11
翌朝、昨日雨に濡れたシーツをもう一度洗った。朝からよく晴れている。
庭に出て、シーツを大きく広げる。ぱん、と振ると白い布が風をはらんだ。洗濯ばさみを留めていると、縁側からルイが顔を出した。
「今日は降らないのか」
「天気予報では」
「昨日もそう言っていた」
「天気予報に絶対はないんです」
ルイは空を見上げた。
最近、この人は何でも調べるけれど、調べれば必ず答えが出ると思っているわけではないらしい。
「今日、図書館行ってみます?」
ルイがこちらを見た。
「図書館?」
「本がいっぱいあるところ」
「行く」
即答だ。
久しぶりに来たこの市立図書館は、静かだった。平日の昼間だからか、人も少ない。
新聞を読んでいるおじいさん。雑誌を読んでいるおばあさん。椅子で寝ているおじいさん。
おじいさん。おじいさん。たまに、おばあさん。
ルイが館内を見回した。
「ずいぶん年齢が偏っているな」
「平日の昼間だからじゃない? 学生は学校だし、働いてる人も仕事中だし」
「では、この者たちは時間があるのか」
「たぶん」
寝ているおじいさんを見た。
「有効に使っているな」
「そうかな」
ルイは新聞の棚で止まった。
全国紙。地方紙。経済紙。英字新聞。スポーツ新聞。
一つ一つ見ている。
「同じ日に、これだけ違うものが出るのか。同じ出来事を扱っていても、選ぶ記事も大きさも違う」
もう比べ始めている。
一紙取って席についたので、私も適当に雑誌を持って近くに座った。
十分。二十分。まだ読んでいる。
一面から順番に、ほとんど隅まで見ている。広告まで見ている。
「そこも読むんだ」
声をかけると、ルイは紙面から目を離さなかった。
「記事だけ見たら、この新聞が何を伝えたいかしか分からないだろう。何を売っているかも、誰に売っているかも、この国を知る材料になる」
なるほど。
私は二冊目の雑誌を開いた。
新聞を何紙か見比べたあと、ルイは本棚へ行った。
歴史。政治。経済。自然科学。料理。旅行。
棚から棚へ移動し、一冊取っては開き、戻し、また次を取る。そのうち姿が見えなくなった。
探しに行くと、奥の低い棚の前にしゃがみ込んでいた。
「何読んでるんですか」
ルイが表紙をこちらへ向けた。
『市内遺跡発掘調査報告書』
「……何それ」
「この辺りを発掘した記録だ。ここを見ろ」
遺跡の位置を示す地図がある。次のページには、土器の写真。その次には、地面を縦に切ったような図。
「土の層ごとに、何がどこから出たか記録している。この土地の下に、まだ別の時間が残っている」
さっき新聞を読んでいたときより、明らかに目が明るい。
「面白い?」
「興味深い。これを書いた者は、何のためにここまで記録したんだ」
「さあ」
「誰が発掘を決める。費用は誰が出す。見つかったものは誰のものになる。建物を造る予定だった場所から遺跡が出たら、工事はどうなる」
一冊の報告書から、もう五つくらい疑問が出ている。饒舌だ。ルイの脳みそがギュンギュン加速してきたのを感じる。
「……あとで調べたら?」
「そうする」
私も扱い方が分かってきた。
隣の棚には市史があり、その向こうには自治体が発行したらしい資料が並んでいた。
人口。産業。河川。道路。文化財。農業。土地利用。
ルイは背表紙を追いながら、次々に抜いていく。
「こんなのあるんだ」
思わず言った。
「知らなかったのか」
「図書館にあるとは思ってなかった」
図書館といえば、本を借りるところだった。小説や雑誌や、何かを勉強するための本。
役所が調べた人口や道路のこと。
誰かが土地を掘って、出てきたものを測って、写真を撮って、図にして、文章にして残したもの。そういうものまで、同じ棚に並んでいる。
今まで図書館に来たことは何度もあるのに、見ようと思ったことがなかった。
「こういうの、誰が読むんだろうね」
ルイは抱えていた一冊を開いた。
「俺が読む」
いた。
図書館を出た帰り、スーパーに寄った。
「何か食べたいものある?」
「肉」
即答だった。
精肉売り場を見て回る。豚肉、鶏肉、ひき肉、牛肉。半額のシールが貼られた和牛があった。
半額かあ、どうしようかな。一度通り過ぎて、戻った。まあ、いいか。かごに入れる。
そういえば、おばあちゃんは、何かいいことがあるとすき焼きを作っていた。
宝くじが300円当たったとか、誰かが来た日とか、何かのお祝いとか。
いい肉を買ってきて、鍋を出した。今日は別に、何もない。でも、思い出したら食べたくなった。
「すき焼きにしようかな」
「それは何だ」
「肉を食べる料理」
「よし」
家にある野菜を入れることにした。玉ねぎ、茄子、ズッキーニ。
おばあちゃんも、夏なら夏で、その時ある野菜を入れていたような気がする。
鍋を出した。
「すき焼きって、どうやって作るんだ」
「肉焼いて、砂糖と醤油かな」
ルイがタブレットで調べ始めた。
「関東と関西で違う」
「あー、そうだね」
「どちらだ」
「おばあちゃんは先に肉焼いてたから、関西かな」
牛脂を溶かして、肉を広げる。
じゅっと音がした。砂糖を振って、醤油を回しかける。
肉が焼ける。ルイは一口食べて、黙った。
「うまい」
「和牛ですから」
玉ねぎを入れる。
茄子とズッキーニも入れる。しらたき買うの忘れたな。
ルイはよく食べた。つられて私も食べた。
おばあちゃんのすき焼きも、こんな感じだった気がする。その時あるものを入れて。みんなで鍋を囲んで。
美味しかったな、と思った。
食後のお茶を飲む。そういえば。
「今日行った図書館より、もっとでっかい図書館ありますよ」
ルイが顔を上げた。
「どのくらいだ」
「国立国会図書館。この国、日本で出た本とか、いろんな資料を集めてるところ。ネットで見られるものもあったはず」
本が閉じられた。
「ここから?」
「全部じゃないですよ。たぶん登録が必要なものもあるし、現地でしか見られないものもあると思う」
もうパソコンを開いている。
早い。
国立国会図書館デジタルコレクション。
検索結果を見たルイが、黙った。
古い本。雑誌。公的な資料。百年以上前のものまである。
「これを、ここから読めるのか」
「公開されてるものならね」
ルイは一つ開いた。ページをめくる。拡大する。戻る。別の資料を開く。
「本が、場所から切り離されている」
「また大げさな」
「大げさではない。俺のいた場所では、本を読むには本のある場所へ行く必要があった」
それはそうか。
「ここでは、記録の方が来る」
その言い方には、少しだけ納得した。
そこからが大変だった。国会図書館から、ほかにどんなものがあるのかという話になった。
ルイはChatGPTを開き、Geminiを開き、Claudeも開いた。
「節度」
「覚えている」
本当だろうか。
最初は、三つに同じことを聞いていた。
日本で個人が利用できるデータベースには、どんなものがあるのか。
国会図書館。CiNii Research。J-STAGE。e-Stat。ジャパンサーチ。
知らない名前が次々に出てくる。
研究論文。統計。文化財。古文書。博物館の収蔵品。
ルイはそれを一つずつ開いていった。ここまでは、前にも見た使い方だった。
ところが、しばらくすると様子が変わった。一つのAIが出した答えを、そのまま別のAIに渡している。
「何してるの?」
「こいつの答えに、反論させている」
見ると、ChatGPTが出した説明に対して、Geminiに、前提の弱い部分や別の解釈を挙げさせている。その回答を今度はClaudeに渡す。
二つの意見が食い違っている理由を整理させ、両方が見落としている論点を探させる。
出てきた答えを読んで、ルイがまた最初のAIに戻した。
「今度は?」
「最初の問いが適切だったか、やり直させる」
「答えじゃなくて?」
「問いが狭ければ、どれだけ正確に答えても狭い答えしか出ないだろう」
なるほど。
そこから、最初の質問そのものが変わった。
新しい問いに三つが答える。一つには反論させる。一つには反論の穴を探させる。もう一つには、ここまでの議論でまだ誰も触れていないものを出させる。そうして出てきた知らない言葉を、今度はCiNiiで検索する。論文が出る。J-STAGEへ行く。参考文献を辿る。古い資料が必要になれば国会図書館へ戻る。数字が必要になればe-Statを開く。
一つには、そこから何が言えるか。一つには、その読み方への反論。もう一つには、その数字だけでは絶対に言えないことを挙げさせる。
速い。ものすごく速い。
「それ、もうチャッピーが答えてくれたんじゃないの?」
声をかけると、ルイは画面を見たまま答えた。
「答えは出した。だが、俺が聞いたことに答えただけだ。俺の知らないものは、最初から問いに入っていない」
「だから三つに聞くの?」
「それだけなら三つの多数決になる。意味がない。違うものを出させて、互いに崩させる。俺が当然だと思っている前提も、問いそのものもだ。そこで初めて、俺が知らなかったものが出てくる」
画面には、三つのAIがそれぞれ違う文章を出している。
「でも、その中のどれが正しいかは、どうするの?」
そこでようやく、ルイが私を見た。
「信じない」
「全部?」
「全部だ。使うだけだ」
また画面に戻る。
「知らない言葉を見つける。別の見方を出させる。反論させる。次に何を見るべきか考えさせる。その先に資料があるなら資料を見る。数字があるなら数字を見る。誰かが書いたものなら、誰が、いつ、何を根拠に書いたのかを見る」
少し考えてから続けた。
「その上で、俺が判断する」
なんだか。王子っぽいじゃん。
「ミオ」
嫌な予感がした。
「何」
「これは日本だけか」
「何が」
「こういうものだ。図書館、大学、博物館、政府の統計。ほかの国にもあるのか」
あ。まずい。
「あるでしょうね」
「つながっているのか」
「さあ」
「外国の古い新聞も読めるのか。論文は? 他国の統計は比較できるのか。言語が違っても――」
「今日は終わり」
「まだ途中だ」
「途中でいいんです。お風呂入ってください」
「だが今、次に調べるべきものが――」
「明日!」
ルイが黙った。パソコンを見る。私を見る。もう一度パソコンを見る。
ものすごく名残惜しそうにパソコンを閉じた。節度は守るらしい。
私がお風呂から上がってくると、ルイはソファーにいた。だらっと横になって、猫を撫でながらテレビを見ている。
さっきまで人類の知識がどうとか言っていた人とは思えない。しかも、見ているのは恋愛ドラマだった。
「それ、録画?」
「ああ。昨日の分だ」
「自分で予約したの?」
「できた」
いつの間に。私も途中まで見ていて気になっていたやつ。
猫はルイの横で丸くなっている。
ルイは片手でその背中を撫でながら、画面の男女を険しい顔で見ていた。
「この男は、前にも同じことをした」
「あー、この人ね。ダメなんだよね」
「仕事も続かない。嘘をつく。金も返していない。それでもこの女は、まだこいつと一緒にいる」
「好きなんでしょうねえ」
ルイの眉間に皺が寄った。
「だが、この女はさっきから泣いている。原因もこいつだろう」
「そうだね」
「なら離れればいい」
私は髪を拭きながら、隣に座った。
「それができたら苦労しないんじゃない?」
「なぜできない。婚姻しているわけでもないし、子もいない。家同士の約束もないのだろう?」
「ないと思う」
「この男との関係を維持することで得られる地位や財産もない」
「ないね」
「では、何が問題なんだ」
「好きなんだってば」
ルイは画面を見た。
女の人が泣きながら、男に「もう無理」と言っている。男が謝る。女の人は泣いている。泣き顔きれいだな。マスカラ落ちないし、涙だけがきれいにこぼれる。
そして、別れない。
ルイが私を見た。
「今、別れると言っただろう」
「言ったね」
「別れないのか」
「別れないみたいですね」
ルイはしばらく黙っていた。
「好きなら、なぜこれほど泣く」
「好きでも泣くでしょ」
「この男のせいで泣いている」
「そうだね」
「なら離れれば泣かずに済む」
「でも離れたくないんでしょうね」
ルイがこっちを向いた。納得できないらしい。
画面の女の人がまだ泣いている。ルイの眉間の皺がさらに深くなった。
女心は、壊滅的に分からないらしい。
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