第13話 終われない音
仮リハーサルの紙は、四つ折りにすると、七分という文字だけが外に出た。
梨花はそれをもう一度開いて、閉じた。
開いても、閉じても、七分は七分だった。
体育館の入口では、外の靴音がいったん途切れる。床に上がるための場所で、四人はそれぞれ体育館用の室内シューズに履き替えた。弦のケースが壁に軽く当たり、千夏のスティックケースの金具が小さく鳴る。音を出す前から、音になるものだけが多かった。
中は、思っていたより広くなかった。
体育館そのものは広い。けれど、校内ミニライブ用に前のほうだけが区切られて、椅子が数列置かれ、端に簡易のマイクスタンドとアンプが並ぶと、その広さは変に中途半端になった。本格的な会場ではない。ちゃんとしたステージでもない。学校の体育館のまま、少しだけ音を待つ場所になっている。
その少しだけが、今の四人には大きすぎた。
葵はマイクスタンドを見た。
まだ誰も触っていないのに、そこだけ先に立っている。
入っていい、と言われる前の場所。
そう思った瞬間、喉の奥が狭くなった。
「葵」
梨花が呼んだ。
いつもの声より低い。けれど、揺れているわけではなかった。
「マイク、高さだけ見て」
「うん」
葵はスタンドの前に立つ。ねじを少し緩めて、高さを変える。金属が小さくこすれる音がした。その音だけで、後ろの椅子に座っていた一年生らしき生徒がこちらを見た。
見られただけで、手が止まりそうになる。
葵は止めなかった。
昨日の部室で、誰かが言ってくれる前にそこにいた。あの二拍は、まだ胸の中に残っている。残っているというより、残ってしまっている。
梨花は練習ノートを開いていた。
二拍目まで、いた。
待つ。でも下がらない。
数える。でも薄くしない。
横に置く。でも逃げない。
声は、言われる前にいる。
四行は昨日の字のままだった。少しだけ鉛筆が濃くて、そこだけ紙が沈んで見える。
「今日は」
梨花が言った。
千夏はドラムの椅子に座りかけた姿勢で止まり、瀬奈はベースのストラップを肩に掛けたまま、梨花のほうを見た。
「全部をきれいにしようとしない」
その言い方に、葵は少しだけ息を吸った。
きれいにしない。
それは諦める言葉ではないはずなのに、いつもの梨花が言うと、練習の線がそこに引かれる。
「最初の二拍。そこだけ、逃がさない」
梨花はノートを閉じた。
七分の紙を、その上に置く。
「あとは、崩れても止まらない」
「崩れても?」
千夏が聞いた。
「止まらない」
梨花は繰り返した。
千夏は、軽い返事をしそうな顔になった。いつもの調子なら、そこで「じゃあ崩壊芸いきますか」とか、「止まらない暴走列車です」とか、何かを言ったかもしれない。
でも、言わなかった。
代わりに、スティックを二本そろえて、膝の上で一度だけ転がした。
「ワン、ツー。そこは、床にする」
千夏の声は小さかった。
体育館に吸われるくらい小さい。けれど、四人には届いた。
瀬奈がベースのつまみを少しだけ回す。
「下に置く」
それだけ言った。
梨花がうなずく。
「横も」
「横も」
瀬奈が答える。
短いのに、それで会話が終わった。瀬奈が今日何をするつもりなのか、葵にはわかった。梨花の代わりに前へ出るのではなく、梨花が引いた線の横と下に、音を置く。
真柴先生は少し離れたところにいた。
クリップボードを持って、リハーサル順の紙を確認している。先生の手元に、四枚の退部届はない。ここは体育館で、職員室ではない。あの紙は今ここにない。
ないのに、ある。
葵はそのことを、もう考えないようにした。
考えないようにしたら、マイクの銀色だけが目の前に残った。
「次、入ります」
真柴先生が言った。
声は普通だった。
普通の声なのに、その一言で体育館の前の空気が少し変わった。
持ち場へ向かう前に、千夏がスティックを片手にまとめたまま、ほんの少しだけ膝を曲げた。
「……やる?」
何を、とは言わなかった。
梨花が一瞬だけ眉を寄せる。
「ここで?」
「ここで」
千夏は小さく手を出した。
体育館の端。マイクスタンドの横。客席と呼ぶには近すぎる椅子の列から、ぎりぎり見えるか見えないかの場所。
誰かに見せるための形ではなかった。
それでも、千夏の手は斜めに差し出されていた。
「一段ずつ」
声は、体育館の床に落ちるくらい小さかった。
瀬奈がその下に、いちばん下の段を作るように手を入れた。
迷わない置き方だった。いつものように目立たないのに、そこがないと形にならない場所を、当たり前みたいに埋める。
梨花は、出された手の角度を見て、少しだけため息をついた。
「角度、変」
言いながら、自分の手を一段上に置き、千夏の手首をほんの少し直した。
「細かい」
「崩れるよりまし」
千夏が笑いそうになって、でも笑わなかった。
葵は最後に手を重ねた。
正確には、重ねるのではなかった。四つの手が、平らな蓋みたいになるのではなく、少しずつ高さの違う小さな階段になる。
葵の指先はまだ冷たかった。
でも、下から瀬奈の手の熱があって、横から梨花の力があって、千夏の手首の硬さがあった。
ひとりで前に出る場所ではない。
四人で、ひとつずつ段を作ってから出る場所だった。
千夏が息を吸う。
「ワン、ツー」
その小さな数に合わせて、四つの手が一度だけ下へ押された。
強くはない。
けれど、体育館用の室内シューズの底が、きゅ、と鳴るくらいには、四人の体が同じ方向へ沈んだ。
そのまま、半歩だけ前へ出る。
たったそれだけで、マイクの銀色が少し近くなった。
四人は持ち場へ向かう。
梨花がギターを抱え直す。瀬奈が足元を一度だけ確かめる。千夏がスティックを持ち替える。葵はマイクの前に立った。
客席、というほどではない。
椅子に座っている生徒は十数人くらいで、端には別の出演者らしい子たちが楽器ケースを抱えている。体育館の後ろでは、誰かが配られた小さな紙を折っていた。前の列には、授業のあとそのまま来たような生徒が二人、何かを小声で話している。
それだけだった。
それだけなのに、部室とは違う。
壁が遠い。
天井が高い。
声を出したら、どこまで行くのかがわからない。
千夏が小さく息を吸った。
カウントの前に、スティックの先がほんの少し震える。
葵はそれを見た。
千夏も怖い。
当たり前だ。
当たり前なのに、葵はそのことに今さら驚いた。
千夏は笑わなかった。
スティックを上げる。
「ワン」
最初の音は、固かった。
梨花のギターが少し細く入る。音の端が、体育館の床に落ちる前に壁へ逃げそうになる。瀬奈のベースも、ほんの少し遅れた。下に置こうとして、重さを探しすぎた音だった。
葵は息を吸う。
まだ、入っていいと言われていない。
いつもの癖が、そこで顔を出した。
今なら待てる。
今なら、梨花の音がもう少し広がってから。瀬奈の低い音がもう少し床を作ってから。千夏の二拍目が来てから。
待てば、少しだけ安全になる。
「ツー」
千夏の二拍目が落ちた。
昨日の部室より、少しだけ強い。
でも、押しつける音ではなかった。床を叩く音でも、隙間を埋める音でもない。ここ、と言うための小さな点だった。
瀬奈のベースが、その下に入った。
遅れた分を取り戻そうとしない。大きくしない。けれど、消えない。梨花のギターの横に、低い線が置かれる。
梨花の右手が、そこで逃げなかった。
細かった最初の音が、次の瞬間、少しだけ前を向く。
葵は、まだ安全ではない場所へ声を出した。
歌い出しの言葉は、体育館の空気に少しだけ引っかかった。
喉の奥に、怖さが残っている。声の端も揺れた。きれいではない。いつもの練習で出したい声とは違う。自分で聞いて、少し驚くくらい、頼りない。
でも、そこにいた。
言われる前に。
音が全部そろう前に。
葵の声が体育館の前のほうへ出たとき、後ろで紙を折っていた生徒の手が止まった。
小さなことだった。
誰も拍手をしたわけではない。声を上げたわけでもない。ただ、紙のこすれる音が止まった。
そのぶん、四人の音が少しだけ残った。
梨花のギターが、葵の声の横に来る。
瀬奈のベースが、下から持ち上げないまま支える。
千夏は叩きすぎない。叩かなすぎもしない。二拍目で作った場所を、崩さないように次へ送っている。
葵は一度だけ、体育館の後ろを見そうになった。
見たら遅れる。
見なくても、わかった。
前の列で話していた二人の声が、消えている。
真柴先生のペンも、動いていない。
音は、届いた。
そう思った瞬間、次の小節で少し崩れた。
千夏のハイハットが半拍だけ硬くなり、梨花のギターがそれに寄る。瀬奈が支えようとして、低音が少し前に出すぎる。葵の声も、そこで細くなる。
届いたと思ったら、すぐ壊れそうになる。
部室なら、たぶん止まっていた。
梨花が「もう一回」と言って、千夏がカウントを戻して、瀬奈が短く何かを直して、葵が息を整える。そうやって、同じ場所へ戻ったかもしれない。
でも今日は、戻れない。
七分。
止まらない。
梨花が言った言葉が、葵の耳の奥で鳴った。
葵は崩れた場所で、声を引かなかった。
うまく持ち上げられたわけではない。
ただ、消えなかった。
瀬奈のベースが、出すぎた分だけ静かに下がる。下がるけれど、いなくならない。千夏がそこで一つだけ軽く刻む。梨花のギターが、細いままでも前を向く。
きれいではない。
合っていないところもある。
音の隙間に、怖さがまだ残っている。
それでも、曲は止まらなかった。
短い終わりの音が、体育館の床へ落ちた。
そのあと、一瞬だけ、何もなかった。
失敗したのかもしれない。
成功したのかもしれない。
どちらでもないのかもしれない。
葵は息を吸ったまま、吐く場所を見失った。
最初に聞こえたのは、拍手ではなかった。
後ろのほうで誰かが、息をこぼす音だった。
それから、前の列の生徒が手を叩いた。
ぱち、と一つ。
続いて、もう一つ。
大きくはない。
そろってもいない。
けれど、体育館の前に置かれた数列の椅子から、まばらな拍手が来た。薄い拍手ではなかった。少ないだけで、ちゃんとこちらへ向いていた。
葵はマイクから少し離れた。
足の裏が、体育館の床にくっついているみたいだった。
千夏がスティックを握ったまま、下を向いている。
瀬奈はベースの弦に指を置いたままだ。
梨花はギターを抱えた姿勢で、客席を見ていなかった。
床を見ていた。
たぶん、自分たちの音が落ちた場所を見ていた。
「ありがとうございました」
梨花が言った。
声が少しだけ遅れた。
四人で礼をする。
顔を上げたとき、体育館の後ろにいた生徒が、手に持っていた紙をまだ折らずにいた。
先生のペンは、クリップボードの上で止まったままだった。
葵は、その二つを見た。
その二つだけで、胸の奥が熱くなる。
拍手より大きい言葉がほしいわけではなかった。
ただ、誰かの手が止まった。
誰かの耳が、少しだけこちらへ向いた。
それだけで、今の音が部室の中だけの錯覚ではなかったとわかってしまった。
わかってしまった、と思った。
終わるための音だったのに。
舞台袖というほどでもない体育館の端へ戻った瞬間、千夏がスティックを握ったまま、小さく跳ねた。
「鳴った」
誰に向けた言葉なのか、たぶん千夏にもわかっていなかった。
でも、四人には聞こえた。
梨花がギターを抱えたまま、息を吐く。吐いた息の最後で、口元が少しだけ上がった。
「鳴った」
同じ言葉を、梨花がもう一度言った。
瀬奈はベースのボディを押さえたまま、下を向いている。笑っているのかどうか、髪で少し隠れて見えなかった。
けれど、肩の力が抜けていた。
「止まらなかった」
瀬奈が言った。
その一言で、千夏の顔がくしゃっと崩れた。
「だよね」
「止まらなかった」
葵も言った。
言ってから、自分の声が少し高くなっていることに気づいた。
恥ずかしいのに、引っ込めたくなかった。
さっきまでマイクの前に置いてきたと思っていた声が、まだ胸の中で跳ねている。
梨花が仮リハーサルの紙を持った手を、少しだけ上げた。
「最初の二拍」
「いた」
瀬奈が言う。
「いた」
千夏が重ねる。
葵は返事の代わりにうなずいた。うなずいたら、胸の奥の熱が、もう一度少しだけ上がった。
梨花が待った右手も、千夏が押しつけなかった二拍目も、瀬奈が消えずに置いた低い線も、そこにあった。
葵の声だけで鳴った音ではなかった。
大きな拍手ではなかった。
体育館が揺れるような歓声でもなかった。
それでも、誰かの手が止まって、誰かの耳がこちらを向いて、四人の音がそこで消えずに残った。
それだけで、葵は今、自分たちが少しだけ高い場所にいると思ってしまった。
千夏が座り込む。座り込んだのに、顔だけはまだ上を向いていた。
「……今だけ、勝ったって言っていい?」
梨花が一度だけ目を細める。
「今だけなら」
「やった」
千夏が両手でスティックを持ったまま、声を出さずに笑った。
瀬奈も、ほんの少しだけ笑った。
葵も笑った。
笑ったあとで、笑えたことに少し驚いた。
その熱の上に、四人はしばらくいた。
長くはなかった。
次の出演者がアンプのつまみを回す音がして、マイクスタンドの高さが変えられて、椅子の脚が床をこすった。
体育館は、すぐに次の音の準備を始める。
その音で、さっきまでの高さが、少しずつ床に戻ってきた。
「……七分って、短いね」
千夏が言った。
その声には、まだ笑いの残りが混じっていた。
でも、さっきの高さから降りてきたぶんだけ、足元が見える声でもあった。
梨花は仮リハーサルの紙を持っていた。四つ折りの端が、さっきより少しだけしわになっている。
「六分ちょっと」
瀬奈が言った。
「測ってたの?」
「時計見えた」
「瀬奈、そういうとこ瀬奈だよね」
「見えたものは見える」
千夏が小さく笑う。
葵も、まだ少し笑っていた。
その笑いが消えきる前に、梨花が紙を見た。
七分。
その文字の下に、終わりという文字はない。
ないのに、今まではそこにある気がしていた。
この七分で終わる。
そう決めるために、ここに来た。
少なくとも、そう言えるようにするための一週間だった。
梨花の手が、紙の端を少しだけ握る。
さっきまで同じ高さにいたはずの四人の熱が、紙の白さに触れたところから少しずつ冷えていく。
それでも、完全には消えなかった。
「終わった?」
千夏が聞いた。
軽く聞いたのではない。
誰かに答えを預けるような聞き方でもなかった。
ただ、自分の中にある音がまだ鳴っているかを確かめるみたいな声だった。
梨花はすぐには答えなかった。
葵も答えられない。
瀬奈も、いつものように即答しなかった。
自分たちの音だけが、終わったふりをして、その下にまだ残っている。
「演奏は」
梨花が言った。
そこまでで止まった。
続きはなかった。
演奏は終わった。
でも。
その「でも」を、誰も言わなかった。
瀬奈がベースのケースを開ける。
中へしまう前に、弦を一度だけ指で押さえた。
鳴らさない。
ただ、触れるだけ。
「紙は」
瀬奈が言った。
梨花が顔を上げる。
「まだ、先生のところ」
退部届。
誰もその名前を言っていないのに、四人とも同じものを見た。
真柴先生は少し離れたところで、次の生徒に何かを説明している。クリップボードを胸の前に持って、いつもの落ち着いた声で話している。
先生はまだ、何も言っていない。
戻すとも、返すとも、進めるとも、止めるとも。
預かり。
その言葉は、演奏のあとでも変わっていなかった。
「じゃあ」
千夏が言いかけた。
たぶん、何かを軽くする言葉を探したのだと思う。
でも途中でやめた。
その代わりに、スティックをケースへ戻す。
かち、と音がした。
小さい音なのに、今の四人にははっきり聞こえた。
葵はマイクのほうを振り返った。
次の出演者が高さを変えている。
さっきまで葵の口の前にあったものは、もう別の誰かの高さになっていた。
それが、少し寂しかった。
寂しいと思ったことに、葵は驚いた。
終わるために立った場所なのに。
もう一度そこに立ちたいと思ってしまった。
「今の」
葵は言った。
自分の声が、体育館の端で少しだけ響いた。
三人がこちらを見る。
「最後に、できる?」
聞いてから、怖くなった。
できる、と言われても怖い。
できない、と言われても怖い。
梨花は答えなかった。
瀬奈も答えなかった。
千夏が、少しだけ眉を寄せる。
「わかんない」
千夏は言った。
いつもなら、曖昧な答えを嫌がって、自分で何かを付け足したかもしれない。でも今日は、それ以上言わなかった。
瀬奈が静かにケースを閉じる。
「最後にするには、今の、残りすぎた」
短い言葉だった。
葵の胸の奥で、何かが小さく震えた。
梨花が息を吐く。
紙を折り直した。
七分の文字が、また外に出る。
「書けない」
梨花が言った。
「何を?」
千夏が聞く。
「終わった、って」
梨花の声は、泣きそうではなかった。
でも、強くもなかった。
ただ、さっきの音を聞いた人の声だった。
葵はその声を聞いて、少しだけ目を伏せた。
梨花が退部届を出そうと言った。
そのことは消えていない。
梨花が今日の線を引いた。
そのことも消えていない。
どちらも同じ梨花の中にある。
だから、梨花は今、終わったと書けない。
書けないことを、責める気にはなれなかった。
体育館の前から、次のカウントが聞こえた。
ワン。
ツー。
別の誰かの音が始まる。
四人は、それを聞いた。
自分たちの音ではない。
それでも、二拍目まで、葵は耳を離せなかった。
真柴先生がこちらに歩いてくる。
クリップボードを持ったまま、先生は四人の前で一度止まった。
何か言うのだと思った。
良かった、とか。
まだだね、とか。
次どうする、とか。
でも真柴先生は、少しだけ体育館の前を見た。
それから、四人を見た。
「片付け、急がなくていいです。次の組が終わってからで大丈夫」
それだけだった。
道を示す言葉ではない。
救う言葉でもない。
けれど、今すぐ消えなくていい、と言われたように聞こえた。
先生はそれ以上言わずに戻っていく。
梨花が、折った紙を練習ノートの間に挟んだ。
空のクリアファイルは、葵の鞄の中にある。
体育館へ向かう前、部室の机の端に残っていたそれを、葵は千夏に借りた。
置いていくのが、なんか違う気がしたからだ。
千夏は茶化さずに、「ちゃんと返してね」とだけ言って渡してくれた。
退部届はそこにはない。
でも、何も入っていないからこそ、まだ終わっていない形に見えた。
体育館の床に、さっきの低音の振動が残っている気がする。
ギターの最初の細さも。
千夏の二拍目も。
瀬奈の、消えなかった下の線も。
自分の、頼りないまま出てしまった声も。
全部、終わりにするには小さすぎた。
でも、終わったことにするには、残りすぎていた。
葵は鞄の肩紐を握る。
梨花も、瀬奈も、千夏も、それぞれの荷物を持つ。
誰も「続けよう」とは言わなかった。
誰も「退部届を返してもらおう」とも言わなかった。
ただ、体育館の端に立ったまま、少しだけ次の音を聞いていた。
終わるために鳴らしたはずだった。
終わったと言うための七分だったはずだった。
それなのに、音はまだ、四人の足元から離れなかった。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
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そして『退バン!』の未来の四人が鳴らすかもしれないAI音源を、YouTubeで公開しています。
この話の余韻に合わせて聴いてもらえたら嬉しいです。
YouTube: https://www.youtube.com/@taiban_novel
※音源は、本編をもとに作者がイメージしたAIデモです。




