18
家に着いてから、ミオが先に風呂へ入った。
俺は麦茶を飲んだ。腹が苦しい。食いすぎた。
「ルイ、お風呂どうぞ」
髪を乾かしたミオが言った。
「ああ」
「お茶飲んだ?」
「飲んだ」
「じゃ、おやすみ」
「おやすみ」
ミオが部屋へ行く。
少し休んでから入ろう。
ソファに座った。静かだ。
麦茶を飲む。冷たい。
今日のことを思い出した。
博物館。
焼肉。
ビール。
楽しかった。
「楽しくていいんだよ」
ミオが言った。
楽しくていい。
そんなことを、教わったことがあっただろうか。
ない。たぶん。
幼いころから、教わることは多かった。
歴史。法律。経済。外交。軍事。礼儀。剣術。馬術。
何を見るべきか。
何を守るべきか。
何を捨てるべきか。
好き嫌いで決めるな。
感情に流されるな。
一人のために百人を危険にさらすな。
何度も聞いた。
だから、その通りにした。
立太子を控え、実務を任されるようになったころから、父上は違うことを言うようになった。
民を見ろ。
見ている。
数字も。税も。収穫量も。人口も。
すべて見ている。
そう答えた。
違う、と言われた。
何が違うのか分からなかった。
そして、あのことが起きた。
俺は判断した。教わった通りに。
最も損失が少ない方法を選んだ。
結果も、その通りになった。
それなのに。
父上は、俺を王宮から出した。
王家の者しか知らない場所。
王となる者が試しの地へ送られる。そう聞かされた。
そして、ここへ来た。
ミオがいた。
何も知らない女だった。本当に、何も知らない。聞いても、知らない。
なぜだと聞いても、分からない。
そのくせ偉そうだ。
適当だ。
なのに。
腹が減れば飯を作る。
俺が倒れていれば水を持ってくる。
何者かも分からない俺を家に置く。
最近のミオはよく食べる。よく笑う。
だが、少し前までは何だか変だった。
それなのに、出会った最初から俺の心配をする。
意味が分からない。意味が分からないことばかりだ。
この国も。ミオも。
父上が言っていたことも。自分のことも。
あの時の決断を間違っていたとは思わない。何度同じようなことが起きても、同じような決断をするだろう。
でも。あの数字の中に。
泣いたり笑ったりしていた人がいた。
ずっと考え続けている。
これが試されているということなのか。
ぐるぐるぐる。
今日の肉はうまかった。
ビールもうまかった。
また行きたい。
また行けばいい、とミオは言った。
また。
目を閉じる。少しだけ。
少しだけ休んでから、風呂に――
「ルイ!!」
目を開けた。
「くさい!!」
ミオがいた。
「……なんだ」
「なんだじゃない! お風呂入らずに寝たでしょ!」
「……」
そうだった。
「焼肉くさい! 酒くさい!」
シュッ。
顔の横を何かが通った。
「何をする!」
シュッ、シュッ。
「ソファに匂いついてる!」
「俺にかけるな!」
「かけてない! ソファ!」
シュッ。
「起きて! お風呂!」
「分かった!」
「早く!」
逃げるように風呂へ行った。
朝飯は、いつも通りだった。
ご飯。味噌汁。卵焼き。漬物。茹でたオクラ。茄子とピーマンの味噌炒め。
「頭痛くない?」
「ない」
「気持ち悪くない?」
「ない。しかし腹はまだ少し重いような気がする」
「あっそ」
テレビでは朝の連続ドラマが始まった。
「言葉が足りない」
「何が?」
「昨日聞いただろう。あの男が――」
「ああ」
「ここで言わなければ、また誤解するだろう」
「ドラマだからね」
「惜しむから伝わらないのだ」
「ほう……まあそれがドラマだからね」
「何だ」
「いや」
ドラマが終わる。そのまま次の番組が始まった。今日は腰痛予防の特集だった。テレビの中で、出演者たちが腰を伸ばしている。
ルイも伸ばす。
「効くのか、これは」
「知らない」
「お前もやれ」
「やだ」
「腰が痛くなってからでは遅いぞ」
「はいはい」
いつも通りだった。
洗濯物を干し終わって、ミオが麦わら帽子をかぶった。
「畑行くけど、来る?」
「行く」
外へ出る。
空は晴れていた。
畑の野菜に水をやる。
最初のころより、何がどこに植わっていて、食べごろがどのあたりか分かるようになってきた。
「そっちお願い」
「ああ」
「ナスも」
「分かっている」
「この前忘れたじゃん」
「あれは見えなかっただけだ」
「それを忘れたっていうんだよ」
風が吹いた。少し涼しい。
「もう秋だねえ」
ミオが言った。
「秋か」
「朝晩、だいぶ涼しくなったし」
帰りに、あの社の前を通った。
俺がこの世界へ来た場所。小さな社。
ミオが足を止める。
手を合わせた。
俺も隣に立って、手を合わせる。
いつものことになっていた。
顔を上げる。
何かが気になった。
空を見る。
青い空に、月が出ていた。白い。
「あ、月」
ミオも気づいた。
「昼間でも見えるんだよね」
俺は月を見る。
「なんか昼の月って控えめで可愛らしいよね」
ミオはそう言って、また歩き出した。
俺は動かなかった。
月を見る。形を確かめる。
「ルイ?」
振り返ったミオが呼んだ。
「どうしたの?」
「……いや」
もう一度、月を見る。
ここへ来た日にも、月を見た。
あのときは。
「ルイー?」
「今行く」
ミオを追う。
数歩歩いて、振り返った。
社。
その向こうに、白い月。
もう、そんなに経ったのか。
胸の奥が、わずかにざわついた。
たぶん。
「早くー」
「分かっている」
ミオのところへ戻る。
月は、昼の空に残っていた。




