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朝、目を覚ますと、庭で何かが鳴いていた。
ミョー、ミョー。
猫かな、と思って布団の中でしばらく聞いていたけれど、違う。
「ミオ」
人だった。
「ミオ」
ああ、そうだった。自称王子がいたんだった。
私は枕元のスマホを取った。六時十二分。聞こえなかったことにして、布団を頭までかぶる。
「ミオ」
近い。障子の向こうにいる。
「……なんですか」
「朝食はまだか」
昨日の「取ってください」は、どうやら冷蔵庫にしまわれたらしい。
「自分でなんか食べてください。冷蔵庫にいろいろ入ってますから」
「何を食べればいい」
「パンとか、卵とか。昨日のご飯も残ってるし」
返事がない。
「パンはどれだ」
私は布団の中で目を閉じて、諦めて起きることにした。
台所へ行くと、ルイは昨日と同じ格好で立っていた。黒いうまもんのTシャツに、黒いうまもんのステテコ。改めて明るいところで見ると、ひどい。うまもんが悪いわけではない。うまもんはかわいい。
ただ、着ている人との落差がひどい。
「今日は服、買いに行きましょうか」
「服?」
「それ、一着しかないので。私も返してほしいですし」
ルイが自分の胸元を見る。
大きな黒い熊が、満面の笑みでおにぎりを抱えている。ラブ!
「これはいらん」
「返してほしいって言ってるんです」
「ならば別のものを用意しろ」
「お願いしてもらえますか?」
ルイは黙った。
二日目も長そうだ。
朝食を済ませ、洗濯物を干してから車の鍵を取った。玄関を出ると、ルイが車の前で立ち止まる。
「これに乗るのか」
「そうです」
ルイは車の周りをぐるりと一周した。
「馬は?」
「いません」
「何が引く」
「何も引きません。エンジンで動きます」
「エンジンとは何だ」
「乗れば分かりますから」
運転席のドアを開けても、ルイはまだ車の前にいた。
「乗らないんですか」
「……これが動くのか」
「動きますよ。ほら、助手席」
ようやく乗り込んだルイの隣で、シートベルトを引き出す。
「これ、してください」
「なぜ身体を縛る」
「縛ってません。安全のためです」
「何から身を守る」
「事故です」
「事故が起きるのか」
「起きることもあります。だから、してください」
ルイは納得していない顔をしながらも、ベルトを差し込んだ。カチッと音がする。
やれやれ、言葉を覚えたての幼児と話している気分だ。
エンジンをかけると、ルイがビクッと背筋を伸ばした。
「今度は何だ」
「エンジンをかけたんです」
エアコンから風が出る。
「風が出ている」
「エアコンです。暑いので冷やすやつ」
「この車が冷やしているのか」
「はい。私も仕組みまでは知りません。運転できるのと、車を作れるのは別なので」
車を出す。家から街までは、山を下って車で二十分ほどかかる。
道の両側には木や畑が続いていて、しばらくは店らしい店もない。ルイは窓の外を眺めながら、目を瞬かせている。
「この道を、毎日使うのか」
「毎日ではないです。買い物のときくらいかな」
「商人が家に届けに来ないのか?」
「来ませんが、お店に行って手に取ってみるのも楽しいですよ」
どこの富豪かな?
「そうか」
やがて山道を抜けると、バイパス沿いに店が増えてきた。スーパーやドラッグストア、飲食店の看板が並んでいる。信号で止まる。
「なぜ止まる」
「赤だからです」
「赤?」
信号を指さす。
この大きな幼児には、これだけはきちんと伝えておかなくては。
「あれが赤なら止まる。青なら進むんです」
「誰が決めた」
「交通ルールです」
「誰が作った」
「国とか、そういうところじゃないですか」
「曖昧だな」
「運転中なので、そこまで考えてません」
青に変わった。
「青だ」
「見れば分かります」
前の車が動き出す。
「前の車も動いた」
「みんな同じルールで動いてるので」
しばらく走ると、ルイがコンビニを指さした。
「あれは何だ」
「コンビニです。何でも売ってる小さいお店です。24時間営業しているので便利ですよ」
「24時間?働いている人間はいつ休むんだ?」
「みんなで交代でやっているんです」
「なんで24時間やってるんだ?」
「なんででしょう。夜中にお醤油が切れたら買いに行くとか?お醤油は昨日食べてたきゅうりに使ってた調味料ですね」
「お前は買いに行くのか?」
いや、行かないな。
この大きな幼児の問いに全てに答えを考えるのも大変だな。世の中の子育てしているお母さんは偉大だ。
でも何で24時間もがんばってるんだろう、がんばりすぎだよな。
次はガソリンスタンドを指さし、その次は自動販売機、歩道橋と続いた。こっちは運転中なんだから、黙っていてほしいな。
服屋は、バイパス沿いのスーパーの隣にあった。駐車場に車を停めると、ルイは店の大きな看板を見上げた。みんなが愛する「レ・まむら」!
「ここで服を買うのか」
「そうです。たぶん一通り揃います」
「ひととおり?」
「えーと、Tシャツ、ズボン、下着、靴下……」
自動ドアが開く。ルイが止まった。私もつられて足を止める。
「……入らないんですか」
「今、勝手に開いたぞ」
「自動ドアなので」
「?」
「人が近づくと開くんです」
一歩下がると、ドアが閉まる。近づくと、また開く。ルイがもう一度下がった。さらに一歩下がる。ドアが閉まり、近づく。
開く。
「遊んでないで来てください」
「遊んでなどいない」
絶対遊んでる。店内に入ると、ルイは服の量に驚いたらしい。ラックの間を歩きながら、あちこち見ている。
「これらはすべて売り物なのか」
「そうです」
「誰が仕立てる」
「工場じゃないですか」
「注文してから作るのではないのか」
「ここにあるものから選ぶんです」
ルイはTシャツを一枚取った。同じものが何枚も重なっている。一枚めくる。その下にも同じもの。さらにその下にも同じもの。
「全て同じだ」
「サイズ違いもありますけどね」
「これを誰でもが着るのか」
「まあ、同じ物を買えばそうなりますね」
何がそんなに不思議なのか分からない。
「あ、そうだ。昨日聞くのを忘れてたんですけど、何日くらいこちらにいるんですか?」
「それは分からない」
分からないのかよ。ビザとかないのかよ。
とりあえずTシャツを四枚、ゴム紐のズボンを二本、短パンを二枚選んだ。
「あと、下着かな」
ルイが黙った。私も黙った。男物の下着売り場を指さす。
「自分で選んできてください」
「なぜだ」
なぜだじゃないよ。
「なんで私があなたのパンツを選ばなきゃいけないんですか」
少し離れたところにいた女性が、こちらを見た。目が合う。すぐに逸らされた。
そういえば私たちは、他人からどう見えているんだろう。ややお疲れの女と、上下うまもんを着た、やたら顔のいい男。しかも足元は、おばあちゃんちにあったボロいサンダル。
怪しい。
ものすごく怪しい。
「ミオ」
呼ばれて振り返る。
ルイがパンツの三枚セットを二つ持っていた。
「どちらがよい」
「知らないですよ」
「そなたが選べと言った」
「どっちも買ったらどうですか?多めの方が安心ですよ」
「うむ」
ルイは両方カゴに入れた。
靴売り場では、スニーカーを履いてみた。立ち上がったルイが、何度か足踏みをする。少し歩いて、戻ってくる。
「軽い」
「今まで何を履いてたんですか」
「もっと重くて硬いやつだ」
ルイはもう一度歩いた。心持ち小走りになっている。
「これにする」
即決した。
会計へ向かう。私はいつものように、空いているセルフレジへ行った。
ルイが戸惑っているので声をかける。
「こっちですよ」
「そこには誰もいない、どうやって買うんだ?」
「自分で会計するんです。買うものをこの機械で読み取って、支払います」
Tシャツのタグを読み取る。
ピッ。ルイの眉が動いた。
もう一枚。
ピッ。
「今の音は何だ?音だけで分かるのか」
「機械が分かるんです」
ルイが画面を覗き込み、私の手から次のTシャツを取る。
「どこを当てる」
「ここです。バーコードっていうこのシマシマのところです」
「バーコード?」
ルイは商品を持ったまま、恐る恐る読み取り機に近づけた。
ピッ。
止まる。もう一枚取る。
ピッ。
今度はズボンを取る。
ピッ。
さっきより少し早くなった。
「楽しいですか」
「別に」
ピッ。
楽しんでるじゃん。
すべて読み取り終わると、支払い画面になった。私は携帯を出して、QRコードを端末にかざす。
ペイペペイ。
音がして、会計が終わった。ルイが機械の画面と私の携帯を交互に見る。
「金は?払ったのか?」
「はい」
「硬貨も紙幣も渡していない」
「ペイペペイなので。説明すると長いので、そういうものだと思ってください」
ルイは何か言いかけたが、結局、黙って買い物袋を持った。
服屋を出ると、隣のスーパーへ向かった。
食べるものは家に山ほどある。野菜も畑にあるし、刺身を食べたいと思わなければ、特に買うものはない。
「お菓子でも買います?甘いものとか、しょっぱいものとか」
売り場へ連れていくと、ルイはまた足を止めた。
ポテトチップス、チョコレート、グミ、せんべい、クッキー、飴。棚の端から端まで、いろいろな袋が並んでいる。
「これらはすべて菓子なのか」
「そうです」
「これも?」
「はい」
「これは?」
「果汁が入っているグミ、こっちは硬くて酸っぱいやつ、おすすめはこれかな、梅男」
ルイは袋を裏返して眺め、隣の袋を手に取り、また元に戻した。さっきから顔が少し楽しそうだ。
「好きなの、一つ選んでいいですよ」
「一つ?」
世にも切ない顔で見つめてくる。あれだ、泥にまみれてお風呂に入る前の大型犬。
「特別です。二ついいですよ」
ルイの手が止まった。
「……そうか」
さっきまでとは少し違う声だった。結局、ルイはよく分からない味のポテトチップスを一袋だけ選んだ。
通路を曲がると、床を大きな機械が動いていた。ルイが立ち止まる。
「あれは何だ」
「掃除してるんじゃないですか」
「誰が?人が乗っていないぞ?」
「自動なんでしょうね」
機械は私たちの前まで来ると、少し止まり、それから方向を変えて進んでいった。
ルイは振り返り、しばらくその後ろ姿を見ていた。
最後にアイス売り場へ寄った。冷凍ケースを開けると、冷気が手にまとわりつく。
「寒いな」
「冷凍庫なので」
どこかで同じ会話をした気がする。がっつりみかんを一箱取る。ルイが隣から覗き込む。
「それは何だ」
「アイスです。冷たくて甘いやつ。美味しいですよ。一つ好きなの選んでいいですよ」
ケースの中を指さす。
「どれがよい」
「好きなのを選んでください」
ルイは興味深そうに眺めて、いやいい、と首を横に振った。
スーパーのレジもセルフだった。今度はルイが先に機械の前へ行く。
「これだな」
「そうです」
ポテトチップスを取る。
ピッ。
「お」
アイス。
ピッ。
「できるようになりましたね」
ルイが少しだけ口元を上げた。
帰りの車は静かだった。行きはあれほど何にでも食いついていたのに、ルイは窓の外を見ている。山道に入ってからも、何も言わなかった。信号で止まる。
「疲れました?」
「いや」
それだけだった。青になったので、車を出す。
家に着くと、ルイは買ったものを持って離れへ戻った。
私は冷凍庫にアイスをしまい、冷蔵庫から麦茶を出した。一息つきながら、今日のご飯の献立を考える。
ひとまず着るのだけ着たら、あとは全部洗濯するから持ってきてって言ったのに、なかなかルイは持ってこない。早く洗いたいんだけどな。
離れへ向かうと、ルイは縁側に座っていた。買ったばかりのTシャツに着替えている。
うまもんじゃない。
普通だ。
普通の服を着ると、ちゃんとして見える。
ルイがぼんやりしていて、こちらに気がつかないので、心持ち大きめの声で呼びかける。
「洗濯したいので服くださーい」
「……あ、あぁ」
私が服を受け取っても、ルイは何だかぼんやりしている。疲れたのかな?
「買ってきたアイス食べましょうか」
素直に母屋についてくるルイに、お茶をだし、冷凍庫からがっつりみかんをだす。
ルイは袋を持ったまま止まった。
「どうやって開ける」
「貸してください」
端を切って返す。
ルイがオレンジ色の氷菓を引っ張り出した。じっと見る。
恐る恐る一口かじる。びっくりしている。
「……冷たくて硬い」
「もう少ししたら柔らかくなりますよ」
もう一口。今度はさっきより大きい。
また、かじる。
「……うまい」
「よかったですね」
私も自分の袋を開けた。
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