第10話 空のクリアファイル
透明なクリアファイルは、鞄の中に入っていない。
それなのに週明けの朝、葵は何度も鞄の底を見た。
教科書。ノート。筆箱。水筒。折りたたんだプリント。いつもと同じものしか入っていない。金曜日までそこにあった四枚の紙は、もうない。紙を挟んでいたクリアファイルも、部室の机の端に置いてきた。
だから軽いはずだった。
軽いのに、鞄の持ち手が指に食い込む。
登校して、本校舎の入口をくぐって、廊下に出ても、学校は何も変わっていなかった。
週明けの校舎は、少しだけ眠そうで、少しだけ騒がしい。誰かが小テストの範囲を聞いている。誰かが週末の動画の話をしている。職員室からは印刷機の音がして、廊下の先では先生が提出物の束を抱えて歩いている。
葵は、その全部を見ながら、先生の机の上を思い出していた。
退部届は、そこにある。
自分たちの手元にはない。
でも、消えたわけではない。
預けた、という言葉は不思議だった。出したのに、出し切れていない。戻ってきていないのに、終わってもいない。鍵をかけた箱を誰かに渡したみたいに、軽くなった場所だけが自分の中に残っている。
廊下の掲示板の前で、葵は足を止めた。
先週まで貼られていなかった紙が、一枚増えている。
軽音楽部 校内ミニライブ 出演確認
太い字ではなかった。大げさな飾りもない。文化祭のポスターみたいに色がついているわけでもない。白い紙に、日時と場所と、参加する部員は顧問まで確認すること、という短い文が並んでいる。
それだけだった。
それだけなのに、葵は息を止めていた。
金曜日、真柴先生が言った一週間が、掲示板の紙になっている。
先生の声の中にあった条件が、学校の廊下に貼られている。誰でも見られるところにある。隣を通った一年生が、何気なくその紙を見て、「ミニライブあるんだ」と言って通り過ぎた。
その声で、胸の奥が少しだけ縮んだ。
あるんだ。
ある、という言い方をされると、逃げ道が減る。
「葵」
斜め前から、千夏の声がした。
教室に入る前だった。千夏は片手にノートを抱えて、もう片方の手で掲示板を指さしている。指先はいつものように軽く動いたけれど、言葉はすぐには出てこなかった。
「貼られてる」
「うん」
「貼られてるね」
「うん」
二回言ってから、千夏は自分で少し笑った。
「実況が下手」
「わたしも、うんしか言ってない」
「じゃあ二人で下手」
そう言ってから、千夏は掲示の紙をもう一度見た。
笑いは、そこで小さくなった。
「ほんとに、あるんだね」
葵はうなずいた。
うなずけたことに、自分で少し驚いた。
ある。
紙も、期限も、音を鳴らす場所も。
教室に入ると、窓側の一番左の列、いちばん後ろの席に自分の机があった。そこに座ると、教室全体が少し斜めに見える。黒板。窓。廊下側の扉。前の方の席で、千夏が鞄を机に掛けている。
千夏の席は、葵の右斜め前だ。
近い。
でも、授業中に話せる距離ではない。
その距離が、今日は少しありがたかった。近すぎたら、何か言わなければいけない気がした。遠すぎたら、何も言えないまま一日が終わってしまう気がした。
朝のホームルームが始まっても、葵は何度か掲示板の方を思い出した。
先生が連絡事項を言う。プリントが配られる。週末の課題を忘れた誰かが小さく声を上げる。日直が黒板の端に日付を書く。
普通だった。
普通の中に、金曜日の職員室と部室が折りたたまれている。
退部届を出した人間でも、英単語の小テストはある。退部届を預けたままでも、昼休みに購買のパンは売り切れる。音がばらばらのままでも、チャイムは鳴る。
学校は、何も待ってくれない。
待ってくれないから、一週間は本当に減っていく。
放課後、葵と千夏は教室を出た。
廊下に出る直前、千夏が少しだけ振り返る。掲示板はこの教室からは見えない。見えないのに、そこに紙が貼られていることだけは、さっきよりはっきりしていた。
「梨花たち、もう来てるかな」
「本校舎の入口で待つって」
「瀬奈が言ってた?」
「朝、短く」
千夏は「短く」と同じ短さでうなずいた。
梨花と瀬奈は別の教室にいる。教室が違うと、同じ学校にいても、一日の中で見えている空気が少し違う。葵には、今日の梨花がどんな顔で授業を受けたのか、瀬奈がどんなふうにノートを取ったのか、わからない。
わからないまま、本校舎の入口で合流した。
梨花は、練習ノートを胸の前に抱えていた。
透明なクリアファイルは持っていない。
それだけで、葵は少しだけほっとした。ほっとしたことが、少し嫌だった。
瀬奈は鞄の肩紐を直しながら、三人の顔を順に見た。
「掲示、見た?」
「見た」
千夏が答えた。
「白かった」
梨花が少しだけ眉を動かす。
「感想、そこ?」
「だって、もっと赤とか黄色とかで来ると思ってた」
「学校の掲示に何を期待してるの」
「危険物感」
「危険物ではあるけど」
瀬奈が静かに言った。
そこで、四人とも黙った。
危険物。
冗談みたいな言い方なのに、全然冗談にならなかった。
梨花が練習ノートを開く。表紙の端が少し丸まっていた。何度も持ち歩いた跡だった。
「一週間で、新しい曲は無理」
最初に言ったのは梨花だった。
責める声ではない。決めつける声でもない。ただ、嘘を置かないための声だった。
「うん」
瀬奈がうなずく。
「完成度を上げるのも、たぶん無理。いつも通りに戻すのも無理」
「全部無理から始まる」
千夏が言った。
いつもの軽さに似ていた。
でも、すぐに言い直した。
「ごめん。茶化すところじゃなかった」
「茶化したっていうより、事実」
瀬奈が言う。
梨花は、練習ノートのページを押さえた。
いつもなら、ここから先も梨花が線を引いた。今日はここ。今日はこの入り方。今日はここだけ合わせる。そう言うのは、だいたい梨花だった。
でも今日は、そこまで言う前に指が止まった。
梨花が決めると、終わるための段取りに聞こえてしまう。梨花が決めないと、何も始まらない。
瀬奈は、その止まった指を見ていた。
「全部は無理。だから、全部じゃないところを決める」
葵は、その言い方を聞いて瀬奈を見た。
全部じゃないところ。
何かをあきらめるための言葉にも聞こえる。何かを残すための言葉にも聞こえる。
「校内ミニライブでやるなら」
梨花が言いかけて、少し息を止めた。
瀬奈が、その先だけを短く拾った。
「曲は、今まで一番合わせてきたやつ。タイトルとか、紹介とか、そういうのはあとでいい。まず、どこを聞かせるか決める」
「聞かせる」
梨花が繰り返した。
その声に、少しだけ引っかかりがあった。
「最後にするために鳴らすんじゃないの」
言ってから、梨花はすぐに視線を落とした。
自分で自分の言葉を嫌がったみたいだった。
瀬奈は、すぐには答えなかった。
入口の外では、運動部の掛け声が遠くで弾んでいる。誰かが階段を下りていく音がする。本校舎のガラス扉が閉まる音が、乾いて響いた。
「最後にするなら」瀬奈が言った。「ちゃんと聞こえた方がいい」
梨花は顔を上げた。
「聞こえたら、終われなくなるかもしれない」
「かもしれない」
瀬奈は否定しなかった。
その否定しなさが、葵には少し怖かった。
でも、楽でもあった。
誰かが簡単に、大丈夫、と言わないこと。続けよう、とも、やめよう、とも言わないこと。今の四人には、そういう空白が必要なのかもしれない。
千夏が、抱えていたスティックケースを少し持ち直した。
「じゃあ、一個だけ」
「一個?」
「一小節でも、一拍でも、いいから。終わるためでも聞くためでも、どっちでも嘘にならないところ」
千夏はそこで、少しだけ照れたように口を結んだ。
「今の、わたしにしては真面目すぎ?」
「ううん」
葵は言った。
「助かった」
千夏が目を丸くした。
「助かった?」
「うん」
自分でも変な返事だと思った。でも、ほかの言葉がすぐに出てこなかった。
一曲全部ではない。
終わるか続くかを今ここで決めるのでもない。
一小節でも、一拍でもいい。
それなら、息ができる気がした。
四人は本校舎を出て、別館へ向かった。
道はいつもと同じだった。放課後の風。中庭のざわめき。遠くの楽器の音。週明けで少しだけ固い足取り。
同じなのに、途中で何度も、自分たちはまだこの道を歩いていいのだろうかと思った。
退部届を出した。
でも、預けられた。
預けられたから、歩いている。
それは許されたみたいでもあったし、猶予をつきつけられたみたいでもあった。
別館の入口で、四人は外靴を脱いだ。
室内シューズに足を入れる。
その動作が、あまりにも身体に残っていて、葵は一瞬だけ困った。
靴を脱いで、揃えて、室内シューズを履く。
何度もやってきた。ただの手順。手順になるくらい、ここに来ていた証拠。
梨花が少し遅れて、靴の向きを直した。
瀬奈は何も言わずに待った。
千夏は片足で少しだけ跳ねそうになって、やめた。
「今の、やりかけたでしょ」
梨花が言った。
「やりかけてない」
「やりかけてた」
「確認ジャンプ」
「何の」
「踵があるかどうか」
千夏はそう言ってから、室内シューズの踵を軽く指で触った。
「あります」
梨花が、小さく息を吐いた。
笑った、まではいかなかった。
でも、声の角が少しだけ丸くなった。
部室の扉を開けると、金曜日の匂いがまだ残っている気がした。
アンプ。古い木の棚。ドラムセットの金属。窓際の埃。雨の前に似た、少し湿った光。
机の端には、透明なクリアファイルがあった。
空のまま。
中身がないから、軽い。
軽いのに、そこだけ机が沈んで見える。
梨花が最初にそれを見た。
すぐに目を逸らさなかった。
葵も見た。
退部届は入っていない。先生の机の上にある。
でも、クリアファイルは空になったことで、むしろ中身を覚えているみたいだった。
「片づける?」
千夏が聞いた。
誰に聞いたのかわからない声だった。
梨花は少し考えて、首を振った。
「今日は、そこに置いとく」
「見えるよ」
瀬奈が言う。
「うん。見えるところに置いとく」
その返事で、葵は梨花がクリアファイルから逃げていないことを知った。
逃げられないから、置く。
見えているから、鳴らす。
そういう順番が、今はたぶん必要だった。
練習ノートを開いて、梨花はページの上に指を置いた。
「いつもの曲。サビ前のところ」
「一番事故るところ」
千夏が言う。
「そこをやるの?」
「そこしかない」
梨花の声は、少しだけ硬かった。
「ここが合わないままなら、ミニライブで鳴らす意味がない」
「意味」
葵は小さく繰り返した。
鳴らす意味。
終わるための意味。続けるための意味。誰かに聞かせる意味。自分たちが聞く意味。
言葉にすると、どれも大きすぎた。
でも、サビ前の一小節なら、そこに置けるかもしれない。
千夏がドラムの前に座る。スティックを持って、深く息を吸った。
瀬奈がベースを構えた。いつもより左手の位置を確かめる時間が長い。
梨花はギターを持ったまま、ピックを握り直した。
葵はマイクスタンドの前に立った。
金曜日に少しだけ直した高さが、まだそのままだった。
自分の口に、少し近い高さ。
戻すこともできた。
ただ戻さなかった。
梨花が、練習ノートのサビ前に指を置いた。
いつもなら、そこに赤線を引いて「ここ」と言う。今日は、線を引く前に指だけが止まった。
「最初からじゃなくて」瀬奈が言った。「二つ前の小節から」
「短い」
千夏が言う。
「今日は短くする。広げると、全部をなんとかしようとするから」
「全部じゃないところ」
葵が言うと、瀬奈がうなずいた。
「そこ」
千夏がスティックの先で軽く空中を数えた。
「テンポは?」
梨花が聞く。
「少し落とす」
瀬奈が答えた。
梨花はすぐにはうなずかなかった。
「また落とすの」
「逃げるためじゃない」
瀬奈は静かに言った。
「聞くため」
金曜日に梨花が言った言葉だった。
梨花はそれに気づいたように、少しだけ目を伏せた。
逃げじゃなくて、聞くため。
自分で言った言葉を、瀬奈の声で返される。
それは責められているみたいではなかった。落としたものを拾って渡されたみたいだった。
「わかった」
梨花が言った。
千夏がカウントを取る。
「ワン、ツー」
最初の二拍で、もうずれた。
千夏のハイハットが少し強すぎた。瀬奈のベースがそれを避けるように後ろへ下がる。梨花のギターは前に出るタイミングを逃して、葵の入る場所が狭くなった。
葵は歌い出しかけて、止まった。
止めたくなかったのに、声が喉の手前で引っかかった。
千夏も止まった。
空気だけが、少し遅れて前へ転がる。
「ごめん」
千夏が言った。
「強かった」
「わたしも避けた」
瀬奈が言う。
「わたしも詰めた」
梨花が言う。
葵は、何か言おうとして、自分の喉を軽く押さえた。
出なかった、と言えばよかった。
でも、それは少し違った。
出せなかった。
それも少し違う。
「入るところが、見えなくなった」
葵が言うと、三人がこちらを見た。
責める顔ではなかった。
待つ顔でもなかった。
聞く顔だった。
その顔を見た瞬間、葵はさっきの自分の言葉が、少しだけ前へ出たことに気づいた。
入るところが見えない。
それは、音の話だった。
音の話として、言えた。
「じゃあ」千夏がスティックを軽く合わせた。「わたし、最初を弱くする。強く入ると、葵の場所を踏む」
「踏むって」
梨花が言う。
「音の足」
「また足」
「今日は地に足つけていく日なので」
千夏はそう言ってから、少しだけ真面目な顔に戻った。
「ほんとに、弱くする」
瀬奈がベースの弦に指を置いた。
「わたしは避けない。千夏の後ろじゃなくて、横に置く」
梨花は練習ノートを見て、鉛筆で小さく丸をつけた。
「わたしは、前に出るのを一拍待つ」
葵はマイクを見た。
自分は。
自分は、どうする。
「わたしは」
声にすると、部室が少し静かになった。
「最初の音を、逃がさない」
言ってから、怖くなった。
逃がさない。
何を。
声を。入り口を。一週間を。終わるために鳴らすはずの音を。
わからないままでも、言葉は戻らなかった。
梨花がうなずいた。
「もう一回」
千夏が息を吸う。
今度のカウントは、さっきより少し小さかった。
「ワン、ツー」
ハイハットが、床を叩きつけるみたいではなく、部屋の空気に点を置くみたいに鳴った。
瀬奈のベースが、その点の横に低く並ぶ。低い音が、千夏の点を床ごと沈めないように、部室の下で薄く残る。
梨花のギターは、一拍だけ待った。
待ったまま、葵の入る場所を消さない強さで前を向いた。
その分だけ、葵の入る場所が見えた。
声は、完璧には出なかった。
最初の一音に、まだ金曜日の震えが残っていた。自分で思っているより細くて、少しだけ頼りない。歌い慣れたはずの旋律なのに、部室の真ん中へ置くのが怖かった。
でも、置けた。
置いた瞬間、三人の音が少しだけ後ろに下がった。
下がったのに、離れなかった。
葵はその隙間に、もう一音置いた。
歌詞の意味ではなく、呼吸の場所だけを追った。今は言葉を届けるより先に、四人の間に自分の声が落ちる場所を探したかった。
サビ前の一小節に入る。
千夏が強くなりかけて、耐えた。
瀬奈が後ろへ逃げかけて、踏みとどまった。
梨花が前へ出かけて、一拍待った。
その一拍で、葵の声が、ほんの少しだけ伸びた。
合った。
そう言うには短すぎた。
届いた。
そう言うには弱すぎた。
でも、ばらばらの音の間に、細い糸みたいなものが一瞬だけ見えた。
そのまま次の音で、すぐにほどけた。
千夏のスネアが半拍だけ早くなり、梨花のギターがそれを追い、瀬奈のベースが支えようとして重くなった。葵の声も、そこで少し濁った。
四人は止まった。
部室の中に、ほどけた音の余韻が残る。
失敗だった。
たぶん、失敗だった。
でも、誰もすぐにごめんと言わなかった。
千夏がスティックを握ったまま、目を細めている。
瀬奈がベースの弦から指を離さない。
梨花は練習ノートを見ていなかった。今鳴った場所を見ているみたいに、何もない空間を見ていた。
「今」
梨花が言った。
「一瞬だけ、あった」
あった。
何が、とは誰も聞かなかった。
聞いたら、消える気がした。
千夏が、ゆっくり息を吐いた。
「もう一回、同じところ」
その言葉が、部室の中に落ちた。
もう一回。
練習なら、当たり前の言葉だ。失敗したら、もう一回。合わなかったら、もう一回。ライブ前なら何度でも言ってきた言葉。
でも今日は、違って聞こえた。
終わるために鳴らしているのに、もう一回と言ってしまう。
葵は、透明なクリアファイルを見た。
机の端に置かれたままのそれは、空だった。先生の机の上にある紙のことを、何も知らないみたいな顔をしている。でも、知らないわけではない。
四人とも、知っている。
あと数日で、校内ミニライブがある。
退部届は、預けられたままだ。
この音で終わるかもしれない。
この音のせいで、終われなくなるかもしれない。
「もう一回」
葵も言った。
自分の声が、思ったより小さくなかった。
梨花がギターを構える。
瀬奈がうなずく。
千夏がスティックを上げる。
カウントの前に、ほんの一瞬だけ、部室が静かになった。
その静けさの中で、葵は思った。
最後にするための練習だったはずなのに。
今、もう一度聞きたい一小節が残っている。
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そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




