第3章 帰 郷 ―4―
ディレイ達と離れ、行動を別にしたハシュレイは、一人中庭を斜に進んだ。
扇状に建てられた白亜の本殿。それに沿うように造られた庭は、隅々まで よく手入れされていた。数年前の土が剥き出しだった頃を想うと、見事としか云いようがない。
足元にはシバが生い茂り、本殿中央から紫殿へとつながる通路の両脇にヤシの木が規則正しく植えられている。木の根元には篝火が焚かれていたが、今夜の月は火に頼らずとも、影を作るほどに明るい。
ハシュレイは虹彩を放つ月を仰いだ。
「こんな夜に篝火は無粋だな」
折しも今宵は満月。そよぐ風は優しく、時折届く獣の遠吠えも切な気に聞こえて、情緒を深くしていた。
月を愛でつつ、高さを測っていたハシュレイは、石畳の通路に差しかかると一度足を止めた。夜更けと云うには些か早く、寝入る頃としては遅いくらいの時分と読んで、ハシュレイは再び歩き出した。
向かった場所は、アレックスが予測した通り、竜王の元。ただし、私室ではない。この時刻に竜王が私室で くつろぐなどありえないと、ハシュレイは思った。本殿東棟一階、議事を行う裁鳳の間に隣接された政務室。きっと、竜王はそこに居る。
そして、その予感は的中した。
有事の際 避難口として使用するべく設けられた東棟口から、本殿へと足を踏み入れたハシュレイは、蝋燭の火に照らされた薄暗い廊下の床に、白い光がうっすらと漏れていることに気付いた。それは、鉄鋲を打ち込んだ扉の奥からこぼれてくるものだった。
ハシュレイは扉の前に立つなり、ノックもせずに押し開いた。
「居るんだろ、シード。入るぞ」
蝶番が甲高い音をたてた。
竜王 シード・ロード・ファルグの姿が、ハシュレイの眼に映る。
重厚感あふれる大きな机に向かい、一枚の羊皮紙を片手に、羽ペンを持つ手を形の良い顎に添えて唸っている。少し吊り上った灰色味を帯びた青い双眸は、手元の紙面に向けられたままだ。肩にかかった銀色の長い髪を背に払い、別の羊皮紙を手に取る。
ハシュレイは無言のまま、壁際に林立する書棚の一つに近付いた。
歴史を感じさせる見事な装丁の書物が詰め込まれた書棚の一画に、ぽっかりと空いた棚があった。そこには、書物の代わりに数本の酒瓶と銀杯が並べられていた。
ハシュレイは一本ずつ手に取り、符呪術の技による光の下で、丁寧にラベルに書かれた文字を読んだ。そして、その中から旧バルトーラ期に作られたロイド・ベル産の火酒を選ぶ。とてつもなく高価な酒だが、ハシュレイは安酒を扱うかのように、無雑作に栓を開けた。
二つ手にした銀杯の一つを、苦悩するシードの手元にそっと置き、酒を注ぐ。そこで、ようやく彼と目が合う。
「やあ、ハシュレイ。俺は今、仕事中……なんだけど」
ちらりと見やり、構うことなく自らの杯にも注ぎ入れ、シードの杯に小さく重ねた。キンッと澄んだ音色が響く。
「未だに当主と呼ばせているとは思わなかった」
ハシュレイは酒を一口含んでから、部屋の中央に配置されたソファに腰を下ろした。緋色の天鵞絨を張ったソファに埋もれながら長い吐息を吐く。
シードは羊皮紙を置き、その手で頬杖をついて苦笑した。
「ご帰還早々、俺の仕事を中断させたのは、小言の為かい?」
「そんなつもりはないが、在位して何年になる。そろそろ、竜王と呼ばせても良いように思うぞ」
「考えておくよ。それより……」
シードが羽ペンを持った手の指先で、机を軽く二度打った。早く話せと言っている。
ハシュレイは酒を一気に飲み干し、注ぎ足しながら何から話すべきかと思案した。この島を旅立った日に遡り、時系列にまとめあげてから道すがら見聞きした話や光景を重ね合わせる。その中から、彼が最も憂慮している内容のものを選んで話始めた。
「まずは大陸各地の情勢だが、あまり良い話を聞かなかった。他大陸からブラバマハルが侵攻され、隣国のバロマムッサでは内乱が勃発しているそうだ」
「リマとクルカティスの親和条約は?」
「一応は双方、調印を終えた。だが、いつ条約が破棄されるかは時間の問題だな。締結し、クルカティスは条約に則り、他宗教弾圧を根絶すると言っているが、水面下では更に増えていると聞いた」
事実、ディレイも狩られ、虐殺される寸前であった。あのフェロールの森の夜を思い出し、ハシュレイは顔を顰めた。
「クルカティスの王政府は黙認している……訳はないな。リマからの資金援助は喉から手が出るほど欲しい筈だ。だとしたら、やはり風の影響か……」
ペンを置き、椅子の背もたれに身体を預けて腕を組む。
ハシュレイは考え込み始めたシードに気付き、慌てて話を続けた。
「悪いが、考えるのは、もう少し待ってくれ」
咳払いを一つして、酒で喉を湿らせる。
「次にロイド・ベル連合国なんだが、領地を巡って一部不穏な気配があった。シェントルート領、ゴルダナ領、ゴルド領の南部三領土だ」
「ロイド・ベルもなのか? 何事もないのはイェールだけじゃないか」
ハシュレイは目を見開いたシードを一瞥し、小さく首を振った。
「イェールは天災と疫病に見舞われたそうだ。多くの死者が出たと言っていた」
シードから驚愕と落胆の色が見えた。両手で顔を覆い、肩を落としている。
「なんてことだ……。あれほど、警告をしたのに」
ハシュレイは近付けた杯を唇から放し、楕円の形をしたテーブルに ことりと置いた。
「人心を惑わせ、天地気脈を狂わせる風が吹く。いくら言ったところで、実態がないし、感じられもしないんだ。よほど聡明な者でなければ気付かんだろう」
淘汰の風。ハシュレイと竜族は そう呼んでいた。
それは、百数十年前にもこの大陸を襲ったことのある嵐だった。
血と怨嗟で穢れた大地と人心を清浄へと導く為、諸悪の根源だけを一掃し、淘汰するべく神が吹かせた業だ。セレニア教典には、浄化の御光とある。
聞こえは良い。罪人や悪人は滅び、戦や飢えで苦しむことのない平穏な世界。差別や偏見とは無縁の、平等と慈悲と善意に満ちた世界。まさに理想郷である。
そして、それは戦や天災といった形で、ごく自然に行われ、多くの者達は日常に起こった非日常的な事象として、何の疑いも持たずに受け入れてゆくのだ。
「たちが悪いよな」
ハシュレイは忌々しげに呟いた。
セレニアが目論む浄化の意味。真意に気付いたのは、一柱の神だった。この世界を天上の大樹と称し、大樹の守護を司る銀聖の竜・バーウィックだけが唯一立ち上がり、進攻を阻止してくれたのだ。誰にも気付かれず、たった一柱のみで。
深く傷ついた銀聖は、傷を癒す為この地に宿り、竜族を創造した。そして、ハシュレイを導く者として選び、叡智と力を与えて眠りについた。
ハシュレイは、何故 己が選ばれたのか、未だに分かっていない。いくら考えても理由が見つからなかった。「力が欲しいか」と問われた。「欲しい」と答えた。あの頃は、権力も財力も、力と云う力は全て必要だった。
選ばれた理由。同朋の神々に逆らってまで、この世界を守る理由。それを、いつか聞いてみたいと、ハシュレイは思っていた。
「神託の夢から約二年。全てが風の影響を受けているとは思わないが、これほど大陸全土が乱れ始めているんだ。風は、間違いなく吹き始めている」
コンッと杯を置く音が聞こえて、ハシュレイは顔を上げた。
「そう思った方がいいようだね」
「まだ、そよ風程度だがな」
言って、ハシュレイは杯を空けた。注ごうとしたところで、シードに酒瓶を奪われた。
シードが酌をして、向かいのソファに腰を下ろす。ハシュレイはシードから酒瓶を受け取り、差し出された杯に瓶の口を傾けた。
「竜の遺産の探索を急がなくてはいけないな。あれがそろわなければ対抗できない」
互いに杯を軽く掲げ、どちらがともなく口を寄せて、唇を湿らせた。
「それで……どうなんだい?」
杯を組んだ手の中で支え、シードが身を乗り出す。一瞬、何を尋ねられているのか分からなかったハシュレイは、ディレイを思い出し、胸の内で掌を打った。むせそうになるのを堪えて、杯をテーブルに置く。
「まだ、子どもだ。てっきり成人しているとばかり思っていたから、正直言って驚いた」
「選定を受けた者である事は知っているのかい?」
「世界の要である者、と伝えてはある。万物の頂に君臨する者とも言っておいた」
シードは片眉を上げ、少し呆れ気味にハシュレイを覗き込む。
「仕方ないだろ。相手は子どもだ。しかも、異教徒狩りと称した虐待に遭い、母親や祖母を目の前で虐殺されたばかりだった。全てを告げられる状況ではなかったよ」
ハシュレイは軽くシードを睨みつけてから、ソファの上に身体を伸ばした。肘掛の上で両足を組み、片肘をついて身体を支える。
「彼の選択が、世の未来を左右するという自覚はありそうなのかい?」
「当然ながら、実感も自覚もないだろうな。孤独をひどく嫌っている。俺の勘違いでなければ、俺を気に入ってくれているようだが、俺でなくとも連れて来れたように思う。傍に居てくれる優しい者、ならな」
「何を卑屈になっているんだ。真王バーウィックの御業だとは思えないかい?」
シードが首を傾けて、困ったように笑う。それを、ちらりと見て、ハシュレイは鼻を鳴らした。
「卑屈になんて、なってやしないさ。ただ、漠然とそう思ったんだ」
酒瓶を手にした彼が、杯を空けろと腕を伸ばす。
「選定を受けた者は、竜の契約者にのみ心を許す。父が遺した伝承にはそう書いてある。竜の想いが、二人を引き合わせたんだし、真王もそれを承知で、ハシュレイを契約者に選んだと、俺は思うけどね」
ハシュレイは舐める程度にとどめて杯を差し出した。シードは不服そうに顔を顰めたが、強要することはなかった。注ぎ終えるのを待って、そのままテーブルに置き、腕枕をして天井を仰ぐ。
「……それは、それで釈然としないんだよな。掌の上で、いいように転がされているだけの気がしてならない」
シードが、くすりと笑う。
「結局、ディレイだけでなく真王も、本当は誰でも良かったのではないか。自分は、こんなに想いを寄せているのに、ただ気持ちを利用されているだけじゃないのか。ハシュレイはそう思うんだろう? まるで、恋する乙女だね」
肩を揺らして小さく笑うシードを、ハシュレイは眉をひそめて睨みつけた。
「馬鹿を言え。俺は選ばれた理由が知りたいだけだ」
「ほら、やっぱり。思春期の乙女だ」
ハシュレイは反論しようと口を開きかけた。しかし、彼の頬がほんのり紅色に色付いているのを見るなり、からかわれていると知って溜息を吐いた。
「勝手に言ってろ」
ハシュレイは、再び横臥し、双眸を閉じて背を向けた。尚もシードの笑い声が聞こえる。癪に障るが、仕方ないとハシュレイは思い、今回ばかりは酒を勧めた事を少しだけ後悔した。
「それより、道中は何事もなかったのかい?」
「いや、天上の奴に襲撃を受けた。確か、ファーンと呼ばれていたような……」
言うやいなや、ハシュレイはパッと目を開き、弾かれるように身体を起こした。
「ロナ!」
「ロナからの連絡なら、ハシュレイが来る少し前に、呪符で届いたよ」
前髪を掻き上げながら呆れた顔をするシードに、目をしばたかせた。
シードが酒をあおり、ゆっくりと言う。呂律があやしくなり始めている。
「尾行されている気配は無し。ついでに、島の北部を巡察してから帰るので、戻るのは明朝になるとね」
ハシュレイは、ほっと胸を撫で下ろし、全身の力を抜いた。背もたれに埋もれたまま、ずるずると横になる。
「普段は鬱陶しいほど彼女の身を案じるくせに。相変わらず迂闊だなぁ」
「……すまない」
「ハシュレイよりロナの方が余程しっかりしているじゃないか」
返す言葉もなかった。半身を捩って、うつ伏せになり、隙間からシードを覗く。シードはとろけた笑みを満面に浮かべて、手酌で杯を重ねていた。見れば、高価な火酒も残り少ない。
下戸ではないが、それほど強いというわけでもない彼は、滅多に酒を飲んだりはしない。ハシュレイが旅から戻った日くらいのものだ。それも、ハシュレイが誘えば、の話である。自らすすんで……というのは無いし、誘ってくるのも多くはない。けれど、何故か、最後は手酌で上機嫌になるのは彼の方だった。
そして、酔うと決まって毒舌が多くなる。棘は無い。いくら辛辣でも不思議と許せてしまう。時には言い争いになることもなくはないが、後々まで尾をひくことはない。それが、ハシュレイには嬉しかった。
加えて云えば、媚を売って取り入ろうとする者が溢れる中、酔っていようがいよまいが、迂闊だ間抜けだと言ってくれる者の方が、ハシュレイにとって貴重な存在だった。
「……人が悪いな。襲撃された事は予測していたんだろう」
はたと思い至って、ハシュレイは眉間に皺を寄せた。
最後の一滴まで杯に注いだシードが、上半身を揺らしながら頷く。がくりと折れる首。そのまま頭が落ちてしまいそうだ。
「何となくはね。今回は、何かしらの動きがあるのじゃないかとは思っていた。……竜の遺産探索に、天上人の対策でしょう。大陸各国の要人にも会わねばならないし……。忙しくなるなぁ」
右手の指を一本ずつ折り曲げ、天井を仰いで溜息を吐く。
「選定を受けた者の事は頼んだよ。俺から話をしてもいいけど、俺がその少年なら、やはりハシュレイから話して欲しいと思うから」
ハシュレイは音も無く息を吐き、少しの間を置いて頷いた。
シードが満足気に頷く。そして、笑んだまま双眸を閉じる。
「ハシュレイ眠い。悪いけど……少ししたら起こして」
「おい、待てよ。どうせ寝るなら部屋に……」
ぱたりと横になったシードを揺らしてみたが、寝息は既に深く、全く起きそうになかった。
ハシュレイは頭を掻き、口をへの字に曲げた。横目で開け放たれた窓の外を見る。
月が見えた。中天を越えている。
最後の一杯を一息にあおり、叩きつけるように杯を置く。鼻息荒く、腕を組む。酔ってしまいたかったが、少しも酔えない。身体は火照り、視界も揺れているのに、頭の芯は妙に冴え冴えとしている。
ハシュレイはソファの上で胡座を組み、右足に頬杖をついた。
「……少ししたらの少しって、どのくらいだよ、竜王様」
鼻面に深い皺を寄せて言った怨み言は、儚くも彼の寝息に消されていった。
常連様に、通りすがりの皆様、こんばんは。
予定より、遅くなってしまいましたが、3章4節をお届けいたします。
もし、お待ちいただいている方がいらっしゃいましたら、本当に申し訳ありませんでした。
今回は、核心に触れた話になっております。いかがでしたでしょうか?
次回は、8月31日から9月2日の間に更新する予定です。
前回・前々回にもお知らせさせていただきましたが、仕事が繁忙期につき更新期間を長めにさせていただいております。
更新日を変更させていただくこともあるかと思いますが、その際は、活動報告にてご連絡させていただきます。
それでは、皆様。今後とも何卒よろしくお願い致します。
熱中症などにお気をつけて、ご自愛ください。
陸王一式




