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俺が6歳の時、お母さんが家を出て行った。それまでも、数日間帰ってこないことはザラにあったけど、おばあちゃんの嘆く姿を見て、これまでの外出とは違うんだと分かった。
どれだけ、お母さんに放っておかれていても、本当は俺のことを大切に思っているのではないかと期待していたが、それは間違いだった。
お母さんは俺が寝ている間に家を出ていき、俺に対して残す言葉もなかった。
俺はお母さんに捨てられたのだ。
彼女にとっては俺よりも、自分と、好きな男のことが大事だったのだ。
正直、ここまで関心がないくせに、なぜ俺を産んだんだろうと思った。
おばあちゃんは定食屋を営んでおり、女手一つでお母さんを育てていた。元旦那は無職で暴力を振るう典型的なDV男だったらしく、母娘でこの町に逃げてきて、先代の夫婦が営んでいた定食屋で働き始めたそうだ。先代の店主の引退に伴って、跡を継ぎ、10年以上は近所のパートのおばさん達の力を借りて、定食屋を守っていた。
おばあちゃんはいつも笑顔で愛想が良く、とても優しい人だ。お人好しすぎるくらいに。その人柄のおかげもあって、定食屋はいつも賑わっていた。俺に対しても基本的に優しく、どうしても見逃せないこと以外は、叱ることもなく、おおらかに俺を見守ってくれていた。
「いつも仕事ばかりしてて、一緒にいる時間が少なかったから、どうしても美希のことを甘やかしちゃって。ごめんね、海斗。私がもっと美希をしっかりと叱ってたら良かったね。」
一度だけ、珍しく酔っ払ったおばあちゃんに、そう謝られたことがあった。
おばあちゃんは責任感があって何事も真摯に取り組む人なので、そんな人からお母さんのようなちゃらんぽらんな人間が生まれたことが不思議だったけど、おそらくお母さんは父親似なのだろうと思った。
近所のお客さん達は、お母さんが俺を置いて家を出て行ったことを知っていたので、皆、俺に気を遣って、とても優しくしてくれた。でもそれは、俺のことを可哀想な子だと思っているからで、俺としてはそういう目で見られることに抵抗感が無かったわけではなかった。けれど、常に笑顔でいると、皆が俺のことを、より一層可愛がってくれたので、いつも笑顔で、健気な良い子でいることが癖になった。お母さんに捨てられて、可哀想な子なのに、いつも前向きに頑張っていて偉いねと評価されるために、ずっと笑顔の仮面を被っていた気がする。
本当はいつもずっと寂しかった。おばあちゃんのことは大好きだし、皆、俺に優しくしてくれるけど、本音では、誰よりも、お母さんに一緒にいてほしかった。俺のことを大切に思っているのだと、愛しているのだと感じさせて欲しかった。
お母さんが出て行ってから3年が経ったある秋の日。昼営業から夜営業までの間、俺が座敷席で宿題をしていると、定食屋の扉が開いた。そこには3年前とほぼ変わらない見た目のお母さんが立っていた。あの頃のように、笑うと左頬にえくぼができていた。
「ただいまー。2人とも、元気だった?」
余りにもあっけらかんとした物言いに、俺とおばあちゃんは開いた口が塞がらなかった。
「美希、あんた、今までどこにいたの?!海斗のこと放っぽり出して、あんた、この子の母親なんだよ?急にお母さんがいなくなって、この子がどれだけ寂しい思いしたのか分かってるの?!」
おばあちゃんは珍しく怒っていた。おばあちゃんに怒られたお母さんは、座敷席で勉強をしていた俺に近づき、頭を撫でた。
「海斗、3年前より大きくなったね。ごめんね。心配させちゃって。元気そうで良かった。」
お母さんはそう言うと、俺を抱きしめた。
「会いたかったよ、海斗。」
ずっと会いたかったお母さんに会えて、抱きしめてもらって嬉しいはずなのに、なんだか現実感がなくて、不思議な気持ちだった。
その日の夜、おばあちゃんはお母さんを問い詰めていたけど、お母さんはのらりくらりとその質問をかわして、
「もう、ごめんってば。急にいなくなって。心配かけてすみませんでした。でも、戻ってきたんだから、また仲良く暮らそうよ。」
笑顔でそう言って、そのまま暮らし始めた。食堂で働くようになったお母さんを見て、常連のお客さん達は驚いていたけれど、生来の人懐っこさと愛嬌の良さで、あっという間に店に馴染んでいた。俺は、最初はこの状況に驚いたけれど、家に帰るとお母さんがいることが嬉しかった。
「おかえりー、海斗。学校どうだった?」
「ただいま。もうすぐ運動会だから、その練習したよ。」
「へー、海斗って足速いの?」
「あんまり早くない。だから、頑張ってる。」
「そっかー、偉いねー。」
お母さんと何げないやりとりができるのが、とても幸せで、このままずっと一緒にいたいと思った。
「…お母さん、運動会、来てくれる?」
「行くよー。海斗が頑張ってるところ、ちゃんと見なきゃね。」
「やった。俺、頑張るから。約束ね。」
そう言って指切りをしてから、1週間後、お母さんはまたどこかに行ってしまった。
俺の運動会にはおばあちゃんと、常連の近所のおじちゃんが来てくれた。2人の前では笑顔でいたけれど、夜、一人で布団の中で静かに泣いた。
約束したのに、お母さんの嘘つき。
それから3年後、またお母さんは家に帰ってきた。相変わらず、人懐っこい笑顔を見せながら、俺の頭を撫でてきたけれど、運動会の時の約束を破られたことを思い出して、俺は笑うことができなかった。
「あれ?海斗怒ってる?ごめんね。運動会行けなくて。」
約束を覚えていたことに驚いて、お母さんの顔を見ると、
「会いたかったよ。海斗。すっかりかっこ良くなっちゃって。お母さん嬉しい。」
そう言って俺を抱きしめてきた。約束を破られて、ずっと恨んでいたのに、一緒にいてもらえなくて、悲しかったのに、お母さんの温もりを感じて、優しい言葉をかけられて、俺はまた嬉しくなってしまった。
おばあちゃんは呆れていて、小言をたくさん言っていたけど、今までの経験から、何を言っても無駄だと思ったのか、またお母さんがこの家に住むことを許していた。
「海斗おかえりー。」
「ただいま。」
結局、こんなやり取りができるのが嬉しくて仕方がなかった。でも、同時に、またいつかお母さんがいなくなる日が来る気がして、怖かった。
ある日の夜、お風呂上がりにテレビを見ていたお母さんの隣に座った。
「お母さん...。ずっとここにいてくれる?」
俺が質問すると、お母さんはくるっと顔を俺の方に向けた。
「うーん。分かんないな。でも、今はここにいたいなって思うよ。」
そう言って、いつもの笑顔を見せてくれた。やっぱり一緒にいてくれることを約束してはくれないんだ。
「どうして、出て行っちゃうの?ここにいてよ。俺...寂しいよ。」
今まで、心の中でずっと思っていたことを口に出した。言葉にした後、泣きそうになってしまって、俯いていると、またお母さんは俺の頭を撫でた。
「そんな風に言ってくれて嬉しい。ごめんね。お母さん、海斗のこと大好きだよ。」
鼻の奥がツンとした。涙を堪えて、俺はお母さんのことを上目遣いで見つめた。
「でもね、お母さん、好きな人ができると、一緒に居たくなっちゃうの。どうしても。ただ、離れていても、お母さんは海斗のこと、すごく大事に思ってるよ。愛してる。」
そう話すお母さんの笑顔を見ながら、また、離れ離れになることがわかって、俺は涙が止まらなかった。お母さんは俺が泣き止むまでずっと抱きしめていた。
その2週間後、お母さんはまた家を出ていった。
どれだけ言葉で、大好きだと、大切だと口にしてもらうことよりも、ずっとそばにいてもらうことを自分が望んでいるのだと再認識させられた。
でも、お母さんはそうするつもりがないという事実を思い知って、悲しくて、寂しくて堪らなかった。
そんな時、近所に引っ越してきて、うちの定食屋の常連になった専門学校生の朝陽さんと仲良くなった。彼は音楽が好きで、俺にたくさんの音楽を教えてくれた。音楽を聴いている時は、悲しい気持ちや寂しい気持ちを忘れることができる事を知った俺は、ずっと音楽を聴くようになった。
「海斗、お前、ベース弾いてみるか?俺のお古で良かったら。」
朝陽さんは専門学校のサークルでバンドを組んでいて、ベースを担当していた。朝陽さんに教えてもらってベースを弾くようになると、ますます音楽にのめり込むようになった。音楽は、俺にとって、辛い現実を忘れさせてくれるかけがえのないものになった。




