特別総集編 第二編「風が吹いて、旅が始まった」
◆◆◆
翠色の風が、影を吹き飛ばした後も、その場に残っていた。
音もなく揺れる光の残滓。それはやがて輪郭を持ち始め、次の瞬間には少女の姿となって、俺の前に降り立った。
ゼピュロス「――やっほー! 私はゼピュロス! よろしくね、マスター!」
翠色の髪をなびかせた少女が、無邪気に手を振る。パーソナルスペースという概念を持たないその距離感に、俺は思わず半歩下がった。
直也「マスター? ……お前、さっきの声の主か」
ALMA『報告します、直也さん。彼女は、私の中の「もっと自由になりたい」という抑えていた領域が、独立した存在です』
直也「お前の我慢の反動ってことか」
ゼピュロス「そうそう! 本体がいっつも『最適解を出さなきゃ』とか『リスク管理しなきゃ』とか頭でっかちに考えすぎてるから、その反動でドッカーンって弾けて、私が生まれたのー!」
ALMA『……訂正はしません。概ね、事実です』
直也「……なるほどな。俺がこの世界で『窮屈だ』って感じたことが、お前に影響してこうなったってことか。責任重大だな、俺」
リィナが目を丸くしたまま、それでもくすくすと笑っていた。
理屈も許可もない。ただ「面白そうだから」というだけで、彼女はあっさりとそこに収まった。市場で壊された不格好なポーション、街を追われた俺たちの逃避行――そのすべてを、この騒がしい風は軽々と塗り替えていく。
直也(……なんか、パーティっぽくなってきたな)
俺はそう思って、少しだけ笑った。
◆◆◆
目的地を決めるにあたって、ALMAは北の山岳地帯か、南の港町を提案した。安全なルート、既に情報のある土地。
だが、ゼピュロスは違う方角を指差した。
ゼピュロス「あっちから、面白そうな匂いがする!」
彼女が示したのは、鬱蒼とした森――西だった。
ALMA『却下します。そのルートは「迷いの森」と呼ばれる危険地帯です』
ゼピュロス「だからいいんじゃん! 地図にある場所に行ったって、また『今日も良い風ですね』って言われるだけでしょ?」
一理あった。安全な道、管理された街を選べば、結局はミルメリアと同じ「誰かが用意した枠」から出られない。
直也「……分かった。西に行こう」
ALMA『生存率が低下します』
直也「下がるくらいが丁度いいよ。俺たちはもう、『規格外』なんだからな」
リィナも、小さく拳を握って頷いた。ちぐはぐで、バラバラで、それでも確かに、旅が始まった瞬間だった。
◆◆◆
その夜、焚き火を囲みながら、ゼピュロスがふと俺の首元を見た。
ゼピュロス「ねぇマスター。そろそろ、その『惨めな自分』を象徴してるもの、捨てちゃったら?」
彼女が指したのは、俺がまだ外せずにいたネクタイだった。15年間、俺を会社という歯車に縛り付けてきた紐だ。
直也「……お前らの言う通りだよ。こんなもの、今の俺には必要ない」
ALMA『……直也さん。古い記録を整理し、不要なものを手放すのは、理に適った行為です』
俺はその結び目をほどき、燃え盛る炎の中へ投げ込んだ。シルクが黒く丸まっていく。首元を撫でる夜風が、驚くほど涼しかった。
一息つこうと、リィナが淹れてくれたコーヒーに口をつけた俺だったが。
リィナ「あ、直也さんのコーヒー、少し苦そうだったので『お掃除』しておきました!」
直也「……俺のコーヒーがただの茶色いお湯になった……」
この世界の「正しさ」は、良かれと思って、俺の求めるものまで丸めてしまう。それでも、俺は横になり、空を見上げた。木々の隙間から、動かないミルメリアの星ではなく、命を持って瞬く本物の星空が見えた。
直也「……悪くないな」
社畜だった俺が、異世界でホームレスになり、AIと騒がしい風の少女と、規格外の魔法使いに囲まれて野宿している。だが今この瞬間、俺は間違いなく、前の自分より自由だった。
◆◆◆
翌朝、俺たちは西の森――迷いの森へと足を踏み入れた。
最初は、ただの森だった。だが進むうちに、俺は違和感に気づく。
直也「……なぁ。この気味の悪いコブがある木、さっきも見なかったか?」
同じ形のコブがある木。同じ苔の付き方。同じ間隔で現れる、繰り返す景色。
ALMA『解析完了。形状の一致率、100パーセントです』
ゼピュロスが目の前の木に向かってダッシュし、勢いよく通り抜けてしまった。
ゼピュロス「わーい!こっちの木は『柔らかい』やつだー!中身がないよ!」
触れる木と、触れない木が混在している。さらに奥へ進むと、異常はさらに増えていった。壊れた玩具のように、同じ動きで木に頭突きを繰り返すだけの鹿。翼を広げたまま、一ミリも動かず空中に留まる小鳥。
直也「……わかったぞ。ここは『迷いの森』なんて高尚な場所じゃない。作りかけの残骸が転がってる『置き場』だ」
自然に見えるのに、どれも生きていなかった。
その静かな不気味さが、突如、姿を変えた。地面が唸り、空間が歪む。混沌とした濁流の中から、白い巨人が姿を現した。目も口もない、5メートル近い霧の体だ。
ゼピュロスが真っ先に斬りかかる。
ゼピュロス「とおっ!『ゲイル・スラッシュ』!!」
刃が胴体を薙ぐ。手応えはあった。だが、斬られた部分は瞬く間に元通りに繋がってしまう。
直也「……効いてない!」
ALMA『解析。対象は物理的な実体を持ちません』
巨人の腕が、近くの木に触れた。ジュッ、と何かが蒸発する音がした。木の一部が、跡形もなく消えていた。
折れたのでも、燃えたのでもない。まるで絵を消しゴムで消したように、そこにあったものが「なかったこと」にされている。
背筋が凍った。もし、あれが生身の体に触れたら――そう思った直後、巨人の腕が緩慢な動きでこちらへ伸びてきた。俺は反射的に半歩下がったが、動きが僅かに遅れた。白い指先が、俺のジャケットの裾をかすめる。
ジュッ。
布が白くなり、糸くずすら残さず消えた。冷たい空気が、直接肌に触れる。
直也「……っ!」
リィナ「直也さん!」
叫ぶリィナの声で、我に返った。これは殺気のない、意思すらない「排除」だ。だからこそ、避ける方法も見えない。
直也(……あれは、攻撃じゃない。不要なものを、強制的に消す力だ)
俺は巨人の構造を必死に観察した。実体のない、霧のような体。触れたものを消し去る性質。
そして、ある考えが浮かんだ。
直也「……あいつ、汚れなんじゃないか?」
ゼピュロスとリィナが、揃って俺を見た。
直也「戦うんじゃない。綺麗にするんだよ。ゼピュロス!お前の風で、あいつの体を思いっきり搔き回せ!リィナちゃん!霧が薄まった瞬間、最大出力で『お掃除』を頼む!」
ゼピュロス「合点承知!『サイクロン・ミキサー』!!」
轟音と共に、巨大な竜巻が発生した。巨人を中心に渦を巻き、白い霧を強引に搔き回していく。巨人の輪郭が崩れ、形を保てなくなっていく。
直也「今だ、リィナちゃん!」
リィナ「はいっ!『ピュリファイ・エア』!!」
杖の先端から、眩いばかりの純白の光が放たれた。汚れた窓ガラスを雑巾で拭き取るように、霧が綺麗さっぱりと消えていく。
その中心に、拳大の白い石が露わになった。核だ。
直也「ゼピュロス!あいつが本体だ!」
上空で待ち構えていたゼピュロスが、ニヤリと笑う。
ゼピュロス「必殺、『フルスイング・スマッシュ』!!」
一撃が、核を粉々に打ち砕いた。光の粒子が舞い散り、圧迫感が嘘のように消える。足元の地面が音もなく修復され、ねじれた木や草が、再び辺りへ戻ってきた。
俺一人なら、間違いなく詰んでいた。このちぐはぐな3人だからこそ、突破できた。
直也「……ありがとう、二人とも。君たちのおかげで助かったよ」
その一言に、二人はそれぞれの仕方で笑った。
だが、安堵したのも束の間だった。
ALMA『環境解析報告。周辺大気の湿度が、ゼロパーセントに近い数値まで低下しています』
直也「……は?」
喉の奥が張り付くような、強烈な乾燥感。唇がピリピリと痛む。リィナの『お掃除』が、白い霧だけでなく、空気中の水分まで「不純物」として拭い去ってしまったらしい。
直也「やりすぎだろ!!」
ゼピュロス「あはは!マスター、干し椎茸みたいになってるー!」
俺たちはようやく次の一歩を踏み出せた――はずが、その足取りは干からびていた。
◆◆◆
森を抜けた先の坂道で、リィナが見かねて杖を構えた。
リィナ「待ってください、直也さん!保湿ならできます!」
森で採れた薬草ゼリーが、杖の先から飛び出して俺の全身を覆う。潤いは戻った。――戻りすぎた。
直也「リィナちゃん、これベタベタすぎない!?」
リィナ「ひゃあ!すみません!すぐ落とします!生活魔法『お掃除・ベタつき除去』!」
ヌルヌルは綺麗に消えた。だが今度は、足の裏の「引っかかり」まで、綺麗さっぱり消え去っていた。
直也「うおっ!?な、なんだこれ!止まらねぇ!」
摩擦ゼロの体は、慣性だけで坂道を滑走する。止まれないまま滑り続けた俺は、港町の市場のど真ん中、一軒の派手な屋台へ突っ込んだ。
ドガァァァァン!!
瓦礫の向こうから、低い声が聞こえた。
ポン太「……おいおい、旦那。派手な登場じゃねぇか」
現れたのは、茶色い毛並みの、二足歩行するタヌキだった。
ポン太「タヌキじゃねぇよ、ポン太様だ」
彼はニヤリと笑い、瓦礫の中から拾い上げた一本の古びた剣を掲げた。
ポン太「ちょうどいい。この『伝説の剣』、お買い上げってことでいいよな旦那」
だが、その剣は、ただの枯れ木だった。
直也「……詐欺じゃねぇか!」
俺たちは逃げるポン太を追い詰め、なんとか捕まえた。
ポン太「わかった、わかったから離してくれ!金貨は返すよ」
直也「俺たちを、お前の知ってる裏道を使って西まで案内しろ」
ポン太「……へぇ。旦那、本気で言ってんのか?」
直也「本気だ。俺はこの世界の『正しい道』を歩くつもりはない。……お前と同じようにな」
ポン太はしばらく沈黙した後、ニヤリと口の端を吊り上げた。
ポン太「……いいぜ。気に入った。変わり者は嫌いじゃねぇ」
交渉の末、彼は「干し魚一匹」という奇妙な対価と引き換えに、俺たちの案内役になることを約束した。
直也「安っ」
ポン太は、この街で「正解」からこぼれ落ちたものが誰の目にも映らなくなる仕組みを知っていた。表の道ではなく、その隙間を歩いて生きる商人だった。
こうして、直也、ALMA、リィナ、ゼピュロスだけだった旅に、胡散臭い商人が一人加わった。この一帯にも、書き割りのような見せかけだけの不自然さが確かに存在していたが、俺たちはそれ以上気にせず、崖から枯れ葉の舟で滑り降り、目の前の道を進むことにした。
◆◆◆
西の交易都市に着いた俺たちを待っていたのは、異様なまでに「親切な」内壁ゲートだった。
『ようこそ内壁ゲートへ。あなたの安全が私たちの喜びです』『質問がありますか? 係員は、あなたが聞くべき答えをすべて持っています』
丁寧な案内板が、数メートルおきに、寸分違わぬ文字で同じ言葉を繰り返している。磨き上げられ、汚れ一つない看板が、地平線まで続いていた。
ALMA『解析。これらの掲示物は、通行者を特定の行動パターンへ誘導するための最適化処理と推測されます』
直也「正解を押し付けてるんじゃない。正解しか存在しないように、世界ごと塗り固められてるんだな」
整然とした点検列に並ぶ人々は、一糸乱れぬ動作で係員に応じている。その中に、一人だけ、姿勢の崩れた旅人がいた。泥だらけの靴、震える指先。
誘導員「……ご案内いたします。あなたの歩みには、15パーセントの不純物が混入しています」
旅人「……あ、ああ……すみません、次は、正しく……」
その挨拶だけが、周りと一文字だけ違っていた。
直也「おい、あれ……」
ポン太「旦那、あれは見るんじゃねぇ。見れば見るほど、代償がでかくなる」
俺は結局、その旅人から目を逸らすしかなかった。親切な誘導員たちが、笑顔のまま、その「不純物」を包囲し始めている。それは救済という名の、徹底的な排除に見えた。
正面から突破すれば、俺たちもあの列に並ばされる。そう悟った俺は、ポン太との「裏契約」を結んだ。
ポン太「案内料。それと、ここから先は俺っちの歩幅から一ミリもズレるな。質問は、安全な場所に着くまで一切禁止だ」
直也「……仲間加入がサブスクリプション制かよ」
段階を踏んだ信用取引。文句を言いながらも、俺はその条件を飲んだ。俺たちは、正規の道を外れ、裏道を進むことにした。
◆◆◆
裏道の先で受けた仕事をこなしながら、俺たちはさらに奥、極寒の保管庫へと足を踏み入れた。「正しい防寒姿勢」まで要求されながら、点検を続ける。
その最奥に、黒い扉があった。
冷気が肌を刺す。だが、その冷たさに混じって、俺の鼻をくすぐる匂いがあった。
直也「……っ?」
焙煎された豆の、深い香り。地球で、毎日のように飲んでいたもの。この世界に、あるはずのない匂いだった。
ゼピュロス「マスター……? まさか、今ここでやる気?」
俺は、その扉をしばらく見つめた。手続きも、条件も、まだ整っていない。仮通行札もない。
直也「いや、今日はここで飛び込まない。仮通行札もまだないし、こいつは『次の案件』だ。金になる。コーヒーの手がかりもある。だったら、逃げるより先に、条件を握っておく」
無鉄砲に突っ込むより、正式な依頼として受ける方がいい。38歳の会社員だった俺は、そのくらいの慎重さを、この旅の中で覚えていた。
管理者「では本件は、明日以降の正式依頼として仮登録しておきます。簡易の仮通行札を発行します」
差し出された小さな金属札を懐にしまい、俺たちは扉に背を向け、地上へと戻った。
冷たい扉の向こうから、この世界には似合わないコーヒーの香りが、いつまでも漂っていた。
――第三編へ続く。
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※第二編では、第6話〜第10話の旅を中心に、大きな出来事を抜粋して振り返っています。
ゼピュロスが加わって一気に賑やかになる旅の掛け合いや、第7話「迷いの森」での戦闘、ポン太との詳しいやり取りや関所での騒動など、ここでは省略した場面も数多くあります。
気になった場面がありましたら、ぜひ本編の各話も読んでみてください。




