74 林君の場合
もうすぐ駅に到着するので、矢崎の肩を軽く叩いて、声を掛けた。
「矢崎、もう着くよ。起きて。」
「んーー。」
彼女は両目を硬く瞑り、唸った後に、眩しそうに目を開け、伸びをしていた。
「…おはよう。もう着いたんだ。私どれくらい寝てた?」
「30分くらいかな?よく寝てたよ。」
「ものすごい熟睡できた気がする。ありがとうね。林の肩、枕みたいだった。枕の才能あるよ。」
「なんだよ、枕の才能って。」
くだらないことを言い合いながら、列車から降り、矢崎を家に送るために歩き始めた。
「あー、本当に楽しかった。行けて良かった。とても良い夏の思い出になりました。ありがとうね。」
「どういたしまして。こちらこそありがとう。」
矢崎と話していると、ポケットに入れていたスマホが鳴った。しばらく鳴り続けているので電話だと気づき、液晶画面を確認すると、
”菜穂さん”
と表示されていた。まさか電話が来るなんて。
立ち止まってスマホを見つめている俺が気になったのか、矢崎は、液晶画面をのぞき込んだ。
「…前に林が話していた人?」
「…うん。」
以前なら、彼女から連絡が来た嬉しさで、すぐに電話に出ただろう。
でも今は、喜びよりも戸惑いが多かった。
どうして?
俺の様子をしばらく見ていた矢崎は、
「…もう、家近いし、ここからは、一人で帰れるから大丈夫だよ。…好きな人からの電話は出なきゃ。」
そう言って、ぎこちない笑顔を見せた。
「…じゃあ、私帰るね。明後日、学校で。」
矢崎はそのまま足早に家の方に向かって歩き始めた。
「…うん。また。」
俺はそう言ってから、自分のスマホを見つめた。まだ着信は続いている。俺は深呼吸をしてから電話に出た。
「…もしもし。」
「よかった。出てくれた。もう無理かと思っちゃった。嬉しい。海斗だ。」
菜穂さんの声だった。でも、いつもより弱々しい感じがした。
「…どうしたんですか?急に。今、東京にいるんじゃないんですか?」
「色々あって、実家にいるんだ。…突然だけど、今から会えない?例のファミレスで。」
電話の後、俺はいつものファミレスに向かった。テーブル席に菜穂さんが座っていて、明らかに前よりも痩せているように見えた。
「久しぶり、海斗。元気?」
話している様子もどことなく元気がなかった。
「お久しぶりです。俺は元気ですよ。…菜穂さんはどうしたんですか?」
「…実家に連れ戻されちゃった。」
菜穂さんはこれまでの経緯を話してくれた。
看護学校を卒業して入職した病院の医師とすぐに不倫関係になったらしい。禁断の恋が燃え上がった結果、奥さんの知るところとなり、大変な修羅場が繰り広げられた。怒りの収まらない奥さんが、職場にも不倫の事実を伝え、菜穂さんは入職してわずか4ヶ月半で退職することになったらしい。
「奥さんがものすごい怒っててさ、言い返して、手も出しちゃった私も悪かったんだけど、慰謝料も相場より高く請求されちゃって。私の実家にも連絡を入れられちゃったのね。もう、両親がカンカンに怒って。慰謝料は両親が払ってくれたけど、もう1人にはさせられないって言われて、1週間前から実家に幽閉されてる。働かなくて良いから、二度と問題を起こすなって言われててさ。」
菜穂さんは自嘲気味に笑いながら話していた。
「よっぽどの用事が無い限り、家から出るなって言われてたけど、引きこもってるのが、どうしても我慢できなくて、今日は窓から出てきちゃった。そろそろ、私がいないことがばれてるかもなー。」
菜穂さんがそう言ったタイミングで、彼女のスマホが鳴った。
「…やっぱり、もうばれちゃったか。呼んですぐで申し訳ないけど、私、戻らなきゃ。」
彼女はそう言って伝票を持って立ち上がった。
「...海斗、また連絡して良い?直接会えないかもしれないけど、電話だけでも。私、今、寂しくて死にそうなんだ。」
そう話す彼女の表情は、生気が無くて、少し怖かった。
「…分かりました。大丈夫です。」
彼女の様子が心配で、そう答えると。菜穂さんは嬉しそうに笑った。
「やっぱり。海斗は信用できるね。ありがとう。じゃあまた。」
そう言って立ち去る彼女の後ろ姿を見ながら、俺はしばらく考え込んでしまった。
始業式が終わった後、矢崎に声をかけた。
「矢崎、この前は家まで送れなくてごめん。」
俺のことを見た矢崎は少し緊張している様子だった。
「全然大丈夫だよ、すぐ家に着いたし、何も問題なかったから。...久しぶりに話できたの?えーっと...菜穂さんと。」
菜穂さんの名前を矢崎に教えてはいなかったので、液晶画面に出ていた彼女の名前を覚えていたようだった。
「うん、あのあと、少しだけね。」
そう答えると、矢崎はそのまま黙って、少し考えてるようだったけど、しばらくしてから口を開いた。
「...あれだよね。今までみたいに、2人で勉強するのとかは、ちょっと良くない感じだよね?...菜穂さん嫌がるよね。」
そうか、俺が菜穂さんと付き合うかもしれないと思っているのか。
「いや、菜穂さんと付き合ってるわけじゃないから...また、一緒に勉強できるとありがたい。その方が捗るし。」
俺がそう言うと、矢崎は少しほっとしたような表情をした。
「そっか...。分かった。でも、もし、彼女が嫌がったら、やめていいからね。」
そう言ってぎこちなく笑っていた。
俺としては、矢崎と一緒にこれからも勉強していたかったけど、次第にそうはいかない状況になっていた。
菜穂さんから毎日深夜に電話がかかってくるようになったのだ。
話を聞くと、無断でファミレスに出かけた日から、より一層監視の目は強くなり、正当な理由がない限り、外出の許可をもらえなくなったらしい。
異性に会うのはもってのほかと言われているようだった。
菜穂さんは夜眠れなくなり、昼夜逆転していると話していた。
「皆が私のこと大事にしてくれなかったから、私がこんなに寂しがり屋になっちゃったんだよ。」
「お父さんもお母さんも散々不倫して愛人もいるのに。なんで私ばっかり責められなきゃいけないの?」
「あの人、奥さんより私の方が好きだって言ってたのに。結局奥さんを選んだの。悲しかった。」
「奥さんに"あんたみたいなクソ女、誰からも選ばれないんだよ"って言われて、思わず殴りかかっちゃった。」
「なんで、私だけが仕事を辞めさせられなきゃいけないの?向こうから誘ってきたのに。」
「今まで、散々一緒に遊んできた人たちと全然連絡取れなくなっちゃったんだ。皆に避けられてるの。不倫するような厄介な女だって思われて。私にはもう海斗しかいないんだよ。」
毎日、同じような話を聞かされる電話を2-3時間受けていたせいで、俺は寝不足だった。その結果、勉強にかけられる時間は減り、夏休みが明けてから1ヶ月後に行われた模試では一気に成績が下がった。
放課後、矢崎と一緒に勉強しようとしても、眠くて集中できず、一足先に帰ることが増えた。
彼女はそんな俺の様子を心配そうに見ていた。
「...ねぇ。林、眠れてる?毎日眠そうだし、疲れてるし...。」
その日は2人でいつものファストフード店で勉強をしていたけど、あくびばかりして、集中できていない様子を俺を見かねて、矢崎が声をかけてきた。
「...うん。実は、毎日、菜穂さんから夜中に電話がかかってきて、無視することもできなくて、毎回対応してるんだけど...。そのせいで寝不足なんだよね。」
俺は苦笑いしながら話した。
正直、毎日の電話は今の自分にとっては苦痛だった。でも、精神的に追い詰められている様子の菜穂さんを放っておくこともできなかった。
今、彼女のことを好きかと聞かれると、即答できないけど、かつては、この人のためなら死んでもいいと思ったほど、好きだったという記憶が、まだ俺の中に鮮明に残っていた。
「...菜穂さんは、海斗が受験生なこと知ってるんだよね?」
矢崎が言葉を選びながら質問しているのが分かった。きっと、大事な時期に、自分の都合で俺を振り回す菜穂さんに対して、思うところがあるのだろう。
「...うん。でも、ほら、自由な人だからさ。」
俺がそう言うと、矢崎はまだ何か言いたそうだったけど、それを飲み込んでいるのが分かった。
「そっか...。なんか、お節介なこと言ってごめん。」
そう言って悲しそうに笑った。
結局、勉強は全く捗らず、1時間ほどで家に帰った。
その日の夜も、菜穂さんから電話がかかってきた。いつもと同じ、不満や愚痴をひたすら聞いていたら、2時間が経っていた。
「...ねぇ、海斗。高校卒業したら一緒に暮らそうよ。どこか知らない街に行って。」
俺だけが頼りだとは何度も言われていたけど、そんな提案をされたのは初めてだった。
「...どうやって暮らすんですか?」
「私、看護師だよ。きっと働き口あるよ。海斗も若いし、どこでも働けるよ、たぶん。ねぇ、私もう、ここにはいたくないんだ。私をここから連れ出してよ。」
なんていう、現実味のない提案だろう。
それに、俺の気持ちを何も考えていない。
俺には、建築士になるという夢があるのに。
彼女から、俺が将来何をしたいかと聞かれたこともない。
彼女は、俺自身には興味がないんだ。
俺を都合の良い依存先としか見てないんだ。
あんなに恋焦がれていた人に、がっかりした気持ちを抱いてしまうのが悲しかった。
それに、そう思っているのに、突き放すこともできない自分が情けなかった。
結局その日、電話が終わったのは3時過ぎだった。今日も寝不足だな。そう思いながら、喉が渇いたので2階の自分の部屋から1階のキッチンに向かうと、1階の電気がついていることに気付いた。おばあちゃんが起きているのかと思ってキッチンを覗くと、そこにはお母さんがいた。3年ぶりの再会だった。
「わ!びっくりした。久しぶり、海斗。こんな時間に起きてたの?勉強?」
いつものように笑顔でお母さんが話しかけてきた。
「...久しぶり。まぁ、そんな感じ。帰ってきてたんだね。」
ずっと若々しかったお母さんだけど、久しぶりに会うと、年齢相応に見えた。髪の毛は白髪が混じり、顔には皺が増えていた。
それでも、人懐っこい笑顔と、左頬にできるえくぼは変わらなかった。
「うん、今回はね、海斗に話があって来たんだ。」
お母さんから話があると言われたのは、覚えている限り、初めてだった。
「海斗、大学行くんでしょ?どこの大学志望してるの?」
「東京の大学。建築学科。」
「そっか、東京ね。...大学に合格したら、お母さんと一緒に住まない?」
思ってもみない誘いに、俺は驚いたまま、立ちすくんでしまった。




