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退バン! やめたい四人と、まだ好きな音  作者: 井芹蒼


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12/15

第12話 二拍目まで

 千夏の指が、机の端を二回だけ叩いた。


 とん、とん。


 放課後の教室には、まだ誰かの椅子を引く音が残っている。黒板の横では日直が消し忘れた日付を見上げていて、廊下からは別のクラスの笑い声が流れてきた。窓際のいちばん後ろの席で、葵は鞄の口を閉じる途中の手を止めた。


 千夏は葵の右斜め前の席に座ったまま、もう一度だけ机を叩く。


 とん、とん。


「ワン、ツー」


 声にはしなかった。


 唇だけが、そう動いた。


 昨日なら、千夏はもっと大きくやったかもしれない。わざとらしく肩を揺らして、「はい本番五秒前ー」とか言って、空気を少しだけ笑わせたかもしれない。


 でも今日は、二回で止めた。


 その止め方が、教室のざわめきより葵の耳に残った。


「それ、練習?」


 葵が聞くと、千夏は机に置いた指を見た。


「練習っていうか、予習」


「予習?」


「二拍目までの」


 千夏は少しだけ笑った。いつもの笑い方より小さい。けれど、笑ってごまかすための顔ではなかった。


「昨日、梨花が書いたじゃん。次は、二拍目までって」


 葵はうなずいた。


 あの字は、帰ってからも目の奥に残っていた。


 最初の一拍、閉じない。


 次は、二拍目まで。


 できたわけではない。届いたわけでもない。ただ、次に見る場所ができただけ。昨日の部室でそう思ったはずなのに、一晩経つと、その「だけ」がずいぶん大きくなっていた。


 次に見る場所がある。


 それは、次に失敗する場所が決まっている、ということでもあった。


 千夏が、また指を上げる。


「ワン」


 今度は声にした。


 小さい声だった。


「ツー」


 葵は、その二つの音のあいだに、自分の息を置いてみようとした。


 声にはしない。


 教室で歌うわけではない。


 ただ、頭の中で、部室のマイクの高さと、梨花のギターの最初の音と、瀬奈のベースが横に来る感じを思い出す。


 ワン。


 ツー。


 その間に、自分がいる。


 そう思った瞬間、頭の中の部室が少しだけ先に閉じた。


 まだ歌っていないのに。


 まだ音も鳴っていないのに。


 葵は息を飲んだ。


「どうした?」


 千夏が振り向く。


「今、頭の中でも遅れた」


「頭の中、厳しめ採点だ」


 千夏はそう言ってから、すぐに笑いを止めた。


 止めたことが、葵にはわかった。


 千夏は机の上で指を浮かせたまま、少し真面目な顔をする。


「でも、頭の中で遅れるなら、部室だともっと遅れるもんね」


「うん」


 葵は鞄の紐を握った。


「だから、先にいないと」


 言ってから、自分の声が思ったより小さくないことに気づいた。


 千夏は一瞬だけ目を丸くした。


 それから、また机を二回叩く。


 とん、とん。


「じゃあ今日は、葵先行予約」


「予約?」


「場所を取っとく。声の席」


 葵は少し笑ってしまった。


「席、いるかな」


「いる。だって葵、放っておくと遠慮して立ち見する」


 そう言われると、反論できなかった。


 教室の後ろで、誰かが「じゃあまた明日」と言って出ていく。扉が閉まる音がして、廊下の笑い声が少し遠くなる。


 葵は窓の外を見た。


 夕方の光はまだ明るい。けれど、部室へ行く時間の光になっている。


 終わるために鳴らす練習。


 そういう名前をつけておけば、怖さは小さくなるはずだった。


 でも、千夏の二回の小さな音を聞いただけで、葵の中にはもう、少しだけ先に立ちたい気持ちが生まれていた。


 その気持ちに名前をつけるのが、まだ怖かった。


 廊下で合流した時、梨花は練習ノートを胸の前に抱えていた。


 瀬奈はその横で、ベースケースの肩紐を直している。


「遅い」


 梨花が言った。


「三十秒です」


 千夏が片手を上げる。


「三十秒は遅い」


「厳しい。今日の梨花、時計より時間にうるさい」


「時計は三十秒で怒らない」


 梨花がすぐに返す。


「じゃあ、梨花は時計より厳しい」


「時計に失礼」


 瀬奈が短く言った。


 千夏が「そこ?」と言いかけて、途中で笑った。


 その小さなやりとりだけで、廊下の空気が少しだけいつもの形に戻る。戻った、と思った途端、梨花の腕の中にある練習ノートが目に入った。


 戻っていないものもある。


 ノートの端には、昨日の鉛筆の跡が少し濃く残っている。


 次は、二拍目まで。


 梨花はノートを開かずに言った。


「今日は、頭から通さない」


 いつもの言い方だった。


 今日やることを決める時の、梨花の声。


 部室に着く前から、練習の線を引く声。


「昨日の続き。サビ前の入り。最初の二拍」


「二拍で七分に勝つ作戦?」


 千夏が言う。


「七分にはまだ勝たない」


 梨花はすぐ返した。


「紙に勝つ前に、二拍目に負けない」


 紙、という言葉で、四人の足が一瞬だけ揃わなくなった。


 校内ミニライブの仮リハーサルの紙。


 空のクリアファイル。


 真柴先生の机の上に預けられたままの、四枚の退部届。


 紙は、まだ先に形を持っている。


 それでも梨花はノートを抱え直した。


「昨日は、一拍目だけ少し見えた。今日は、その次」


 言葉を切ったあと、梨花は葵を見た。


「葵は、声になる前にそこにいて」


 葵はうなずいた。


 梨花は次に瀬奈を見る。


「瀬奈は」


 そこで、梨花の言葉が少し止まった。


 昨日より短い沈黙だった。


 それでも、止まった。


 瀬奈は待った。


 待ってから、ノートの端を見て言う。


「梨花の横に置く」


 梨花が顔を上げる。


「後ろじゃなくて。下でもなくて。横」


「うん」


 梨花は小さく息を吐いた。


「それでお願い」


 瀬奈は短くうなずいた。


 決めたのは梨花だった。


 その線の横に、瀬奈が場所を置いた。


 葵には、それがわかった。


 梨花は最後に千夏を見た。


「千夏は、入口を作って」


「入口?」


「数える。でも、部屋を決めすぎない。点を置くけど、押さない」


 千夏は少しだけ目を丸くした。


 それから、いつもの軽さに戻りきらない声で言う。


「難しいやつだ」


「うん」


 梨花はノートを閉じた。


「難しいやつ」


 別館へ向かう外の空気は、まだ昼の熱を少し残していた。四人は校舎の裏手を回り、別館の入口で外靴を脱いだ。室内シューズに足を入れると、床に触れる感覚が少し変わる。


 部室に入る前の、この小さな変化。


 外から中へ。


 終わるための紙から、まだ鳴っていない音へ。


 葵はマイクスタンドの位置を確認した。昨日より少しだけ近く感じる。気のせいかもしれない。気のせいでも、近いと思えたことが少し怖かった。


 梨花は机に練習ノートを置き、昨日の行の下に新しい線を引いた。


 二拍目まで。


 その下に、もう一つ短く書く。


 弱くしない。


「開けるって、弱くすることじゃない」


 梨花は鉛筆を置いて言った。


 その声は、自分にも言い聞かせているみたいだった。


「昨日、部屋を閉じないって書いた。でも、たぶん開けすぎたら、今度は何も立たない。だから、開けるけど、弱くしない」


「難しいことを難しいまま言う日だ」


 千夏がスティックを回しかけて、やめる。


 回す代わりに、指でスネアの縁を軽く触った。


「さっきの入口って、点を置くってこと?」


「うん。点を置く。でも、その点で全部を決めない」


 梨花が答える。


「千夏のカウントで、ここからってわかるようにする。でも、そのあとを閉じない」


「点だけでいい?」


「一回、それで」


「点。了解」


 瀬奈がベースの音量を確かめる。低い音がひとつ、部室の床に置かれた。


 置かれた、と思った。


 昨日の瀬奈の音は、後ろに下がるか、重く沈むかのどちらかに聞こえる瞬間があった。今日は違う。まだ一音だけなのに、梨花の立つ場所の横に、小さな印をつけるみたいだった。


 梨花がギターを構える。


 千夏がスティックを上げる。


 葵はマイクの前に立つ。


「一回目、弱くしないで開ける」


 梨花が言った。


「ワン」


 千夏の声は、昨日より小さい。


 小さいのに、逃げた声ではなかった。


「ツー」


 小さいのに、床に点が置かれるようだった。


 梨花のギターが入る。


 昨日より前に走っていない。


 走っていないぶん、空いた。


 空いた場所に、瀬奈のベースが横に並ぶ。


 葵はそこへ入ろうとした。


 入った。


 けれど、音はすぐに薄くなった。


 最初の一拍は閉じていない。二拍目も、誰かに押しつぶされてはいない。


 でも、薄い。


 全員が壊さないように気をつけすぎて、音の真ん中が少しだけ透けた。


 葵の声はそこに触れたのに、支えを見つける前にほどけた。


 梨花が止める。


 部室に、まだ消えきらない音の端だけが残った。


「弱い」


 梨花が言った。


 誰かを責める言い方ではなかった。


 だから余計に、全員がうなずいた。


「開けたけど、床がない」


 瀬奈が続ける。


「床」


 千夏が自分のスネアを見る。


「私、点って言われて点だけ置いた」


「点だけだと乗れない」


 瀬奈が言う。


「線にしたら押すし、点だけだと薄い。面倒」


「音楽、面倒すぎる」


 千夏はそう言ってから、少しだけ笑った。


 笑いはすぐ消えたけれど、逃げた感じではなかった。


 葵はマイクの前で、自分の両手を見た。


 今のは、入れなかったわけではない。


 入った。


 けれど、入った先に自分の声を置く場所がなかった。


 昨日の失敗とは違う。


 昨日は、部屋が先に閉じていた。


 今日は、部屋を閉じないようにしすぎて、部屋の床が薄くなった。


 葵はそれを言葉にしようとして、少し迷った。


 迷っている間に、梨花がノートに短く書く。


 開ける。弱くしない。床を残す。


 その三つの言葉は、きれいな答えには見えなかった。むしろ、矛盾をそのまま並べたみたいだった。


 でも、昨日より見える。


 何に失敗したのかが、昨日より見える。


「床、千夏だけじゃないと思う」


 葵は言った。


 三人がこちらを見る。


 その視線に、一瞬だけ喉が詰まった。


 でも、今日は詰まったままでも言えた。


「千夏が作る床だけだと、私、そこに乗る感じになる。でも、たぶん、梨花の音と瀬奈の音のあいだにも、ちょっと床がいる」


 言い終えると、変なことを言った気がした。


 床だらけだ。


 けれど瀬奈がすぐにうなずいた。


「わかる」


 短い返事だった。


 それだけで、言葉が崩れずに済んだ。


「私が横に置くって言ったけど、横に置くだけだと薄い。梨花に当てないようにしすぎた」


「わたしも、空けようとして少し引いた」


 梨花が言う。


「引くんじゃなくて、待つ」


 瀬奈が言った。


 梨花はその言葉を受け取るように、ノートを見る。


「待つ。でも下がらない」


「それ」


 千夏がスティックを軽く上げた。


「私も、数える。でも薄くしない。点じゃなくて、ちっちゃい床」


「床、増えた」


「床材豊富なバンド」


 千夏が言って、今度は自分で少しだけ肩をすくめた。


「ごめん、ちょっと逃げた」


「少しならいい」


 瀬奈が言う。


「少しなの?」


「今のは少し」


「判定が細かい」


「細かくないと二拍目まで行けない」


 その言い方で、千夏が黙った。


 拗ねたのではなく、納得したみたいだった。


 梨花が鉛筆を置く。


「もう一回。今の言い方でやる」


「今の言い方?」


 葵が聞く。


「待つ。でも下がらない。数える。でも薄くしない。横に置く。でも逃げない」


 梨花は少しだけ間を置いた。


「葵は」


 また、そこで言葉が止まった。


 葵は待った。


 昨日なら、その待ち方のまま遅れたかもしれない。


 でも今日は、梨花の言葉を待つことと、自分が入る場所を誰かに決めてもらうことは、同じではないと思えた。


 葵は自分で言った。


「私は、言われる前にいる」


 梨花の目が少しだけ大きくなる。


 瀬奈が弦に触れていた指を止める。


 千夏はスティックを持ったまま、笑わなかった。


 葵は続けた。


「声になる前に。合ってるって言われる前に。そこにいる」


 言葉にすると、怖さが増した。


 けれど、逃げたくはならなかった。


 梨花はゆっくりうなずいた。


「うん」


 それだけ言って、ギターを構えた。


 今度はメトロノームを鳴らさなかった。


 千夏の呼吸が、最初の合図になる。


 瀬奈の指が、弦の上で止まっている。


 梨花の右手は、まだ動いていない。


 葵はマイクの前で息を吸った。


 吸ってから待つのではなく、吸う前からそこにいる。


 そんなことができるのかは、わからない。


 でも、できるかどうかわからないまま、そこに立った。


 千夏が言う。


「ワン」


 強くない。


 でも、薄くもない。


 小さな床が、部室の真ん中に置かれる。


「ツー」


 梨花のギターが、その床を踏み抜かずに鳴った。


 前へ出すぎていない。


 でも、引いてもいない。


 待った右手が、葵の声の場所を先に消さないでいる。


 瀬奈のベースが横に来る。


 低い音が、千夏の小さな床を薄くさせない。


 支えるために下へ沈むのではなく、並んでそこにいる。


 葵は、最初の声を置いた。


 言葉の意味になる前の音。


 まだ歌詞ではない、息と声の境目。


 それが、梨花のギターと瀬奈のベースと千夏の小さな床の上に、少しだけ乗った。


 一拍。


 二拍。


 その短い時間だけ、部室の空気が同じ方向を見た。


 次の瞬間、梨花の音が少し強くなった。


 千夏のスネアが近づきすぎて、瀬奈のベースがそれを支えようとして重くなる。葵の声も、その重さに押されて語尾を落とした。


 すぐ崩れた。


 でも、誰もすぐには止めなかった。


 崩れたことより前に、さっきの二拍が残っていたからだ。


 梨花が弦を押さえたまま、ゆっくり手を離す。


 千夏のスティックが空中で止まっている。


 瀬奈はベースのネックを見ていた。


 葵は、マイクから少し離れた。


 部室は静かだった。


 成功した時の静かさではない。


 失敗した時の静かさでもない。


 どちらにすればいいかわからない音が、まだ空気の中に残っている。


「今の」


 千夏が言った。


 声が小さい。


「二拍目まで、いた」


 誰もすぐに返事をしなかった。


 葵は、自分の喉に残っている震えを感じた。


 きれいに歌えたわけではない。


 よく響いたわけでもない。


 けれど、置けた。


 自分の声が、誰かの許可を待ってから入ったのではなく、四人のあいだに先にいた。


 そう思えた。


 思えたことが、怖いくらい嬉しかった。


「いた」


 瀬奈が言った。


 短くて、低い声だった。


 でも、その一言で、さっきの二拍が逃げずに部室へ留まった。


 梨花はノートを見た。


 見たまま、すぐには書かない。


 書けば、それは形になる。


 形になれば、紙になる。


 紙になることが怖いのを、葵は知っている。


 でも梨花は鉛筆を持った。


 二拍目まで、いた。


 そう書いてから、少し考えて、横にもう一つ足す。


 待つ。でも下がらない。


 数える。でも薄くしない。


 横に置く。でも逃げない。


 声は、言われる前にいる。


 四行になった。


 答えというより、注意書きみたいだった。


 それでも、昨日の一行より少しだけ練習に近かった。


「勝った?」


 千夏が小さく聞いた。


 梨花は仮リハーサルの紙を見た。


 七分。


 転換。


 リハーサル順。


 顧問確認。


 それから、机の端に置かれた空のクリアファイルを見た。


 真柴先生の机の上にある退部届のことを、誰も言わなかった。


 言わなくても、そこにあった。


「勝ってない」


 梨花は答えた。


「紙には?」


「全然」


「二拍目には?」


 千夏が聞く。


 梨花は少しだけ黙った。


 その沈黙は、昨日の沈黙より短かった。


「負けなかった」


 瀬奈が先に言った。


 梨花が瀬奈を見る。


 瀬奈は表情を変えずに続ける。


「勝ったって言うと、たぶん強すぎる。負けなかった、くらい」


「瀬奈の判定、今日ずっと細かい」


「二拍目までだから」


 千夏が小さく笑った。


 今度の笑いは、誰かを逃がすためではなかった。


 ただ、そこに少しだけ息が入った。


 葵も笑った。


 笑ったら、喉の奥に残っていた震えが少しほどけた。


 梨花はノートに視線を戻した。


 次、と言いそうになった口元が、少しだけ止まる。


 言えば、練習は進む。


 でも、今の二拍を、すぐ次の失敗で薄めたくない気もした。


 梨花は鉛筆の先で、さっき書いた文字を一度だけなぞる。


 二拍目まで、いた。


 机の上では、仮リハーサルの紙と空のクリアファイルが夕方の光を受けていた。


 退部届は、まだ預けられたまま。


 曲は、最後まではほど遠い。


 それでも梨花は、鉛筆でなぞった文字から目を離せなかった。


 二拍目まで、いた。


 終わる理由にも、終わらない理由にも、まだならない。


 ただ、次に触る場所だけができた。


 千夏のカウントが落ちた場所。


 瀬奈の低音が、消えなかった場所。


 梨花のギターが、ほんの少し待てた場所。


 葵は、その場所を喉の奥で覚えていた。


 紙はまだ、先に形を持っている。


 でも音にも、ほんの少しだけ、戻れる場所ができた。

ここまで読んでくださってありがとうございます。


続きが気になった方は、ブックマークで追いかけてもらえると嬉しいです。

楽しんでいただけたら、評価でも応援いただけると励みになります。


そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。


この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。


YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel


※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。

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