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会社に入ると、みんな頭がよかった。
当たり前だけど、聞いたことのある大学を出ている。先輩も、同期も。
入社してしばらくは、大学の名前を聞くたびに、すごいな、と思っていた。そのうち慣れた。
仕事の話をする。業界の話をする。最近読んだ本の話をする。ニュースの話をする。新しくできた店の話をする。
同期とランチに行けば、雑誌で見たような店に入った。
「ここの系列、丸の内にもできたらしいよ」
「今度行こうよ」
「予約取れるかな」
私も知っているふりをした。
給料はよかった。
大人になった、と思った。仕事は忙しかった。朝から夜まで働いた。
家に帰って、お風呂に入って、寝る。朝になったら起きる。金曜日の夜は嬉しかった。土曜日は死んだように寝た。日曜日に洗濯をして、掃除をして、冷蔵庫の中身を補充した。そうすると月曜日が来た。
給料はいい。でも、お金を使う暇があまりなかった。
仕事は嫌いじゃなかった。むしろ、楽しかった。
最初は何を言っているのか分からなかった会議が、少しずつ分かるようになる。できなかったことができるようになる。
先輩に聞かなくても判断できることが増える。任される仕事が増える。
「助かった」
と言われる。
「澪ちゃんに任せれば大丈夫だね」
と言われる。
嬉しかった。
やればやるほど、できるようになった。
できるようになれば、もっと任された。
認められている気がした。
ただ。同じころから、別のことにも気づき始めた。
私は、あまりうまく人に合わせられなかった。みんなが笑っているところで、うまく笑えなかった。
飲み会で自然に輪の真ん中に入っていく人を見ながら、いつ入ればいいのか考えているうちに話題が変わる。
だから仕事をした。仕事なら、やることが分かる。
頼まれたことをやる。期限を守る。間違えない。分からなければ調べる。足りなければ、もう少しやる。
そして、仕事が分かるようになるほど、別のことにも気づいた。
みんな、頭がいい。学歴の話ではない。一つ聞いて、十を理解する人がいる。十を理解したあと、誰も言っていない十一を作る人がいる。
会議で話を聞きながら、その場で問題を見つけて、解決策まで出す人がいる。その人が話すまで、私はそこに問題があることすら気づいていなかった。
すごいな、と思った。
同時に、私にはできないな、と思った。
勉強は、やればできた。分からないところを覚える。問題を解く。間違えたら、もう一度やる。時間をかければ、点数になった。
でも仕事には、答えがないものがあった。時間をかけても、出てこないものがあった。
私は、普通だった。それに気づいた。
だから、もっとやった。早く出社した。人より調べた。メモを取った。分からなかったことは家に帰ってから調べた。一度聞いたことは、二度聞かなくていいようにした。
私には、それしかなかった。
部署の先輩が、産休に入ることになった。
「一年くらいかな。たぶん」
笑いながら言った。
「戻ってきたら、またよろしくね」
「はい」
私も笑った。
引き継ぎをした。先輩がやっていた仕事の一部を、私が持つことになった。
一部。最初はそう聞いていた。人は補充されなかった。業績があまりよくないらしい。採用を止めているらしい。仕方がない。
みんな忙しい。私だけじゃない。先輩がいなくなってから、仕事が増えた。最初は少しだった。これもお願い。これ、前に先輩がやってたから。
この件、分かる?それも。これも。気づけば、かなり持っていた。できない、とは言えなかった。
だって、誰かがやらなければならない。私がやらなかったら、誰がやるんだろう。
だからやった。
朝、少し早く行く。昼休みを短くする。
夜、少し残る。少しが増えた。
それでも終わらない。
別の仕事をしている先輩が、ある日、声をかけてきた。
「澪ちゃん、大丈夫?」
パソコンから顔を上げた。
「え?」
「最近、元気なくない?」
優しい声だった。心配そうな顔をしていた。
「あ……」
喉まで出た。ちょっと、きついです。言おうとした。
そのとき、向こうから誰かが先輩を呼んだ。
「ごめん、ちょっと行ってくるね。またあとで」
「はい」
先輩は行ってしまった。
しばらくして、トイレに行った。個室に入る。座る。別に用を足したかったわけではなかった。少しだけ、一人になりたかった。
ドアが開いた。
二人入ってきた。声で分かった。
さっきの先輩と、同じ部署の人だった。
誰かの悪口を聞くのは、初めてではなかった。会社に入ってから、何度も聞いた。
仕事が遅い。
気が利かない。
あの人と仕事したくない。
また休んでる。
言い方がきつい。
そんな話。
だから、最初は聞いていなかった。早く出ていってくれないかな、と思っていた。
「でもさあ」
先輩の声がした。
「澪ちゃんも、やっちゃうからね」
自分の名前が聞こえた。
息を止めた。
「頼まれたら全部やるじゃん」
「ああ」
「だから上も、回ってると思うんだよ」
もう一人が笑った。
「あの子が頑張るから、補充来ないんじゃない?」
先輩は、少し黙った。
それから。
「まあ、それはあるかもね」
二人は別の話を始めた。
私は個室から出られなかった。
頑張るから。補充が来ない。私が。
私は、どうすればよかったんだろう。
できませんと言えばよかった?
仕事を残せばよかった?
誰かに押しつければよかった?
でも。
終わらなかったら困るから。
誰かがやらなきゃいけないから。
だから、やった。
ずっとそうしてきた。できなければ、やる。足りなければ、もっとやる。人より時間がかかるなら、人より時間をかける。
私には、それしかなかった。
それなのに。
頑張る私が、いけないの?
次の日。
目覚ましが鳴った。止めた。
起きなきゃ、と思った。
もう一度鳴った。止めた。
七時十二分。まだ間に合う。
七時二十分。起きる。起きて、私。
七時三十一分。遅れる。
会社に連絡しないと。スマートフォンを持った。
行かなきゃ。迷惑をかける。仕事がある。昨日終わらなかったものもある。
行かなきゃ。
行かなきゃ。
私は布団から出られなかった。
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