85 山下さんの場合、続き
「梓、聞いてる?」
お母さんの声に気づいて、私はハッとした。
「あ、ごめん、何だっけ?」
「明日の夜ご飯、いつも通りお寿司の出前取るので大丈夫?」
「うん、大丈夫。楽しみ。」
明日は私の誕生日の2/14だ。日中に陽介君と映画館に行って、カフェでお茶をしてから、夕方には家に帰り、家族で夜ご飯を食べながら私の誕生日を祝ってもらう流れだった。
「夜にデートしなくて良かったの?せっかく付き合って最初の誕生日なのに、無理して早い時間に家に帰ってこなくても良かったんだよ?」
お母さんは、そう言って心配していたけど、
「お昼から会うし、カフェも行くし、しっかり一緒に過ごせるよ。私も一人暮らしするから、家族で誕生日過ごせるの今年で最後かもしれないし、お寿司食べるの定番だから、その過ごし方もしたかったし。」
誕生日をどう過ごすか決めた時に、気になっていたミステリー映画を見に行くことはすんなり決まり、陽介君にどの時間帯に会うか聞かれて、なんとなく、彼は夜に会いたそうな雰囲気を出していたけど、私はお昼から夕方を希望した。
この前、陽介君のお家に行き、陽介君の部屋で過ごした時のことが脳裏に浮かび、なんとなく夜に会うのが怖くなってしまったのだ。
あの時の、彼の苦しそうな表情が頭から離れない。
たぶん、私が目を伏せなかったら、あのまま、あれ以上のことをしていたのかもしれない。
陽介君のことは大好きだし、恋人同士ならいつか、そうなっていくことは分かっているけど、正直に言うと怖い。私がただ、意気地なしなのかもしれないけど、でも、自分の中にある貞操観念というものは意外と固いのだと思う。
もう、あと1ヶ月もしないで、彼はアメリカに行ってしまう。今までのように会えなくなるのは分かっている。でも、だからと言って、本当に求められるままに応えていいのかとも思う。
そんなことを頭の中でぐるぐると考えていると、オーブンからチンという音がした。
そうだ、お菓子作ってる途中だった。
私はオーブンを開けて、中のクッキーを取り出した。私の誕生日であり、バレンタインデーでもあるので、陽介君にクッキーを作ってあげるつもりだった。彼は甘いものよりもしょっぱいものが好きなので、トマトバジル味のクッキーを作っていて、キッチン中に香ばしい香りが漂っていた。クッキーは焦げることもなく、キレイに焼き上がっており、考え事をしてしまったけれど、失敗せず完成できて良かった。
出来上がったクッキーを大きな皿に並べて粗熱を取りながら、一枚取って味見した。
うん。美味しい。
「完成したの?味見したいなー。」
リビングで私がお菓子作りをしているのを見ていたお母さんに声をかけられたので、
「はい、どうぞ。たぶん上手くできたと思うんだけど、どうかな?」
お母さんにクッキーを渡して、食べてもらった。
「うん、美味しい。クッキーなのにしょっぱい。これなら甘いものが得意じゃなくても大丈夫そうだね。」
「良かった。ありがとう。」
お母さんは料理全般が得意で、お菓子作りもよくする人なので、お墨付きをもらえて嬉しかった。
「お母さんとお父さんの分もあるから、2人で食べてね。陽介君にあげる分を分けたら、残りはお皿に置いたままにしておくから、それ食べて。」
「ありがとう。夜、お酒と一緒に食べようかな?お父さんも喜ぶよ。」
私の両親は仲が良い。私の前ではお父さん、お母さん呼びだけど、2人の時は名前で呼び合っているようだ。お父さんが、花屋で働くお母さんに一目惚れして、猛アタックの末お付き合いができたという馴れ初めを2人からよく聞いていた。お父さんは初めて出会った時からずっとお母さんのことが大好きで、可愛い、キレイ、好き、結婚してくれてありがとうを、真顔で何の抵抗もなく言う人だ。お母さんはそれに慣れているので笑顔で対応している。小さい頃は夫婦とはそういうものなのだと思っていたけど、成長するにつれて、ここまで愛情表現をする夫婦はそう多くないことを知り、2人のそんなやりとりを見ている私の方が照れてしまうことが多い。
お母さんは常日頃から、自分のことを好きで堪らない人と結婚するのが1番だよと私に言っていた。お父さんからとても大切にされ、愛情表現を受けて、幸せそうに笑うお母さんを見ていると、きっとその通りなのだと思う。
陽介君も私のことをとても大切にしてくれて、たくさん愛情表現をしてくれるから、たぶん結婚相手に向いているのだろうと思う。
とここまで考えて、まだ付き合って日が浅く、キスより先のことをすることに抵抗感があるくせに、結婚のことを考えている自分に気づき、何とも言えない複雑な気持ちになった。
私はどうしたいんだろう。
ラッピングするにはまだ熱いクッキーが冷めるのを待ちながら、私は考え込んでいた。
翌日、私は自分の部屋で出かけるための身支度を整えていた。2月だというのにここ2週間以上暖かい日が続いていたけど、今日は真冬並みの寒さに逆戻りすると天気予報で聞いていたので、私は冬用の赤いワンピースを着ていた。ちょっとクリスマスカラーすぎる気もしたけど、デザイン自体は大人っぽくて気に入っている。メイクはほぼいつも通りだけど、ワンピースに合わせて、いつもよりすごし赤めのリップをつけた。これでメイクもちょっとだけ大人っぽくなった気がする。髪の毛はついに一つに結べるくらいの長さになったので、低い位置でくくって緩くお団子にしていた。かつて宝塚音楽学校入学を目指していた頃に、毎日お団子ヘアーにしていたので、久しぶりに緩くではあるけど、その髪型にできて、少し感慨深かった。ベージュのコートを羽織り、白いマフラーを合わせる。姿見で自分の全身を確認すると、悪くない気がした。そのタイミングでインターホンが鳴り、お母さんから声をかけられた。
「梓、陽介君来たよ。」
私は自分の部屋から一階に降りて、キッチンに置いていたラッピングを済ませたクッキーを持った。
忘れたら大変だ。
「いってきます。」
お母さんに声をかけてから、玄関から出た。今日は黒いコートにカーキ色のズボンを履いた陽介君が立っていた。
「お待たせしました。」
「いつも言ってる気がするけど、待ってないよ、全然。」
そう言って差し出された手を取り、歩き始めた。手を握るのは本当に抵抗感なくできるようになってきた。逆に握ってないと寂しいと思うので、慣れとはすごい。
「今日は寒いね。天気予報で言ってた通り。」
「俺、冬服しまいかけてたから、今朝頑張って出したよ。もう春だと思ってたんだけど。」
「私も。簡単に春にはならないね。」
そう話していると陽介君が私の全身を見回して、
「冬服も似合うね。今日も可愛い。」
そう言って笑った。
「ありがとう。いつも褒めてもらえるから嬉しい。頑張った甲斐がある。」
ふと頭の中に、自分のことを好きで堪らない人と結婚するのが1番だよというお母さんの声が聞こえた気がした。だから、気が早すぎる。まだ付き合って1ヶ月も経ってないんだってば。
「梓だったら、寝巻き姿でも絶対に可愛いんだけど、俺のためにこんなに頑張ってくれるその努力への愛おしさ込みで、とんでもなく可愛いです。うん。」
そう言われて、さすがに顔が熱くなる。陽介君は私に甘い気がする。
「...ありがとう。そんなに甘やかされ続けたら、可愛いって言われないと満足できない人間になっちゃいそう。」
私が笑いながら言うと、
「良いよそれで。俺がずっと甘やかし続けるから。何度も言うけど、梓が可愛いのは事実だから、事実には慣れているも慣れていないも関係ない。」
そう言い切られた。なんか、本当にすごい。付き合う前も、私に対して甘いと思っていたけど、付き合ってから、さらに甘くなっている気がする。恥ずかしがらずにここまで私のことを褒められるのってすごい。
「...なんか、陽介君、付き合う前と付き合ってからキャラが違う気がする。私に甘いことを言うのに余りにも慣れすぎている。前はちょっと恥ずかしそうだったのに。」
私がそう言うと、
「もうね、恥ずかしいとか、照れるとか感じないようにすることにした。一緒にいられる時間は限られてるんだから、変なところでブレーキかけてたらもったいない。心の中で可愛いって思った瞬間に声に出すって決めた。もうね、思ったらすぐ言う。」
彼の中のリミッターが外れたようだった。何がきっかけでそこまでになったんだろう。
「そもそも、梓のことは大好きなんだけど、やっぱり大介のこととか、母さんのこととかも大事にしてくれるところを見て、この人を絶対にものすごく大切にしようって思ったんだよ。俺はもう夢中ですよ。どうしてくれるの。」
そう言って私を見て笑った。余りにも優しい笑顔を向けられて、私はまた顔が一段と熱くなった。
「うん。赤くなってるのも可愛い。むしろ赤くなってるところを見ないと物足りなくなってきた。」
「...ちょっと、さすがに恥ずかしいよ。」
そう言って顔を伏せると、覗き込まれた。
「...なんでしょう?」
緊張しながら聞くと、
「なんかいつもと化粧違う気がする。大人っぽい。可愛いけどキレイな感じ。」
「あぁ、たぶんリップいつもと違うからかな?ワンピースが赤いから、合わせて赤めのリップつけてる。」
「うん、だからか。可愛い。」
「...可愛いを言うハードルが低すぎる気がする。」
私はそう言って笑ってしまった。




