を少し前へ出そうとした。
その瞬間、梨花のギターが一歩引いた。
瀬奈のベースがさらに支えに回る。
千夏のキックが、ほんの少しだけ遅れた。
誰かが間違えたわけではなかった。
でも、四人が同時に誰かを待っているみたいな音になった。
「ごめん、止める」
梨花が言った。
音が切れる。
部室が急に狭くなった。
「悪くはない」
瀬奈が言った。
「悪くはない、ってやつ、今日ちょっと信用ならないね」
千夏がスティックを肩に乗せる。
「何が」
「悪くはない、の中に良いが入ってる日と、入ってない日がある」
瀬奈は少しだけ考えた。
「今日は」
「言わせないで」
千夏が笑った。
笑ったのに、誰も続けなかった。
梨花は譜面の端を指で押さえた。
「サビ前、葵が出るところ、もう少し空ける」
「私?」
「うん。葵が悪いんじゃない。出る場所が狭くなってる」
悪いんじゃない。
その言葉が、かえって葵の胸に残った。
悪くないものばかりが増えていく。
後輩も悪くない。
梨花も悪くない。
瀬奈も千夏も悪くない。
自分の声だって、たぶん悪くない。
それなのに、何かが少しずつ置き場所をなくしている。
「じゃあ、そこだけ」
葵は言った。
歌える、とは言わなかった。
昨日から、その言葉を使うのが少し難しくなっている。
「サビ前から」
梨花が言う。
千夏が短くカウントを取る。
二回目は、少しだけ良くなった。
梨花のギターが葵のために空けた場所へ、声はまっすぐ入った。瀬奈のベースが下から支えて、千夏のハイハットが細く風を通す。
たぶん、さっきより良かった。
それはわかった。
でも、良かった、と誰も言わなかった。
言うと、昨日の一年生の音と同じ場所に置かれてしまう気がした。
言葉の形は同じなのに、中身が違いすぎる。
「もう一回」
梨花が言った。
瀬奈がうなずく。
千夏はスティックを持ち直した。
「了解。確認会、延長戦」
「延長しすぎると試合になる」
「じゃあまだ練習」
「最初から練習」
短いやり取りが、今度は少しだけ自然に転がった。
葵は、その転がり方にほっとした。
まだ大丈夫だと思いたかった。
四人でこうやって話せる。合わせられる。止めて、直して、もう一回と言える。
それなら、昨日の音が残っていても、少しずつ薄くなっていくはずだった。
練習は続いた。
同じところを何度も合わせる。梨花が入りを整え、瀬奈が下を支え、千夏が空気を明るくしようとして、葵が声を乗せる。
失敗したわけではない。
崩れたわけでもない。
でも、音が止まるたびに、誰かが次の修正点を探した。
前なら、もっと早く笑っていた気がする。
前なら、千夏が変な言い方をして、瀬奈が短く返して、梨花が呆れながらも次のカウントを出して、葵はその中で自然に息を吸っていた。
今日は、笑いより先に確認が来た。
間違えないための確認。
比べないための確認。
昨日聞いた音を、部室の隅へ追いやるための確認。
けれど、追いやろうとするほど、後輩たちの音はそこに残った。
窓の外が少し暗くなる頃、梨花がギターを下ろした。
「今日は、ここまでにしよう」
千夏が「え、もう」と言いかけて、やめた。
瀬奈はアンプの電源を落とした。
葵はマイクスタンドから少し離れた。
喉は痛くない。
声も、ちゃんと出た。
なのに、歌ったあと特有の小さな熱が、今日は胸の真ん中へ残らなかった。
「お疲れ」
梨花が言った。
「お疲れ」
瀬奈が返す。
「おつかれさまです、確認会のみなさん」
千夏が言って、少しだけ笑った。
葵も笑った。
今度は、ほんの少し本当に笑えた。
それでも、部室の空気は軽くならなかった。
ギターをケースにしまう音。ベースの金具を閉じる音。スティックが布に擦れる音。マイクのケーブルを巻く音。
いつもの片づけの音が、今日は全部、少しだけ丁寧だった。
一年生のギターの子が借りていったシールドの空いた場所だけが、棚の中で細く暗くなっている。
葵は、それを見ていた。
貸しただけ。
ただ、それだけ。
それなのに、何かを持っていかれたみたいに見えた。
部室を出る前、梨花が振り返った。
「明日も、同じところからやろう」
「了解」
瀬奈が言う。
「あ、じゃあ明日も確認会?」
千夏が聞く。
「練習」
梨花が返す。
「ですよね。確認会って名前、ちょっと固いし」
「千夏が言った」
「私、たまに敵を自分で作るから」
千夏が笑う。
葵は、その笑いにうなずいた。
明日も練習する。
それが、普通のことのはずだった。
普通のことを普通に続けていけば、普通に戻れるはずだった。
でも部室の扉を閉めた時、廊下の向こうから一年生たちの声が聞こえた。
明るくて、礼儀正しくて、少しだけ楽しそうな声。
誰かが笑っている。
誰かが、さっき借りたシールドの礼を言っている。
その声に、怒る理由はどこにもなかった。
練習は終わった。
失敗したわけではなかった。
でも、誰も「良かった」とは言わなかった。
後輩たちの音は、悪く言えないまま、四人の部室に残っていた。
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そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




