第2話「その炎は、裏切りの色をしていた
その瞬間は、唐突に来た。
「見ての通りだ。無反応の貴様に用はない。今日をもって、婚約破棄だ」
クラウス様の言葉が広間に響いた直後、リゼットの掌の炎が揺れた。
普段の赤とは違う。黄金でも橙でもない。禍々しい黒紫が、炎の縁から滲み出てくる。
「……え?」
リゼット自身が、自分の手を見て眉を寄せた。次の瞬間、炎が跳ねた。シャンデリアを覆い、天井へ広がり、会場全体が黒紫の光に染まる。
「きゃあっ……!? これ、違う……瘴気が混じってる……!?」
悲鳴が上がった。招待客たちが出口へ殺到し、踏み躙り合う。騎士たちが剣を抜くが、この種の炎に剣は意味をなさない。瘴気に侵食された炎は、物理的な力では断ち切れない。
私は動かなかった。
動けなかったのではない。足が地に根を張ったように、その場に立ったまま炎を見上げていた。不思議と恐怖はなかった。ただ、胸の奥に微かな熱があった。何かが、目覚めようとしている。そんな感覚だった。
「ルナ、逃げろ!」
クラウス様が叫ぶ。だが私の名を呼んだその声に、心は動かなかった。
会場の外からも悲鳴が届く。瘴気は壁を越えて廊下まで広がり始めていた。侵食された者から順に、恐怖の幻覚を見て動けなくなっていく。訓練を積んだ騎士でさえ、膝をついている者がいた。
その時、背後から誰かが私の肩に手を置いた。
「フィオナ様」
低く、静かな声だった。
振り返ると、辺境伯家の嫡男、セドリック・ヴァルナの顔があった。国境の砦で瘴気と魔獣を日々退けている一族の長子。その瞳は炎を映しながらも、揺れていなかった。
「怖がらなくていい。俺がついている」
最初に言葉を交わしたのは、二年前の辺境視察の折だった。父に随行して砦を訪れた私に、セドリック様は挨拶もそこそこに、こう言った。
「加護が反応しないくらいで、あなたの価値は少しも変わらない」
初めてそう言われた時、私は言葉の意味が分からなかった。慰めにしては直接すぎる。社交辞令にしては、目が真剣すぎた。誰かにそんな風に言われたのは、生まれて初めてのことだったから、ただ戸惑うことしかできなかった。
以来、季節が変わるたびに手紙が届いた。討伐の報告でも、社交の挨拶でもない。いつも私自身を気遣う言葉だけが、几帳面な筆跡で綴られていた。婚約者がいる私に踏み込むことは一度もなかったが、その気遣いはいつも本物だった。返事を書くたびに、自分でも気づかないうちに言葉が増えた。
「あなたを一人にはしない」
その声が耳元で響いた瞬間、何かが胸の奥で動いた。
目覚めようとしていた熱が、大きくなる。身体の芯から、光が滲み出そうになる。まだ、足りない。まだ、何かが足りない。
黒紫の炎が、私たちへ向かって落ちてきた。




