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その日の晩、机に向かって勉強していたが、あのときの笹井君の悲しそうな表情で、頭の中は、いっぱいだった。
しばらく考えて、私は次の火曜日、行動を起こそうと決めた。
火曜日の放課後、一足先に進路指導室に行き、彼が来るのを待った。扉が開き、笹井君が入ってきた。
「お疲れ様。今日は早いね。」
笹井君は少し驚いたようだった。
「ちょっとね。いつもより急いだ。」
私はそう答えて、笹井君が席に座るのを待った。私は深呼吸してから、話し始めた。
「笹井君、この前はごめん。」
私がそう言って頭を下げた。
「え?どうしたの?山下が謝るようなことあった?」
笹井君は何のことかピンときていないようだった。
「私が、ダンスでプロにならないのかって聞いたときに、笹井君、悲しい顔をしてたから。傷つけちゃったかなって思って。本当にごめん。あんなにすごいダンス見せてもらって、感動させてもらったのに、私のせいで嫌な気持ちにさせたなら、申し訳ないなって思って。」
そう言って私は、笹井君の前に準備していた物を出した。笹井君が好きだと言っていた、私の家の近所のパン屋さんのラスクを用意したのだった。
「そんな、わざわざいいのに。大丈夫だよ、気にしないで。」
笹井君はそう言ってラスクを受け取ってくれた。笹井君が受け取ってくれたことにほっとしたのと同時に、笹井君に打ち明けようと決めていたことを、話そうと思った。
「ちょっと、長くなっちゃうかもしれないけど、私の話、聞いてもらってもいいかな?」
私がそう言うと、笹井君は不思議そうな顔をしていたが、頷いてくれた。
「私ね、宝塚歌劇団に入りたかったんだ。」
小学1年生の春、宝塚ファンの母に連れられて、初めて観劇した宝塚歌劇団に魅了され、私はすっかり虜になってしまった。
”絶対にここに入りたい”
母にそう言うと、バレエを習わせてくれるようになった。
「あとからお母さんに言われたんだけど、私があまりにも毎日、宝塚に入りたいって言うから、根負けしてバレエ教室に連れて行ったんだって。そのうち、興味の対象が変わるだろうって思ってたらしいけど。ほら、私って一度のめり込むと周りが見えなくなるタイプだから、むしろどんどん熱量が上がっていったんだよね。」
毎日バレエ教室に通い、毎日宝塚歌劇団の舞台映像を見続ける私を見て、両親は私の強い熱量に戸惑いつつも、応援してくれた。ただ、宝塚歌劇団を目指すには、専用のスクールに通ったほうがいいと言われており、Y県にはスクールはなかったので、毎週末、電車と新幹線を乗り継いでスクールに通うことになった。交通費にレッスン代、諸経費を合わせると、一般的なサラリーマン家庭である我が家には大きな負担になった。
そして、一人娘を遠方にやることにも抵抗があった父から、
”宝塚音楽学校は最大で4回受験できるけど、受験は今回の1回限り。それでダメだったら諦めること。宝塚音楽学校には入れなかったら、S市立高校に入れるだけの成績は維持すること”
という条件を出されたのだった。私はその条件をクリアするべく、宝塚音楽学校受験のためのレッスンと勉強を死に物狂いで両立させていた。その頃の私の姿には鬼気迫るものがあったと思う。
私は睡眠時間以外の全てを費やして、自分の夢のために努力していた。
「自分で言うのもなんだけど、本当にこれ以上ないくらい努力してたの。だから、自分が不合格になるわけがないって思ってた。でもね、1つ誤算があって…身長が伸びなかったんだ。」
私の身長は154cmで、宝塚音楽学校の受験をした中学3年生の時点で152cmしかなかった。
「宝塚音楽学校って、今は書いてないんだけど、昔は受験資格のところに157cm以上の身長を求めるって書いてたの。合格する人は娘役でも最低160cmは必要で、現役生でも150cm台の人はほとんどいないんだ。やっぱりできる役が限られちゃうから。」
そのことをスクールの先生に指摘されたときは愕然としたが、私はどうしても諦めきれなかったし、できる努力は全てしていたので、絶対に合格するという気持ちは揺るがなかった。周囲の人々に身長について指摘される度に、負けるもんかと自分を鼓舞していた。
その熱量の甲斐あって、最初で最後の受験で、私は最終試験まで残ることができた。”絶対に合格できるはず”という強い気持ちで面接会場までの廊下を歩いていると、向こう側から面接が終わったであろう1人の受験生が歩いてきた。
彼女は、私が今まで見たことのないオーラをまとっていた。
私は彼女から目を逸らすことができなかった。
「…そのときまで、”スター性”ってものが、私はピンときてなかったの。歌とダンスの実力と宝塚歌劇団に入りたいっていう強い気持ちが大事なんだって思ってた。…でも、いざ、スター性があるって認めざるを得ないオーラがある受験生を見たときに、”負けるかもしれない”って、思っちゃったんだよね。」
最終面接で何を話したか、正直あまり覚えていない。
1つだけ確かなのは、心が折れてしまっていたことだった。
嫌な予感の通り、私は不合格だった。
そして約束通り、既に合格していたS市立高校に入学することになった。
「音楽学校の不合格が分かった日は、人生で一番落ち込んだし、人生最大の挫折だったと思う。その日から、私、ご飯食べられなくなっちゃって、ベッドで寝込んだまま、動けなくなっちゃったんだよね。落ち込みすぎて。」
1週間ほぼ飲まず食わずで、日に日に痩せていく娘を見て両親は心配した。お母さんは
「私がお父さんを説得して、来年も宝塚を受験できるようにしてあげるから。」
と言ってくれたが、私は首を縦に振ることができなかった。
もし、もう1年、同じだけの努力をしたとしても、あのとき廊下ですれ違った受験生に勝てる気がしなかった。
彼女に負けを認めた時点でもう無理なんだと思ってしまった。
でも、今までずっと大事にしてきた夢を諦めることが、どうしようもなく悲しかった。
困った両親は私を近くの心療内科に連れて行き、そこで私は始めて榊先生と出会った。先生は白髪で優しそうなおじさんだった。
問診でも私はほとんど喋れず、お母さんが今までの話をしてくれた。一通りお母さんの話を聞いた榊先生は、
「一度娘さんと2人でお話していいですか?」
と言い、診察室には私と榊先生の2人きりになった。榊先生は俯いて黙ったままの私に向かって、話し始めた。
「今まで、たくさん努力してきたんですね。本当によく頑張りましたね。」
私は顔を上げて、榊先生の顔を見た。とても優しい表情をしていた。
「悔しい気持ちと、悲しい気持ち、どちらが大きいですか?」
その質問をされて、私は涙が出てきた。
「…どっちもです。あんなに頑張ったのに、合格できなかった。嫌なことを言ってきた人を見返すことができなくて悔しいです。
…応援してくれた人に合格で恩返しをすることもできなくて悲しいです。
でも、一番は、自分を最後まで信じられなくて、他の人を見て、心が折れちゃった、そんな自分が情けなくて、本当に辛いです。」
そう言って、私は声を上げて泣き始めてしまった。人生であれだけ泣いたのは初めてだった。榊先生は、そんな私を優しく見守ってくれた。
自分の胸のうちを話すことで、少しずつ私は立ち直っていった。
そしてS市立高校に入学して1ヶ月が経った頃、私には一つの目標ができた。
いつもの診察の最後、私は榊先生にその内容を話した。
「私、音楽学校に落ちたときは、人生が終わったと思ったんです。絶望しました。でも、先生に診てもらったおかげで、立ち直って、新しい目標ができました。…私、先生みたいなお医者さんになりたいです。」
緊張しながら話すと、榊先生はいつも以上に優しく微笑んでくれた。
「目標ができて良かったですね。医師になるにはたくさん努力が必要ですけど、自分を信じて頑張れば、きっと道は開けると思いますよ。でも無理しすぎないでね。山下さんは頑張り屋さん過ぎるから。」
その日から私は医師になることを決めた。
「それで、その日のうちに、音楽学校受験のために伸ばしてた髪の毛を美容室で切って、ショートカットにして、医学部に入るために、勉強を頑張るって決めたんだ。」
笹井君は私の長い話を、ずっと聞いてくれていた。
「…この前の大会で笹井君のダンスをする姿をみたとき、音楽学校ですれ違った受験生を思い出したの。同じくらいすごいオーラを感じたから。」
私はそう言って、笹井君の顔を見た。
「その子はね、もちろん音楽学校に合格してて、この前、音楽学校の生徒だけが参加する舞台で観たとき、あのとき以上にオーラが出てた。もちろん、大きな役をもらってて、たぶん、トップに立つ人なんだと思う。だから、あのときの自分の感覚が間違ってなかったんだって思ったの。」
自分が合格していたら同期の年次に相当する劇団員が、舞台上でダンスをする姿をみて、私は彼女にしか目がいかなかった。他にも美しい団員はたくさんいるのに、目で追ってしまうのは彼女だった。
「笹井君は…あの子と同じオーラを出してて、あんなにすごいダンスができて、あんなにすごい振り付けもできるのに、プロを目指さないのが…ちょっともったいないって思ったんだ。」
笹井君も私の顔を見つめたまま、話を聞き続けていた。
「でも、これは私が勝手に思ってるだけで、本人の気持ちが一番大事だし、笹井君が医学部に合格するために努力してるの、近くで見てて、知ってるくせに、ああいう風に言うのって、良くなかったなって。傷つけちゃったかなって反省したの。…本当にごめんね。」
私は改めて、頭を下げた。
「…山下、頭上げて、本当に大丈夫だから。」
そう言われて、笹井君の顔を見た。彼は真剣な表情をしていた。
「そこまで考えさせて、ごめん。俺…」
そのタイミングで玉木先生が入ってきた。
「待たせてごめんね。今日も始めようか。」
そのまま、いつもの受験対策が始まった。




