第2話 一ヶ月前の音
退部届は、まだ影も形もなかった。
五月の体育館は、少しだけ夏のにおいがした。
四月の体験入部が終わって、一年生が正式に軽音楽部の名簿へ入ってから、初めての部内発表だった。
新入生を勧誘するための発表ではない。もう、入る子は入っている。今日ステージに立つ一年生たちは、見学者ではなく、同じ部の後輩だった。
だからこそ、体育館にはいつもと違う緊張があった。
床には保護シートが敷かれ、正面のステージでは軽音楽部の先輩がアンプの位置を直している。幕は半分だけ開き、マイクスタンドが何本も並んでいた。
体育館の窓は開いているのに、湿った空気は上の方で止まっている。
ケーブルを巻く音も、スネアを軽く叩く音も、部室で聞く時より少し遠く響いた。
「体育館、暑くない?」
千夏がスティックケースを肩にかけ直しながら言った。
「暑い。五月でこれはやばい」
梨花がステージ脇のテープを押さえながら返す。
「ほんとにさー、百段坂で汗かいて、体育館で蒸されて、帰りにまた坂。うちら、部活じゃなくて修行してない?」
「ドラムが一番体力使うからって、全部を修行にしないで」
梨花が言うと、千夏はわざと胸を張った。
「修行の成果、今日も見せます」
「今日はうちらの出番、短いけど」
「短いからこそ濃縮で」
そのやり取りに、葵は少し笑った。
笑ったあとで、ステージの上を見た。今日は部内発表だから、客席は全校生徒でいっぱいというわけではない。部員と、部員の友だちと、今年度から軽音部の顧問になった真柴先生。けれど体育館のステージに立つだけで、同じ一曲でも部室とは全然違うものになる。
曲を完成させる日ではない。
勝ち負けを決める日でもない。
それでも、自分たちの音が、いつもより大きな場所で鳴る日だった。
体育館の入口近くで、女子の声が跳ねた。
「一年のあの子たち、もう準備してる」
「動画で見た子たちでしょ?」
「そうそう。入学前から回ってたやつ」
言葉だけが、湿った空気の中を軽く飛んできた。
梨花の手が、ギターケースの持ち手を少しだけ握り直す。ほんの少しだったから、たぶん誰も気づかない。少なくとも、気づかないふりはできる。
「有名人が本当に同じ部員になったわけだ」
千夏が軽く言った。
「入学前から動画って、今の一年、強すぎない? 私たちの入学前なんて、百段坂で息切れするかどうかしか話題なかったよ」
「千夏だけでしょ」
「みんなしてた。葵もしてた」
「私は、ちょっとだけ」
葵が答えると、千夏は「ほら」と勝った顔をした。
それで少しだけ、いつもの空気に戻った。
戻った、と思った。
ステージの横で、真柴先生が進行表を確認していた。今日は学年順ではなく、二年生と三年生の組の間に一年生も一組ずつ入って、短く音を出していく。正式な大会でも、校外ライブでもない。けれど、一年生が入部してから初めて、部の中でちゃんと音を見せる日だった。
ただの部内発表なら、怖くない。
そう思えるはずだった。
梨花はケースを開け、チューナーを取り出した。瀬奈は梨花の足元に絡まりそうになったケーブルを、無言で少し横へ逃がした。
「ありがとう」
梨花が言うと、瀬奈は「いつもの」とだけ返した。
葵は、その短いやり取りが好きだった。
瀬奈はいつも、必要な場所に先に手を伸ばす。梨花はそれを当然みたいに受け取るけれど、ちゃんと礼は言う。千夏はその横で、何かを落として自分で笑う。葵は、その全部を見ている。
そういう四人のまま、今日も音を出せると思っていた。
二年生の最初の組が終わると、体育館に拍手が広がった。
次にステージへ上がったのは、一年生の四人だった。
名前は、もう知っていた。
部室で自己紹介もしたし、楽器の片づけを一緒にした日もある。廊下ですれ違えば、向こうから明るく頭を下げてくれる。何も知らない相手ではない。
それなのに、四人が体育館のステージに並ぶと、知っている名前より先に、まだ聞いていない音の方が前へ出てきた。
客席の何人かは、もう体を乗り出していた。入口近くでスマホを下げた一年生たちが、少し前のめりになる。二年生の男子が「この子らか」と小さく言った。
ベースの子が先輩に渡されたケーブルを両手で受け取り、「ありがとうございます」とはっきり言った。マイクの高さを直してもらったボーカルの子も、少し照れた顔で頭を下げる。
ドラムの子が「いける」と小さく笑うと、四人の肩からほんの少しだけ力が抜けた。
後輩たちは、派手なことをしたわけではなかった。
ボーカルの子がマイクの前で小さく頭を下げる。ギターの子が、アンプの位置を確かめてから、客席ではなく隣のベースの子を見る。ベースの子はうなずく。ドラムの子は、スティックを回さず、ただ一度だけ深く息を吸った。
千夏が、その息の吸い方を見ていた。
カウントが入った。
ワン、ツー。
軽い声ではなかった。明るいのに、逃げていない声だった。
最初の音が、体育館の床を少しだけ震わせた。
ギターは完璧ではなかった。指がほんの少し走るところもある。高い音へ移るときに、弦がわずかに引っかかる。
でも、その引っかかりが怖くない。
走ったまま、ちゃんと前へ出ていく。失敗を隠そうとしていないのに、失敗に聞こえない。音が、楽しい方へ転がっていく。
梨花の目が、ギターの左手を追った。
葵はそれに気づいて、すぐにステージへ視線を戻した。
ボーカルの子の声は、きれいという言葉からは少し外れていた。少しかすれる。語尾が揺れる。高いところで、ほんの少しだけ息が混じる。
それなのに、最初の歌い出しで、体育館の奥にいた誰かが顔を上げた。
葵は、自分の喉に触れそうになって、やめた。
私なら、もっとまっすぐ出せる。
そう思った瞬間に、その考えが恥ずかしくなった。
まっすぐ出せることと、まっすぐ届くことは、同じではなかった。
ベースの子は、ずっと目立っていたわけではない。
むしろ、最初は後ろにいるように見えた。ドラムの明るいリズムと、ギターの前へ出る音を、下から支えている。けれど二番に入る直前、短い隙間でベースだけが一歩前へ出た。
たった二小節。
それだけで、曲の床が動いた。
瀬奈の指が、自分のベースケースの金具に触れた。
鳴っていない金属が、かすかに音を立てる。
誰にも聞こえないくらい小さな音だった。それでも葵には聞こえた気がした。
ドラムの子は、ずっと笑っていた。
でも、ふざけている笑顔ではなかった。
キックの位置が少しずれても、顔が逃げない。シンバルを叩く直前だけ、口元の笑みが消えて、目だけがまっすぐになる。それから音が出た瞬間、また笑う。
千夏は、いつものように何かを言わなかった。
スティックケースの紐を、指に巻いていた。
葵は、横目で千夏を見た。千夏は笑っている。ちゃんと笑っている。けれど、その笑顔はステージに向いていて、誰かを助けるために作ったものではなかった。
曲がサビに入る。
体育館の空気が、少し前へ動いた。
一年生の観客が手拍子を始めた。知らない曲のはずなのに、二拍目には何人かが合わせていた。上級生も、最初は様子見だった顔をほどいていく。
葵は、その光景が嫌ではなかった。
嫌ではない。
むしろ、良いと思った。
良いと思ってしまった。
そこから先は、拍手までが早かった。
最後の音が止まる前に、体育館のどこかで小さな歓声が上がった。止まった瞬間、拍手が重なって、一年生の四人が少し驚いた顔で笑う。
その顔も、嫌な顔ではなかった。
ちゃんと嬉しそうで、ちゃんと照れていて、ちゃんと頑張ってきた人の顔だった。
「すご」
千夏が言った。
短い声だった。
場を明るくした強さを羨ましがったのか、真剣なまま笑えたことを羨ましがったのか、葵にはすぐわからなかった。
「……うん」
瀬奈が返す。
梨花は何も言わなかった。
梨花の視線は、まださっきの左手の戻り方を追っているようだった。瀬奈は拍手の残りではなく、曲の下で動いた二小節を聞き返している顔をしていた。
そのかわり、ステージ横でギターの子がケーブルを抜き損ねた瞬間、梨花の足が一歩だけ動いた。手伝いに行こうとしたのだと思う。けれど、別の一年生が先に拾って、ギターの子は笑って頭を下げた。
梨花の足は、そこで止まった。
葵は、その足元を見てしまった。
自分たちの出番は、そのあとだった。
何を演奏したのか、葵はちゃんと覚えている。
短いフレーズ。まだ曲名のない、いつもの確認の音。梨花が最初に入って、瀬奈が支えて、千夏が明るく持ち上げて、葵が声を乗せる。
悪くなかった。
本当に、悪くなかった。
梨花のギターは丁寧だった。瀬奈のベースは安定していた。千夏のドラムは、体育館でもちゃんと前へ出た。葵の声も、大きなミスはなかった。
途中で、ほんの短く、音がばらけずに前へ出た瞬間があった。
梨花のギターが前に出すぎず、瀬奈の低い音が床を作り、千夏のハイハットがそこへ細く息を通した。葵の声も、その上に落ちずに乗った。
けれど葵は、それを何かの手応えとして覚えられなかった。息継ぎの位置を間違えないことと、次の入りを外さないことだけで、頭がいっぱいだった。
ステージ脇で進行表を見ていた真柴先生のペンが、その時だけ紙の上で止まっていた。
葵は、それを見たような気もした。
けれど歌い終わる頃には、先生はもう次の組の確認をしていた。
拍手もあった。
だから、終わったあとに誰も落ち込む理由はなかった。
理由は、ないはずだった。
体育館の片付けが始まると、人の熱が少しずつ外へ逃げていった。保護シートを丸める音。パイプ椅子を重ねる音。誰かが「一年、やばかったね」と言う声。
やばかったね。
その言葉は、何度も違う人の口から出た。
「あの一年のギター、自由だったね」
梨花が言った。
言ってから、自分でも少し驚いた顔をした。
瀬奈が横を見る。
「褒めるんだ」
「だって、良かったから」
梨花の声は普通だった。
普通にしようとした声ではなく、本当に普通だった。だから、余計に刺さった。
「荒いところはある。でも、怖がってない。リズムからちょっと外れても、戻り方が自分の音になってる」
梨花はそこまで言って、口を閉じた。
千夏が、軽く笑おうとする。
「梨花先生の講評、ありがたすぎて一年泣くよ」
「茶化さないで」
梨花の返事は、強くはなかった。
でも、千夏の笑顔は途中で止まった。
「ごめん」
「いや、いい」
梨花は首を振った。
よくなかった。
でも、悪くもなかった。
そのどちらにも置けない空気が、四人の間に残った。
体育館を出ると、夕方の光が校舎の窓に細く当たっていた。
階段の下で、一年生たちの声が弾んでいる。さっきの後輩たちが、他の生徒に囲まれているのが見えた。誰かがスマホを向けて、誰かが「もう一回見たい」と言う。
後輩たちは、困ったみたいに笑っていた。
嫌な感じは、少しもなかった。
同じ部の後輩だから、明日も部室で会う。
会えば、たぶん普通に挨拶をする。ケーブルを片づける時には手を貸すし、向こうが困っていたら梨花はきっと教える。千夏は冗談を言う。瀬奈は足元のコードを避ける。葵は、少し遅れてではなく、ちゃんとその場にいて、それを見る。
その普通さまで含めて、置き場所に困った。
千夏が、口の中だけで何かを言った。
「なに?」
瀬奈が聞く。
「いや。伸びしろ、こっちにもちょっと分けてほしいなって」
「それ、本人たちに言わないでね」
「言わないよ。言ったらただの変な先輩じゃん」
千夏は笑った。
今度は、葵も少しだけ笑えた。
けれど、笑い終わったあと、葵はまだ自分の喉を意識していた。
声は出た。
今日も出た。
それなのに、さっき体育館の奥の誰かが顔を上げた瞬間のことが、消えなかった。
きれいに歌うことは、悪いことではない。
ずっと、そう信じてきた。
今もそう信じている。
でも、もしそれだけでは足りないなら。
葵は、そこから先を考えなかった。
考えないように、歩いた。
校門を出ると、百段坂の上に夕方の風が溜まっていた。
朝は上るだけで息が切れる坂も、帰りは少し楽になる。いつもなら、千夏が先に下りながら「一段ずつ、とは言ったけど下りは二段でも可」とか言う。
今日は、誰も先に下りなかった。
四人で横に並ぶには、階段は少し狭い。
梨花が一歩先に出た。瀬奈がその半歩後ろを歩く。千夏は手すり側に寄って、スティックケースの紐を指で弾いた。葵は、三人の背中と、坂の下に見える町の色を交互に見た。
駅の方から、車の音が上がってくる。
海の匂いは、まだ薄い。
「……良かったね」
葵が言った。
言ってから、自分が何を指しているのかわからなくなった。
後輩の演奏。
自分たちの演奏。
今日という日が、何も壊れずに終わったこと。
どれも、少しずつ違う。
「うん」
梨花が答えた。
「良かった」
その言葉は、坂を一段だけ下りたところで止まった。
続きはなかった。
悪く言えない音は、嫌いな音よりずっと置き場所に困る。
憎めたら、たぶん楽だった。
下手だと言えたら、もっと楽だった。
でも、あの音は良かった。
明るくて、まっすぐで、楽しそうで、ちゃんと届いてしまう音だった。
千夏が急に、足元を見た。
「一段ずつ」
小さく言った。
いつもの冗談みたいな大きさではなかった。
自分に言ったのか、誰かに言ったのかもわからない。
瀬奈がそれを聞いて、少しだけ歩幅を緩めた。
梨花は振り返らなかった。
葵は、喉の奥に残っている自分の声を、少しだけ確かめた。
退部届という言葉は、まだどこにもなかった。
かわりに、その日から、悪く言えない音だけが四人の中に残った。
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そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




