12
夜。
洗いたてのシーツは、気持ちいい。布団に入って、足を伸ばす。さらさらしている。
昼間ずっと日に当たっていたからか、まだ少しだけ、お日様の匂いがする気がする。
私はシーツを足の指で挟んだ。気持ちいい。もう一回やる。
さらさら。
昨日、雨に濡れたときは最悪だったけど、洗い直してよかった。
私は洗濯が好きだ。洗濯機を回すのも好きだけど、干すのが好きだ。乾いたシーツを取り込むのも好きだし、洗いたてのシーツに包まれるのも好きだ。
そういえば。
すき焼きも好きだった。久しぶりの和牛、おいしかったな。ルイがほとんど食べていたけど。
そんなことを考えていて、ふと思った。
好きなもの。
洗濯。すき焼き。ガリボリ君も好きだけど私はやっぱりガッツリみかん派。
それから。絵。
目を開けた。暗い天井が見える。
絵も、好きだった。
そうだった。好きだった。
昨日見つけた缶。紙人形。何十枚も作った服。短くなった色鉛筆。スケッチブック。
私は寝返りを打った。
――あれ。
なんで、描かなくなったんだっけ。
おばあちゃんは、私が何を描いても褒めた。本当に、何でも。
花を描けば、
「まあ! きれい! この色すごくいいわねえ」
猫を描けば、
「かわいい! 猫ちゃん!実物よりかわいい」
おばあちゃんを描けば、
「やだ、こんな美人に描いてくれたの?」
服を描けば、
「これ、おばあちゃんも着たい!」
ピンクで、リボンが三つもついたワンピースだった。でも、おばあちゃんは本気みたいな顔で言った。
私が何を見せても、百点ではなかった。五百万点だった。
私は、次々描いた。褒めてもらいたかったのもある。でも、その前から描いていた。
何を描こう、なんて考えなかった。目の前に花があれば花を描いたし、テレビにかわいい服が出てくれば服を描いた。
自分の左手を描いたこともある。開いた手。握った手。横から見た手。
何がそんなに面白かったのか、今となっては分からない。でも、描いていた。
実家でも描いていた。
リビングのテーブルに画用紙を広げて、色鉛筆やクレヨンを出した。
父が仕事から帰ってくる。
「何描いてるんだ」
覗き込む。
「これ」
見せる。
父はしばらく絵を見た。写真を撮るのが趣味な父は何か思うところがあったのか、言った。
「ここ、もう少し構図を考えた方がいいんじゃないか」
構図。
たぶん、小学生の私は意味がよく分かっていなかった。
父も、どこまで分かっていたのかは知らない。
「あと、この色とこの色は合うのか?」
「合うよ」
「そうか?」
母が台所から笑った。
「まあまあ、子どもの描く絵ですから」
それから、私の絵を見て、
「でも、本当に上手なんですよ」
と言った。
父も別に、下手だと言ったわけではなかった。
「もう少しこうしたらよくなるんじゃないか」
そういうことを言いたかったんだと思う。
たぶん。
そのうち、私は自分の部屋で描くようになった。机があったし、その方が道具を広げたままにできた。誰にも何も言われない。好きに描ける。
中学生になっても、ときどき描いた。教科書の隅。ノートの端。
雑誌で見つけた服。友達。手。靴。その辺に置いてあったマグカップ。
ある日、描いたものをリビングに置いたままにした。何を描いた絵だったかは、覚えていない。
父が見つけた。
「まだ絵、描いてるのか」
「うん」
「好きなんだな」
怒ってはいなかった。むしろ、笑っていた気がする。
それから、父は言った。
「でも、絵で食べていくのは難しいぞ」
何の話だろう、と思った。私は別に、絵で食べていくと言った覚えはなかった。
「スポーツだって同じだ。学校で上位一割に入ったって、プロにはなれない。一パーセントに入ったって、そこからプロになれるのは一握り、そしてその先がある」
父は、私に分かるように説明していた。
「でも勉強は違う。上位一割に入っていれば、いい大学を狙える。いい大学に入れば、いい会社にも入りやすい。仕事の選択肢も増える」
私は聞いていた。
「ちゃんとした会社に入って、きちんと稼げるようになれば、好きなことだってできる。お金があれば選べることも増える」
たぶん。父は私のために言っていた。
「澪は勉強ができるんだから、それを大事にした方がいい」
褒められた。と思った。
母が少し困ったような顔をしていた。
「絵を描くくらい、いいじゃない」
「描くなとは言ってない。趣味でやればいい」
そう。
父は一度も、描くなとは言わなかった。
ただ。
私は、絵を描いてはいけないんだ、と思った。それから勉強した。
もともと勉強は嫌いじゃなかった。やれば点数が上がる。答えがある。テストでいい点を取ると、父は喜んだ。
順位が一桁になった。
「すごいじゃないか」
次も取った。
「このまま頑張れ」
その次も。
上位一割から落ちないようにした。
父は満足していた。
母は、ときどき、
「そんなに頑張らなくても大丈夫よ」
心配そうに言った。でも、何が大丈夫なのか分からなかった。頑張れば結果が出るのに、頑張らない理由がなかった。
高校に行った。勉強した。
大学に行った。就職活動をした。
だれもが名前を知っている会社から内定をもらった。
父は喜んだ。
母も喜んだ。
私も、嬉しかった。
これでいいんだと思った。
ちゃんとできた。
ちゃんと大人になった。
会社に入った。
仕事を覚えた。
失敗しないようにした。
迷惑をかけないようにした。
任されたことは、ちゃんとやった。
それで。
それで――。
暗い部屋で、目を開けた。
時計を見る。午前一時十二分。
私は今、おばあちゃんの家にいる。
仕事はしていない。
翌朝。
ルイはテレビで朝ドラを見ていた。私は麦茶を飲んだ。朝ドラが終わる。そのまま、あさイチが始まる。ルイが何か言っていたけれど、あまり聞いていなかった。
廊下を歩く。部屋の前で止まる。襖を開けた。
机の上に、缶がある。開けたまま。
紙人形の女の子が、昨日と同じ場所にいる。私は椅子に座った。
スケッチブックを開く。花。猫。手。服。おばあちゃん。
下手だ。今見ると、普通に下手だ。
でも。楽しそうだな、と思った。
色鉛筆を一本取った。
短い青い色。
持つところに、子どものころにつけた歯形がある。
青い色鉛筆を紙に当てる。白い紙に、小さな青い点がついた。それだけ。
私はしばらく、その点を見ていた。
描いてはいけない理由は、もうない。
勉強しなくていい。
受験もない。
就職活動もしていない。
仕事だって、今はない。
なのに。
何を描けばいいのか、分からなかった。
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