第1話 退部届のある放課後
退部届は、透明なクリアファイルに入っていた。
紙はたった四枚だった。けれど梨花がそれを胸の前に抱えているせいで、四人分の鞄よりも重そうに見えた。
放課後の職員室前は、いつもより少しだけ静かだった。テスト期間でもないのに、廊下を走る足音が遠い。窓の外では、六月の雨が降りそうで降らないまま、湿った風だけを校舎に押しつけている。
葵は、クリアファイルの端を見ていた。
中身が見えるのが嫌だった。見えなければ、まだ少しだけ違うもののふりができた。プリントとか、歌詞カードとか、部費の集金袋とか。
でも、見えている。
一番上の紙の左上に、黒い文字で退部届と印刷されている。
「……ほんとに出すんだよね」
千夏が言った。いつもの調子より、半音だけ高かった。
誰かを笑わせる時の声に似ていた。でも、語尾が笑っていなかった。
梨花はクリアファイルを抱え直した。
「出すって決めたでしょ」
「うん。決めた。決めたけどさ」
千夏は職員室の扉を見て、それから天井を見た。天井には蛍光灯が並んでいて、その白さだけがやけにまっすぐだった。
「こういうのって、いざ本当に出すとなると、紙が急にちゃんとして見えるよね」
瀬奈が小さく息を吐いた。
「紙は最初からちゃんとしてる」
「瀬奈、そういう正論、今いちばん刺さる」
「刺さるなら言わない方がよかった?」
「いや、刺さったままで大丈夫。今の私、穴だらけだから」
千夏が自分の胸のあたりを両手で押さえる。いつもなら、葵はそこで笑っていたと思う。
でも笑えなかった。
笑えない自分に、少し驚いた。
四人でいる時、沈黙はだいたい誰かが崩すものだった。梨花が段取りを出す。千夏がくだらないことを言う。瀬奈がそれに真顔で返す。葵は笑って、少し遅れて自分の言葉を置く。
それが、バンドの会話の形だった。
けれど今日は、その形がうまく鳴らない。
「行こう」
梨花が言った。
声は落ち着いていた。落ち着きすぎていた。
葵はうなずいた。瀬奈もうなずいた。千夏だけが、まだ一瞬だけ足元を見ていた。
「千夏」
梨花が呼ぶ。
「はいはい。行きますよ。山上高校軽音部、退部届提出ツアー」
「ツアーにしない」
瀬奈が即座に言った。
「最後の物販、クリアファイルだけです」
「だからツアーにしない」
そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が揺れた。
でも揺れただけだった。
葵は、梨花の腕の中の透明なクリアファイルをもう一度見た。
四枚の紙は、きれいに重なっている。
あまりにもきれいに重なっているから、ずっと一緒に音を出してきたことまで、紙の厚みに押しつぶされてしまいそうだった。
職員室の扉を、梨花がノックした。
「失礼します」
四人の声が、少しずつずれて重なった。
中に入ると、コーヒーの匂いと紙の匂いがした。先生たちの机の間を、印刷機の音が細く走っている。
真柴先生の席は、窓際の列の奥にあった。
今年度から山上高校に来た国語の先生。軽音部の顧問。いつも職員室では背筋を伸ばしていて、話す時に相手の言葉を最後まで聞く人だった。
先生は赤ペンを置いて、四人を見た。
「どうしたの」
その一言で、葵は少しだけ喉が詰まった。
どうしたの、と聞かれるだけで、どうしたんだろう、と自分でも思ってしまう。
梨花が一歩前に出た。
「真柴先生。これ、お願いします」
クリアファイルを差し出す。
先生は中身を見た。
その瞬間、まばたきの間隔が少しだけ変わった。
大きく驚くわけでも、すぐに叱るわけでもなかった。ただ、先生の中で何かが一度止まったのが、葵にはわかった。
「……四人とも?」
「はい」
梨花が答えた。
千夏が、いつもより小さく肩をすくめた。
「仲良し退部です」
誰も笑わなかった。
千夏自身も、笑っていなかった。
真柴先生はクリアファイルを机の上に置いた。けれど、まだ受け取った、というふうには見えなかった。
「そもそも、この用紙はいつ受け取ったの」
梨花が一瞬だけ葵を見た。
葵は答えられなかった。瀬奈も口を開かなかった。
「この前です」
梨花が言った。
「真柴先生がいなかった日に、副顧問の先生から。書けたら顧問に出してって」
先生は少しだけ視線を落とした。
机の上で、退部届の四隅がそろっている。
「……そう。私は、いま初めて知った」
その声は静かだった。
静かだったから、かえって葵の胸の奥に落ちた。
知らなかったんだ。
当たり前のことみたいに思っていた。退部届をもらった時点で、どこかにはもう伝わっているのだと。自分たちはただ、決まっていることの最後の手順をしに来ただけなのだと。
でも、目の前の先生は、いま初めて知った顔をしていた。
「理由を聞いてもいい?」
梨花が唇を結んだ。
葵は、窓の外を見た。
雨はまだ降っていない。
瀬奈が先に言った。
「続けても、変わらないと思ったからです」
「何が」
「音も、結果も、空気も」
短い言葉だった。瀬奈の言葉はいつも短い。でも、その短さの中に、今まで言わなかったものが詰まっていた。
千夏が笑うみたいに息を漏らした。
「あと、なんか、うちら、ちゃんと下手なんですよ」
「ちゃんと下手」
先生が繰り返す。
「はい。雑に下手とかじゃなくて、まじめに下手」
「真面目に練習して、真面目に下手になってる気がする」
梨花が低く言った。
その言葉で、葵の胸が痛くなった。
梨花は、そういう言い方をする人ではなかった。
下手だとしても、次に何をすればいいかを探す人だった。失敗したら、原因を分ける人だった。悔しい時ほど、譜面を見て、動画を見て、メトロノームを鳴らす人だった。
その梨花が、真面目に下手になってる、と言った。
葵は自分の手を握った。
爪が手のひらに当たる。声を出したわけでもないのに、喉の奥だけが先に固くなっていた。
先生は、四人の顔を順番に見た。
「この前の体育館の演奏、聞いたよ」
葵は顔を上げた。
体育館。
あの広すぎる場所。音が散って、声が上ずって、瀬奈のベースが一瞬ずれて、千夏のドラムが走りかけて、梨花のギターがそれを追いかけて、葵の声が最後まで自分のものにならなかった場所。
思い出しただけで、頬の内側が熱くなる。
「あれは」
梨花が言いかけた。
先生は首を横に振らなかった。うなずきもしなかった。
ただ言った。
「上手いかどうかなら、まだ足りない」
瀬奈のまぶたが少し伏せられた。
千夏が靴の先を見た。
葵は、呼吸を止めた。
「でも、足りないだけの音じゃなかった」
先生の声は、職員室のざわめきの中で、変に大きくも小さくもならなかった。
それなのに、はっきり聞こえた。
「途中で一回、四人の音が同じ方を向いた。ほんの一小節。たぶん、君たちは気づいていない」
葵は、自分の記憶を探した。
そんな一小節があっただろうか。
あの演奏は、失敗の塊みたいにしか残っていない。観客の顔。後輩たちの視線。スマホの画面。笑われたわけじゃないのに、笑われたみたいに感じたこと。
そればかりが、こびりついている。
「私は聞いた」
先生は言った。
「だから、今ここで受理するのは、まだ早いと思う」
梨花が顔を上げた。
「でも、もう決めました」
「うん。決めたことを、軽く扱うつもりはない」
先生は、机の上の退部届に指先を置いた。
「逃げるなとも言わない。続けなさいとも、今は言わない」
その言い方が、葵には意外だった。
引き止められると思っていた。
もしくは、理由をひとつずつ聞かれて、説得されると思っていた。
けれど先生は、逃げるな、と言わなかった。
「ただ、君たちが本当に終わるなら、終わり方だけは自分たちで決めてほしい」
「終わり方」
瀬奈が繰り返した。
「来週、校内ミニライブがある。放課後の小さな発表。軽音部からも一組は出す予定だった」
千夏が顔を上げた。
「え、あれ、まだ出る人決まってないんですか」
「決まっていない。だから、君たちが出て」
「退部届を出しに来た人たちが?」
「そう」
先生はまっすぐ言った。
千夏は口を開けたまま止まった。瀬奈も、言葉を探しているようだった。
梨花がクリアファイルを見た。
「それに出たら、受理してくれるんですか」
「受理するかどうかは、今ここでは決めない」
「保留ってことですか」
「退部届は預かる。一週間後、もう一度、君たちの答えを聞かせて」
先生の指が、紙の上から少し離れた。
「最後にするなら、うまく終わろうとしなくていい。今の四人でしか鳴らない音を、そこで鳴らしてきなさい」
うまく終わろうとしなくていい。
その言葉が、葵の中で引っかかった。
終わることにも、うまいとか下手があるのだろうか。
「先生」
梨花の声は、まだ固かった。
「私たちは、たぶん一週間で急に上手くなったりしません」
「知ってる」
すぐに返ってきたので、千夏が少しだけ目を丸くした。
先生は続けた。
「一週間で別人にはならない。だから見たいの。別人じゃない君たちが、何を鳴らすのか」
葵は、何も言えなかった。
そんなふうに聞かれたことはなかった。
上手いか下手か。
勝てるか勝てないか。
見られて恥ずかしいか、恥ずかしくないか。
そういうことばかりを、自分たちは考えていた気がする。
何を鳴らすのか。
その問いだけが、職員室の机の上に残った。
梨花は、長く息を吸った。
「……わかりました」
千夏が小さく言った。
「わかっちゃうの、リーダー」
「わかったんじゃない。返事しただけ」
「それ、ほぼわかった人の言い方」
瀬奈が静かに言った。
「一週間なら、できることはある」
葵は瀬奈を見た。
瀬奈は、退部届から目を逸らしていなかった。
その横顔を見て、葵は思った。
終わるための一週間。
それとも、まだ名前のついていない一週間。
どちらなのかは、今の自分にはわからない。
でも、紙を出して終わるだけの放課後ではなくなってしまったことだけは、わかった。
真柴先生は、クリアファイルから中の四枚だけを抜き取った。
「じゃあ、クリアファイルは返すね」
透明なファイルだけが、梨花の手に戻った。
中身のないクリアファイルは、さっきより軽いはずだった。
それなのに、梨花は両手で受け取った。
「退部届は、私が預かります」
先生は四枚の紙をそろえて、机の引き出しには入れなかった。
赤ペンの横に、見えるように置いた。
「一週間後、もう一度ここに来て」
葵はうなずいた。
声は出なかった。
職員室を出る時、千夏が小さく頭を下げてから、扉の手前で一度振り返った。
「先生」
「なに」
「うちらが本当にひどかったら、ちゃんとひどいって言ってください」
先生は少しだけ考えた。
「ひどい音には、ひどい理由がある。そこまで聞いてから言う」
千夏は困ったように笑った。
「それ、優しいのか怖いのかわかんないです」
「両方かもね」
そこで初めて、先生の口元がほんの少しだけゆるんだ。
職員室の扉が閉まった。
廊下の音が戻ってきた。
誰かの笑い声。遠くのチャイム。窓ガラスを押す湿った風。
四人は、すぐには歩き出さなかった。
透明なクリアファイルだけが、梨花の手元で少し曲がっている。
「……中身、なくなったね」
千夏が言った。
梨花はクリアファイルを見下ろした。
「なくなったわけじゃない。預けただけ」
「退部届も、預けたら宿題みたいになるんだ」
「宿題より重い」
瀬奈が言うと、千夏が小さくうなずいた。
「だよね。宿題は出さなくても怒られるだけだけど、これは出したら終わるやつだし」
その言い方が軽く聞こえたのに、誰も笑わなかった。
葵は、真柴先生の言葉を思い出していた。
最後にするなら、うまく終わろうとしなくていい。
今の四人でしか鳴らない音を、そこで鳴らしてきなさい。
「今の四人でしか鳴らない音って」
葵は、気づいたら口にしていた。
三人が葵を見る。
「なに」
梨花の声は少しだけ柔らかかった。
「ううん。わかんないけど、先生は、そういうふうに聞いたんだなって」
瀬奈が廊下の先を見た。
「私たちは、そう聞いてない」
「うん」
「でも、先生が聞いたなら」
瀬奈はそこで言葉を切った。
続きを、誰も急かさなかった。
千夏がクリアファイルを指さした。
「とりあえず、部室行こ。中身のないファイル持って廊下で固まってるの、まあまあ不審者だし」
「不審者ではない」
「じゃあ、不審部員」
「もっと嫌」
少しだけ笑いが漏れた。
ほんの少し。
それでも、さっきよりは歩ける気がした。
四人は職員室前を離れた。
本校舎の出入口を抜けると、湿った空気が肌にまとわりついた。
部室のある別館へは、外に出たまま校内の短い階段を下り、左奥の建物へ回り込む。
雨の前の風が、制服の裾を揺らした。
瀬奈が一段目で止まった。
「一週間」
「言わないで」
梨花がすぐに返す。
「現実」
「現実をいちいち口に出さないで」
千夏が後ろから二人の間に顔を出した。
「人生も、坂も、退部届も、一段ずつってことですね」
「うまいこと言った顔しない」
「してない。今のは、ちょっとだけ先生に寄せた」
「寄せるの早い」
葵は、三人の後ろを歩いた。
短い階段を下りるだけなのに、足が重かった。
軽音部の別館は、本校舎のざわめきから少しだけ離れた場所にある。窓の向こうで吹奏楽部の音階練習が聞こえ、運動部のかけ声がグラウンドから薄く届く。
その全部が、今日だけは自分たちと関係のない世界みたいだった。
ポケットの中で、四つの通知音がほとんど同時に鳴った。
短い音が重なっただけなのに、四人とも足を止めた。
誰もすぐには画面を出さなかった。
出さなくても、何なのか少しわかってしまったからだ。
梨花が先にスマホを取り出した。
葵も、自分のポケットに手を入れた。
画面には、同じグループの通知が並んでいた。
一年生バンド、また動画回ってる。
短い文章と、サムネイル。
体育館のステージ。明るい照明。まっすぐ伸びたマイクスタンド。そこに立つ、後輩たちの姿。
葵の喉が、きゅっと狭くなった。
山上高校に入学したばかりの一年生バンド。
けれど、ただの一年生ではない。
入学前からSNSで名前が流れていた。中学の時のライブ映像が何度も共有されて、地元の音楽好きの間では少し知られていた。四人とも上手くて、明るくて、ステージの上で迷いがない。
そして、悪い子たちではない。
それが一番、苦しかった。
動画の中の後輩たちは、楽しそうだった。
誰かを踏みつけるために鳴らしている音ではない。見下している顔でもない。ただ、本当に音楽が好きで、練習してきて、今この瞬間を信じている顔だった。
だからこそ、比べてしまう。
画面の向こうのまっすぐさと、自分たちのぐちゃぐちゃした退部届を。
千夏が、スマホを伏せた。
「通知、空気読めなすぎ」
誰も返事をしなかった。
瀬奈は画面を見たまま、親指を動かさなかった。
梨花は、動画を開いていない。
それなのに、その顔はもう音を聞いているみたいだった。
葵も開けなかった。
開いたら、また心のどこかが削れると思った。
後輩たちは、悪くない。
それでも削れる。
悪くないものに傷つけられる時、人はどこに怒ればいいのだろう。
「行こ」
梨花が言った。
さっき職員室の前で言った時より、声が少し低かった。
別館の入口で、四人は外靴を脱ぎ、室内シューズに足を入れた。
別館の扉を開けると、古い木の匂いと、アンプの埃っぽい匂いがした。
軽音部の部室は狭い。
壁には、去年の文化祭のポスターが少し斜めに貼られている。誰かが置いていったピックが窓際に転がり、ドラムセットのシンバルには指紋が残っている。
ここで、何度も練習した。
何度も失敗して、何度も同じところで止まって、何度も「もう一回」と言った。
そして今日、退部届を出した。
出したはずだった。
でも、出しきれなかった。
一週間だけ、戻ってきてしまった。
「曲」
梨花がギターケースを開けながら言った。
「来週、何やるか決めないと」
千夏がスティックケースを机に置いた。
「普通に考えたら、今できる曲」
「普通に考えたら、ね」
瀬奈がベースを取り出す。
「普通じゃないことを一週間でやる余裕はない」
「じゃあ、普通に今できる曲で、普通じゃない顔して出る?」
「顔でどうにかしようとしない」
葵はマイクの前に立った。
自分の声を出す場所。
でも今は、喉に何かが貼りついている。
「葵」
梨花が呼んだ。
「歌える?」
その質問が、優しいのか厳しいのかわからなかった。
葵は、すぐに答えられなかった。
歌える、と言いたかった。
でも、体育館で声が浮いたことを思い出す。後輩たちの動画を思い出す。真柴先生の、一小節だけ先の景色が見えた、という言葉を思い出す。
もし見えたのなら。
見えたものを、自分たちはずっと見落としていたのだろうか。
「……歌う」
葵は言った。
歌える、ではなかった。
歌う。
自分で言ってから、その違いに気づいた。
梨花も気づいたようだった。
少しだけ、目が変わった。
「じゃあ、合わせる」
「うん」
千夏がスティックを回そうとして、落とした。
乾いた音が床に転がる。
「ごめん。今のは演出」
「落下演出」
瀬奈が言う。
「そう。地に足のついたドラマーなので」
「足じゃなくてスティック」
そのやり取りで、今度は少しだけ笑えた。
本当に少しだけ。
でも、笑えた。
梨花がチューナーをつける。
瀬奈がアンプのつまみを絞る。
千夏がハイハットを軽く踏む。
葵はマイクスタンドの前で、手を握ったり開いたりした。
「一回、最初から」
梨花が言った。
「テンポは?」
千夏が聞く。
「いつもより少し落とす」
「逃げ?」
千夏の言葉に、梨花が一瞬だけ眉を寄せた。
けれど怒らなかった。
「逃げじゃなくて、聞くため」
その言葉で、部室の空気が少し変わった。
聞くため。
真柴先生も、聞いたと言った。
葵はマイクを見た。
逃げるなとは言われなかった。
でも、逃げたくなった理由まで音にしてから決めなさい、と言われた気がした。
葵はそれをごまかすように、マイクスタンドの高さを直した。
ほんの少しだけ、自分の口に近づける。
「じゃあ」
梨花がピックを構えた。
瀬奈がうなずく。
千夏がカウントを取る。
「ワン、ツー」
最初の音は、やっぱり少しずれた。
千夏のハイハットが硬い。
瀬奈のベースは慎重すぎる。
梨花のギターは、いつもより前に出ない。
葵の声も、最初の一音で少し震えた。
でも、止まらなかった。
止めなかった。
部室の狭い空気の中で、音がぶつかって、戻ってきて、またぶつかる。
上手くはない。
たぶん、まだ足りない。
でも、足りないだけの音じゃなかった。
先生の言葉を借りるなら。
葵は、自分の声を少しだけ前に出した。
歌詞の意味なんて、今まで何度も歌ってきたはずなのに、今日は違って聞こえた。
終わるために歌っているのか。
始まってしまうために歌っているのか。
まだわからない。
でも一週間後、校内ミニライブでこの音を鳴らす。
退部届は、先生の机の上にある。
透明なクリアファイルは、部室の机の端に置かれている。
中身のないそれが、雨の前の光を薄く反射していた。
四人の音は、まだばらばらだった。
それでも、葵は歌った。
一週間だけ残された放課後が、今、音になっていく。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。
そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




