75 林君の場合
お母さんからの突然の同居の提案に、俺は動揺を隠せなかった。
「...急にどうしたの?」
そう質問するのがやっとだった。
「うーん。いい加減、自分の息子と向き合いたいなって思って。今までずっと一緒にいられなくてごめんね。来年の春からは一緒に住もう。今まで離れてた分、たくさん楽しい時間過ごそうよ。今日はもうこんな時間だから、また明日改めて話そうね。じゃあ、おやすみなさい。」
一通り話したら気が済んだのか、お母さんは洗面所に向かった。俺はしばらくそのままぼーっとしていたけど、喉が渇いたから、キッチンに降りて来たこと思い出して、冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注いだ。
お母さんと一緒に住む。
きっと昔だったら、大喜びしてたんだろうな。
でも今は...正直、戸惑いが大きい。
麦茶を飲みながら、そのまま考え込んでしまい、結局その日は一睡もせずに、学校に向かった。
その日の授業は、うとうとしていて、全く集中できなかった。菜穂さんのこと、お母さんのことで頭がいっぱいだった。受験の大切な時期にこのまままだといけないことは分かっていたけど、俺はまだウジウジと迷っていた。
放課後、矢崎に声をかけられた。
「林、大丈夫?いつもよりもさらに眠そう。」
彼女は心配そうに、俺のことを見ていた。
「...昨日ほとんど寝てなくてさ。心配かけてごめん。ちょっと今日は寝たいから、家に帰るね。」
おそらく矢崎は、いつものように一緒に勉強しようと誘いに来たのだろうと思ったので、俺はそう答えた。矢崎は何か言いたそうだったけど、それを飲み込んで、
「...分かった。ゆっくり休んでね。」
そう言って、自分の席に戻って行った。
俺は荷物をまとめて、廊下に出た。さすがに徹夜だったので、フラフラなのが自分でも分かった。早く帰ろう。少しでも寝ないときっと身体がもたない。それに、今日もまた菜穂さんから電話が来るだろうし、お母さんからも同居の話を詳しく決めようと言われるかもしれない。
憂鬱で、気がついたら、ため息をついていた。
そのまま階段を降りていると、急に立ちくらみがして、足を踏み外してしまった。俺は、6段ほど上から、踊り場に落ちて、その場に倒れ込んだ。これは足を捻挫したかもしれない。痛みでそのまま動けずにいると、
「林!」
後ろから矢崎の声が聞こえて、彼女が俺のそばまで駆け寄って来た。
「大丈夫?すごい音したから。どこか痛くない?」
矢崎は俺を抱きかかえて、起こしてくれた。その手には俺の筆箱が握られていた。きっと忘れ物を届けようとして、俺の後を追っていたんだろう。
彼女はとても心配そうに俺のことを見つめていた。
「...心配かけてごめん。ありがとう。...ちょっと足捻ったかも。」
俺がそう言って右足首を触ると、
「...林、保健室行こう。すぐ冷やさないと。肩貸すから、歩ける?少しだけ。」
彼女はそう言って、俺の右腕を自分の首から肩にかけて回した。
「...たぶん、これなら歩けると思う。ありがとう。」
そうお礼を言って、2人で保健室に向かった。保健室に先生はいなかったので、矢崎はベッドの脇に俺を座らせると、大急ぎでタオルに包んだ保冷剤を持って来た。ズボンの裾を捲ると、俺の右足首は、少し腫れていた。それを見た矢崎が、一瞬泣きそうな顔をしたのが分かった。
「矢崎、ありがとう。心配かけてごめんね。やっぱり寝ないとダメだね。立ちくらみしちゃった。」
俺はそう言って保冷剤を受け取って、自分の右足首に当てた。少しだけ、痛みが和らいだ気がした。
矢崎は俺の隣に座り、そのまま俯いて黙っていたけど、しばらくして顔を上げて俺のことを見た。
彼女の両目から大粒の涙が流れていた。
「...矢崎、どうしたの?なんで泣いてるの?」
俺が声をかけると、矢崎は深呼吸をして話し始めた。
「林、ごめん。今から私は、きっと、すごいウザいことを言う。余計なことを言う。...でも、もう、ただ見ているだけなのが、耐えきれないから。これは私のエゴだってことは自分で分かってるから。
...菜穂さんは、林のこと大切にしてくれてるの?毎日電話が来るって言ってたけど、林ずっと眠そうだし、疲れてる。勉強もできてないでしょ?模試の成績も下がったって言ってたし。
今、受験生で、林の夢を叶えるために、1番大事な時期なのに、そんな時に、林のこと、振り回してない?菜穂さんは、林の夢を応援してくれてるの?
好きな相手の夢なら、応援してあげたいと思うんじゃないの?
...林が、彼女のこと、すごい好きで忘れられない人なのは分かってる。
...でも、今の林、すごく辛そう。苦しそう。幸せじゃなさそう。
そんな林を見てるのが、私は辛いよ。
人の恋愛沙汰に口を出すのが間違ってるのは分かってる。本人たちにしか分からないことがあるんだから。...友情より、恋愛の方が優先順位が高いのは分かってる。でも、それでも、私は...林には笑っていてほしいよ。幸せでいてほしいよ。苦しそうな恋愛はしてほしくないって思っちゃうよ。
...わがままでごめん。無責任でごめん。
でも、林が、自分の夢を犠牲にしそうで、怖い。...こんなこと言って、困らせちゃうよね。ごめんね。...でも、林は私にとって、誰よりも大切な友達だから、言わずにはいられなかった。ごめんね。」
矢崎は泣きながら、話していた。
俺は申し訳なさで、泣きそうになった。胸が張り裂けそうだった。
俺のせいで矢崎を泣かせてしまった。
「...矢崎、心配かけてごめん。本当にごめん。」
「ううん。私の方こそごめん。でしゃばってごめん。お節介でごめん。私にこんなこと言う資格ないのは分かってる。でも...」
矢崎はしゃくりあげるように泣いていた。俺は彼女に泣き止んで欲しかった。どうすれば良いか色々考えたけど、結局これしか思いつかなかった。
「矢崎、嫌だったら断ってね。抱きしめて、背中さすってもいい?」
俺がそう聞くと、矢崎は小さく頷いた。俺はゆっくりと矢崎を抱きしめた。彼女は見た目よりも華奢で、強く抱きしめると潰れてしまいそうだった。その肩が小さく震えているのが分かった。俺は矢崎の背中をさすりながら、話し始めた。
「矢崎、心配かけてごめんね。俺が、情けないから、泣かせちゃってごめん。俺のこと、ここまで考えてくれてありがとう。すごい嬉しい。...きっと誰よりも、矢崎が俺のことを考えてくれてるし、俺の夢を応援してくれてる。感謝してる。
...俺、ちゃんとするから。自分の夢、諦めたりしないから。だから、安心して。」
ずっと迷ってたけど、もう終わりにする。
心は決まった。
大事なことの優先順位を間違えない。
俺のことを大切に思ってくれている人を大切にしたい。
守るべき人を守ろう。
もう、絶対に泣かせない。
しばらく矢崎は泣いていたけど、少しすると落ち着いたようで、しゃくりあげる様子はなくなった。
抱きしめていた腕を緩めて、矢崎のことを見ると、彼女は様子を窺うように、俺のことを見ていた。
「...林、ごめん。急に泣いちゃって。びっくさせたよね。本当、子供みたいで、恥ずかしい。」
「ううん。俺のせいだから、本当にごめんね。矢崎はもう謝らなくて良いから。...おかげで決心がつきました。ちゃんと、ケリをつけてくる。...明日は一緒に勉強しよう。」
俺がそう言って笑顔を見せると、矢崎は不安そうだけど、少しだけ笑顔になってくれた。
おばあちゃんに連絡して迎えに来てもらい、病院を受診すると、軽い捻挫だと診断された。松葉杖を使うほどではないけど、無理をせず過ごすように言われた。
「急に連絡来たからびっくりしたよ。美希も心配してた。お店の片付けお願いしてる。まだ痛いよね?無理しないでゆっくり休んでね。」
「心配かけてごめん。挫いてすぐは結構痛かったけど、今は違和感があるくらいで、そこまで痛くはないから。とりあえず早く治すようになるべく安静にするね。」
おばあちゃんが運転する車に揺られながら、もう絶対に間違えないと心に誓っていた。




