76 林君の場合
家に帰ると自分の部屋に戻り、スマホを手にして、調べておいたURLを菜穂さんに送った。そして、深呼吸してから、電話をかけた。
「...もしもし?海斗からかけてくるなんて珍しいね。」
何コールかかけると、菜穂さんが出てくれた。俺は緊張しながら、口を開いた。
「こんばんは。菜穂さん。今日は大事なことを言うために電話しました。俺が送ったURL見てくれました?」
しばらく返事がなかったので、彼女は俺からのメッセージに載っていたURLを確認しているようだった。
「...何これ?...メンタルクリニック?」
「単刀直入に言います。今の菜穂さんの状態は、プロのカウンセリングが必要だと思います。俺みたいな素人が延々と話を聞いてるだけじゃ、きっと解決しないと思うんです。送ったURLにはオンラインでできるやつもあるので、それなら外出しなくても自分の部屋の中で受けられます。
菜穂さん、カウンセリング、受けてください。」
俺は菜穂さんのことが心配だった。
これ以上、俺1人で彼女に向き合うことは無理だけど、どうにか立ち直って欲しかった。
「...私のこと病気だって思うの?」
「...プロじゃないので、それは分かりません。でも、昼夜逆転してて、毎晩何時間も誰かに電話して話を聞いてもらわないとダメな状態が、普通だとは思わないです。」
甘い言葉を言うと、また丸め込まれてしまいそうで、突き放すような言い方になってしまった。
「...海斗は、もう私の話聞いてくれないの?」
「はい。聞けないです。...俺、夢があるんです。その夢を叶えるために、勉強したいんです。毎晩、菜穂さんの電話に付き合ってたら、とてもじゃないけど、勉強できないんです。」
そう言うと、菜穂さんはしばらく黙っていた。
「...私のこと好きじゃないの?高校卒業したら、一緒に暮らそうよ。」
そう言われた瞬間、彼女との今までの日々を思い出した。
苦しいことも多かったけど、彼女と一緒に過ごす時間は幸せだった。あの頃の彼女の眩しい笑顔が頭の中に浮かんだ。
「...俺、菜穂さんのこと、好きでした。大好きでした。菜穂さんのためなら、死んでもいいって、本気で思っていました。でも...それは昔の話です。今の俺にはもっと大事にしたいことができました。絶対に叶えたい夢があるし、その夢を応援してくれて、俺のことをいつも気にかけてくれる、大切な友達がいるんです。俺はそっちを優先します。もう、菜穂さんとは一緒にいられません。」
はっきりとそう伝えると、菜穂さんはしばらく何も言わなかったけど、
「見捨てられちゃうんだね。海斗にも。寂しいな。...一人ぼっちになっちゃう。」
そう言われて、良心が痛んだ。
俺がいなくなったら彼女はどうなるんだろう。
でも俺は決めたんだ。
大事なことを、もう間違えない。
「菜穂さん。寂しいって言う相手、間違えてると思います。菜穂さんがずっと寂しいのは、昔から、ご両親に放っておかれたからですよね。2人に、自分がずっと寂しく感じていたこと、話したことありますか?言ったこと、ないんじゃないですか?」
菜穂さんは何も答えたなかった。
おそらく図星なのだろう。
「ちゃんと、ご両親と向き合った方が良いと思います。向き合えば、少なくとも気持ちの整理はつくんじゃないですか?
それに、もう、菜穂さんは大人で、看護師免許だって持ってて、カウンセリングで気持ちの整理は必要だと思いますけど、いつかは自分の力で立ち上がることができると思います。
お願いだから、頑張ってください。自分を可哀想だって憐れんだって、今のままじゃ、何も変わらないです。昔のことを嘆くんじゃなくて、これからどうしたらいいか考えてほしいんです。...前を向いてください。」
もう彼女のそばにはいられないけど、あれだけ大好きだった人だから、幸せになってほしかった。
しばらく菜穂さんは無言だったけど、電話は切られずにいたので、そのまま繋げていた。
「...海斗からこんな風に言われる日が来るなんてね。大人になったね。」
その声色は、かつての菜穂さんを思い出させた。彼女の中でも、気持ちが落ち着いてきたのかもしれない。
「菜穂さん。今までありがとうございました。俺、未練がましくなりたくないんで、菜穂さんの連絡先は消します。菜穂さんも俺の連絡先、消していいんで。」
あそこまで好きだった人だから、下手に連絡先を残すと、またすぐに思い出しそうで怖かった。
「海斗から、振られちゃう日が来るなんて、寂しいなー。でも、仕方ないね。うん。今までありがとう。」
俺の長すぎる片思いが、終わるのだと思った。
「ねぇ、最後に聞いてもいい?」
「なんですか?」
「さっき話してた、海斗のことをいつも気にかけてくれる大切な友達のこと...好きなの?」
「...内緒です。」
「...ふふ、海斗が私に隠し事をする日が来るとはねー。うん。分かった。ありがとうね。それじゃあ...さようなら。」
「はい...さようなら。ありがとうございました。」
彼女からの電話を切った後、連絡先を削除した。
気づいたら俺は涙を流していた。
きっと今までの気持ちを整理するため泣いているんだと思った。
人には理解されないかもしれないけど、俺にとっては大事な恋だったんだ。
涙が止まるまで、俺は椅子に座ったままでいた。
もう涙は出てこなかったので、心の整理がついたようだった。
でも俺にはもう一つ、ケリをつけなければいけないことがあった。
1階に降りてリビングに向かうと、お母さんがソファーに座ってテレビを見ていた。俺はお母さんの隣に座った。
「海斗、足、大丈夫?お母さんから捻挫したって聞いたけど。」
「軽い捻挫だから、安静にすれば充分だって。もうそんなに痛くない。」
「そっかー。なら良かった。」
お母さんと話しながら、心臓の音が大きくなっていて、緊張しているのだと分かった。
俺は、また深呼吸をしてから口を開いた。
「お母さん。俺、大学生になっても、お母さんとは一緒に暮らさない。」
そう言うと、お母さんはゆっくりと俺のことを見た。
「...どうして?」
「俺、お母さんのこと、恨んでるから。許せない気持ちがずっとある。俺のことを置いて、出て行ったこと。」
俺がそう言うと、お母さんは神妙な顔つきをしていた。
「...もう、謝っても無理?今から、ちゃんと向き合うのじゃ、だめかな?前は一緒にいたいって言ってくれてたじゃん。」
「...もう遅いよ。俺がお母さんと一緒にいたかったのはあの頃だから。今じゃない。」
俺が言い切ると、お母さんは目を伏せた。
「もし、一緒に住んだら、俺はお母さんにきっとたくさん怒っちゃうし、いつもイライラすると思う。あの時一緒にいてくれなかったくせにって常に思ってるから。だから、今みたいに2-3年位に一度会うくらいの距離感がちょうど良くなっちゃったんだよね。
昔、お母さんに置いて行かれて、愛情をもらえなかったのに、今から俺がお母さんに愛情を持って接するのは難しいよ。もらってないものは返せないから。」
お母さんは何も言わず、俺の話を聞いていた。
「俺を育ててくれたのはおばあちゃんで、俺を支えてくれたのは、近くにいた人たちと友達だから。でも...産んでくれたことには感謝してるし、お母さんのこと嫌いにはなりきれない。
せめて、この状態でいたいから、これからも、今ぐらいの距離感でいてほしい。」
何度考えても、お母さんが俺を大切にしてくれていたとは思えなかった。
今さら擦り寄られても、困る。これが偽らざる俺の本心だった。
「...やっぱり都合が良すぎたか。分かった。ごめんね。...歳をとって、今までみたいに一緒にいる人もすぐには見つからなくて、寂しくて、つい血の繋がりに縋っちゃった。ごめん。」
あまりにも正直すぎる物言いに、少し笑ってしまった。
俺のお母さんはこういう人なのだ。
「...年齢のせいにしないで、今までみたいに愛に生きなよ。もし、お母さんが死んでも、ちゃんと喪主はやるから。」
俺がそう言うと、
「…じゃあ、ある日コロッと死ねるようにするわ。迷惑かけすぎないようにね。」
お母さんは軽く笑って話していた。
「矢崎、一緒に勉強しよう。」
放課後、彼女に声をかけると、まだ不安そうに俺のことを見ていた。
「...体調大丈夫?足は?」
「昨日はばっちり、9時間寝られたから、スッキリしてるよ。捻挫も、少し違和感あるだけで、松葉杖なしで、歩けるから。
…これからはまた気合を入れて、仕切り直して勉強したいからさ。一緒にやってくれると助かる。」
そこまで言うと矢崎は、少し安心したように笑顔を見せてくれた。
図書館までの道を並んで歩き始めてから、
「菜穂さんとは、もう会わないことにしたよ。」
そう伝えると、矢崎は明らかに動揺していた。
「...ごめん、私があんなこと言ったから...林の好きな人なのに...」
自分のせいで、俺が彼女から離れたと思ったのだろう、彼女は申し訳なさそうに頭を下げていた。
「...大丈夫、頭上げて。確かに、前はすごい好きだった。でも、今はもう、好きっていうより、あそこまで好きだった人に対する情とか執着だった気がする。実際、俺は向こうにとって、結局は都合のいい存在でしかなくて、大切にはされてなかったから。...もし、次に好きな人ができるなら、もっと、俺のことを大切にしてくれる人がいいなって思ってる。
矢崎は責任感じないでね。あくまで、俺が決めたことだから。責任感じるのは、逆に、俺に失礼だから。」
そこまで言って俺が笑顔を見せると、ようやく矢崎の心からホッとした表情を見ることができた。
「そうだね。...今度好きになる人は、ちゃんと両思いで、林のことを大好きで、林がいつも幸せーって思える人にしなよね。」
「そうだね...頑張るよ。まぁ、まずは受験勉強だね。絶対合格する。」
「うん。応援してる。私も、勉強頑張る。」
2人で向かい合って図書館で勉強し始めた。俺は真剣な表情で勉強する矢崎を見つめた。
ごめんね、矢崎。俺、嘘ついた。
俺が今、好きな人と両想いになることはないんだ。
その人は恋愛ができない人だから。
でも、それでいい。
あの時の朝陽さんの「後悔しない?」と言う質問に、今なら胸を張って答えられる。
後悔しません。
俺が行動を起こして、少しでも彼女を傷つけたり、悩ませてしまう可能性があるなら、このまま、1番近くで彼女と一緒にいられる今を大切にしたいです。
俺の気持ちは絶対に誰にも言わない。もし、彼女の耳に入ったら、困るから。
でも、せめて、心の中でだけは言うことを許してほしい。
好きだよ、矢崎。大好き。




