60
1mほどあるテディベアを持ち上げると、そこまで重くはなかったけれど、視野が塞がれて歩きづらかった。おばあちゃんのために買ったエプロンは菜穂さんに持ってもらい、2人で話しながら、彼女の家まで向かった。
「ここ、右に曲がるから、こっち。」
菜穂さんはそう言って、俺の袖口を掴み、軽く引っ張った。一瞬彼女の手が触れて、ドキッとした。
「はい!わたしの家はここです。エレベーター乗ればあと少しだから、頑張って。」
彼女の家は築数年も経っていないであろうキレイなマンションだった。エレベーターに乗り、6階で降りると、彼女はエレベーターから1番近い部屋の前に立ち止まり、鍵を開けた。
「ありがとう!すごい助かった。もう玄関のところに置いちゃって大丈夫だから。」
彼女に言われた通りに、テディベアを置いた。
「役に立ったならよかったです。マンションすごいキレイですね。」
「そうだねー。去年完成したタイミングですぐ入居したから。あ、運んでくれたお礼にお茶出すよ。入って。」
急に誘われて、一気に緊張してしまった。
「いや、たいしたことしてないし、ご家族にも迷惑かもしれないですし。」
俺がそう言って遠慮しようとすると、
「私、一人暮らしだから。そこは気にしないで。急にお願いして、運んでもらったのに、何もお礼しないのは良くないから。入って。」
ファミリータイプのマンションにしては小さめだと思っていたけど、まだ高校生で一人暮らしをしていることに驚いた。彼女の家庭も、何か抱えているのだろうか。
「じゃあ、お言葉に甘えて。お邪魔します。ぬいぐるみ、部屋の中まで運んじゃいますね。」
ぬいぐるみを持って、そのまま部屋に入った。
間取りは1Kで、キッチンには調理器具や調味料が並べられており、生活感を感じた。リビング兼寝室は、物が多くて、彼女が気に入ったものが並べられているのだろうけど、統一性があまりなくて、少し面白かった。自然とローテーブルの横に配置されているベッドに目がいった。ここで寝てるのか。そんなことを考えてしまい、また緊張してしまった。
「そこの座椅子に座らせてあげて、この子のために場所用意してたから。」
菜穂さんの指示通りに、ぬいぐるみを座椅子の上に置いた。
「こんな感じで大丈夫ですか?」
「うん。予想通り、良い感じ。ありがとう。海斗、そこの座布団、座って良いから。」
菜穂さんは満足そうな笑顔を見せていた。
「えーっと、コーヒーと紅茶と緑茶あるけど、どれがいい?」
「じゃあ、紅茶で。」
菜穂さんは慣れた手つきでケトルに水を入れ、お湯を沸かし始めた。手持ち無沙汰で、彼女の部屋をひと通り見回した。ふと、タンスの上を見ると、菜穂さんのスウェットと並んで、明らかに男物とわかるスウェットが置かれていた。
亮二さんのだろうか。それとも今の彼氏の私物か。そのスウェットから目が離せないままでいると、
「お待たせー。紅茶ですー。貰い物だけど、美味しかったから、どうぞ。」
菜穂さんが、紅茶入りのマグカップを2個運んできた。そのまま俺の座布団の隣に座ると、紅茶を飲み始めた。
「あーあったまる。海斗も飲みなよ。」
「...ありがとうございます。いただきます。」
スウェットのことが頭から離れなかったけど、そのまま紅茶を飲み始めた。菜穂さんの言う通り、美味しかった。
「本当だ。美味しいです。」
「でしょー!私カフェでバイトしてるんだけど、そこで紅茶に詳しい先輩がいて、おすすめだからってもらったんだよねー。今まで紅茶の味の違いとかよくわからなかったけど、これが美味しいのは分かった。」
菜穂さんと一緒に飲めているこの状況も、美味しさを感じている要因だと思ったけど、俺も笑顔で同意した。
「バイト忙しいですか?」
「うーん、そこそこかな?あのぬいぐるみを買いたくて、この2ヶ月は頑張って働いたけど。一人暮らしだから、好き放題シフトも入れられるし。」
なぜ、菜穂さんは一人暮らしなんだろう。気になったけれども、いきなり聞くのも失礼な気がして、しばらく黙っていると。
「海斗、どうかした?黙っちゃって。」
そう言うと、菜穂さんは俺の顔を覗き込んできた。距離が近くて、またドキッとしてしまった。
「一人暮らしってすごいですね。家事も自分でやなきゃいけないし、大変じゃないですか?俺、おばあちゃんと二人暮らしですけど、結構、甘えて色々やってもらっちゃってるので。」
一人暮らしをしている理由を聞く勇気はなくて、俺は誤魔化しながら話した。
「うーん。でも、一人暮らしは、私がどうしてもしたくて、お願いしてやってることだからね。確かに家事とか面倒だけど、一人だから適当なもんだよ。」
まさか自分で希望して一人暮らしになったとは思わず、俺は驚いた。俺の表情に気づいたのか、菜穂さんは笑顔で話し始めた。
「うーん。海斗がおばあちゃんと二人暮らしな理由も聞きたいし、私も自分の話をするね。
私の家、お父さんも、お母さんもそこそこ大きな会社の創業者の長男と長女なのね。で、会社の都合もあって、政略結婚をしたわけ。だから二人の間には愛情はなくて、お互いの利害の一致のためにいる感じで、もちろん普通に愛人もいた。で、私が生まれたんだけど、やっぱり女じゃ跡取りにならないしってことで、私が生まれた時は、親 親戚一同、次は男の子をって話をしてたらしい。生まれたばかりの可愛い赤ちゃんの私を前にしてね。
それで、両親は愛が無いながらも義務感で頑張って、弟が生まれたの。
別に、虐待されてたわけじゃ無いし、大きくてキレイな家に住んで、欲しいって言ったものは大体買ってもらえたし、悪い環境ではなかったかもしれないけど、小さいながらに、皆、私には興味がないんだなーって思ってた。弟のことばっかり大事にしてたからね。」
やっぱり、菜穂さんの家にも問題があったんだ。なんとなく感じていた彼女への親近感が確信に変わった。きっと、彼女も俺と同じように寂しさを感じていたんだ。
「そうなるとね、寂しくてたまらなくなっちゃうから、家にあんまり帰らなくなるの。夜もフラフラしちゃって。でも、お父さんもお母さんも世間体をとても気にする人だから、私が問題を起こすと困るわけ。どうすれば大人しく家にいるんだって言われて、
「お互いに愛人がいるような両親が暮らす家に帰りたいわけないじゃん、気持ち悪い。」
って言ったら黙り込んでた。痛いところつかれたんだろうね。これはチャンスだって思って、高校生になったら一人暮らしさせてほしいってお願いしたの。そしたら、週に一回お母さんか、実家で働いてるお手伝いさんが家まで様子を見に来ることを条件にして、ここを借りてくれたの。」
そこまで話すと、菜穂さんは俺の顔を見た。
「まぁ、うちお金持ちだから、ここの家賃と私の生活費を出すくらいだったら、問題起こされて、会社の名前に傷がつくよりもマシだと思ってるんだろうね。おかげさまで、自由に生活できてる。こんな風に海斗を家に入れることもできるし。」
そう言うと、いつものようにニコッと笑った。お手伝いさんがいるような大きな家で、寂しくひとりぼっちでいる菜穂さんを想像して、俺は胸が痛んだ。
「まぁ、私の話はそんな感じ。次は海斗の話聞かせてよ。」
菜穂さんに言われて、俺は自分の話を始めた。
俺が生まれる前にお父さんはどこかに行ってしまって、会ったことがないこと。
小学校に入る前に、お母さんが家を出て行って、それからはおばあちゃんと二人暮らしであること。
周囲の人に優しくしてもらうために、笑顔でいることが癖になってしまったこと。
数年に一度戻ってくるお母さんに複雑な感情を抱きながらも、会うと、ずっとそばにいたいと思ってしまうこと。
「最後に会った時に、お母さんに、このまま一緒にいてほしいって伝えたんですけど...断られて、そのまま出て行っちゃいました。」
今まで、誰にも話したことがなかったことを、初めて菜穂さんに話すことができて、少しスッキリしていた。
「菜穂さんは覚えているか分からないですけど、初めて会った時に、俺のこと「笑って、誤魔化してる」って言ってて、あまりにも図星だったから、びっくりしました。」
俺がそこまで話すと、菜穂さんは俺の頭に手を置いた。
「海斗、偉いね。今まで笑顔で頑張ってきて。それに、お母さんに直接気持ちを伝えられたのも、すごいよ。」
俺の頭を撫でて、菜穂さんが優しく笑いながら言ってきて、少し泣きそうになってしまった。
「...ありがとうございます。」
しばらく、頭を撫でられていたけど、さすがに少し恥ずかしくなってきたタイミングで、菜穂さんは手を離した。彼女は買ったばかりのテディベアのそばに寄っていくと、そのまま抱きしめていた。
「...どうしても寂しくなった時に、抱きしめる相手が欲しくて、買ったんだ。親のお金で買うと、二人の顔がチラつくから、自分の力で稼いだお金で買いたくて。...予想通り、抱き心地良いな。」
そこまで言い終わると、テディベアから離れて、俺の方に顔を向けた。
「特別に、海斗がこの子に抱きつくことを許可してあげましょう。こっちおいで。」
俺としては、寂しさから何かを抱きしめるという発想をしたことがなかったので、少し戸惑ったけれど、菜穂さんに言われるままに、テディベアのそばに寄り、そのまま抱きしめた。すると意外にも、菜穂さんの言う通り、寂しさが少しだけ紛れる気がした。新しい人形の香りと、気のせいかもしれないけど、菜穂さんの香りがした。
「...確かに、良いかもしれないですね。ぬいぐるみ用意するの。」
テディベアから両腕を離しながら、菜穂さんに伝えた。すると、彼女は唇を尖らせながら、何か考えているようだった。
「...でも誤算。いくら抱きしめても、抱きしめ返してもらえないと、物足りないもんだね。...寂しい。」
菜穂さんはそう言うと、俺のことをじっと見て、両手を広げた。俺が驚いていて彼女の顔を見ると、
「...だめ?」
首を傾げながら聞いてきた。この状況で、ずっと気になっていた人に、抱きしめてほしいとアピールされて、躊躇う理由はなかった。俺はあまりにも大きく響く自分の心臓の音を聞きながら、菜穂さんを抱きしめた、自分と彼女の身体が熱くなっていることが分かった。
「...やっぱり、この方が気持ち良い。」
菜穂さんにそう言われて、自分の体温がまた上がった気がした。でも、ふと、あのスウェットの持ち主が気になった。もし、彼女に彼氏がいて、今俺と彼女の間に何かあれば、絶対に問題があると思った。俺はギリギリに保たれている理性を奮い立たせて、口を開いた。
「...あの、タンスの上のスウェットって...彼氏のですか?」
俺がそう聞くと、菜穂さんは少しだけ腕を緩めて、俺の顔を見た。
「...彼氏のじゃないよ。」
そう言って、俺を上目遣いで見る彼女は、この上なく蠱惑的だった。彼氏のじゃなければ、誰のものなのだろう。そんなことを思っていると、彼女にキスをされた。ついさっきまで考えていた疑問はどうでも良くなり、俺はそのまま彼女をベッドに押し倒していた。




