第13話(5)氷の監視者と、ほどけない鎖 ―― 氷の隙間
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ゼピュロスとボレアスの沈黙が続く中、俺は腕を組んで天井を見上げた。
外套はまだ姿勢を強制しようとしているが、だいぶ力が落ちてきた。保管庫の冷気は相変わらずだが、さっきより少しだけ空気の質が変わった気がする。最初みたいに「ここから出ていけ」と押し返す一色じゃない。妙な言い方になるが、こっちを測りながら黙っている感じだ。
どうやってボレアスを助けるか。
鎖は空間と繋がっていて、雑に引き剥がすと均衡が崩れる。ボレアス自身も、すぐには動けない事情がある。理屈は見えた。でも理屈だけで動く相手なら、ここまで厄介にはなっていない。
俺が考えていると、不意にリィナが前へ出た。
直也「リィナちゃん?」
リィナは返事をしなかった。ゆっくりと、でもまっすぐに、ボレアスの前まで歩いていった。防寒外套が彼女の背筋を無理やり伸ばしているせいで、よけいに不器用な真っ直ぐさに見える。
ゼピュロス「ちょっと、リィナ! 近づきすぎ!」
ポン太「旦那、止めるか?」
直也「……いや、今は待とう」
ボレアスがリィナを一瞥する。
ボレアス「また小娘か」
リィナ「……ボレアスさん」
ボレアス「何じゃ」
リィナ「ずっと、ここにいるんですよね」
ボレアス「そうじゃ」
リィナ「寒くないんですか」
極めて単純な問いだった。難しい言葉も、理屈もない。ただの生活感から来た、真っ直ぐすぎる一言。
俺は思わず息を止めた。そんな聞き方があるのか、と少しだけ驚いた。ボレアスの事情とか理とか鎖の構造とか、そういうものを全部すっ飛ばして、「寒くないんですか」だ。
ボレアスは少し間を置いた。
ボレアス「寒さとは、感じるものではない。在り方の一部じゃ」
リィナ「……それって、寒くないんじゃなくて、寒さに慣れてしまったってことですか」
ボレアス「……」
リィナ「誰かのために我慢しているなら、つらいですよね」
ボレアス「妾は我慢などしておらぬ」
リィナ「そうですか」
リィナはそこで引かなかった。だけど、押しつけもしなかった。ほんの少しだけ首を傾げて、いつもの家事の相談みたいな声音で続けた。
リィナ「でも、寒いところに長くいると、最初は冷たいって分かるのに、だんだん分からなくなってきますよね。痛いのに、慣れたから平気だと思い込んでしまうというか……」
ボレアスの睫毛が、わずかに揺れた。
リィナ「私、お洗濯の時に冬の井戸水を使うことがあって……最初はすごく冷たいのに、続けていると、自分の手がどうなっているのか分からなくなるんです。だから」
リィナは一度だけ息を吸った。
リィナ「どうして、あんなに寂しそうな空気がするんですか」
沈黙だった。長い、冷たい沈黙。
だが、ボレアスの氷の瞳が、ほんの少しだけ揺れた。怒りではない。動揺でもない。もっと古い、長い時間をかけて固めてきた何かが、一枚だけ薄く剥がれたような揺れだった。
ボレアス「……貴様には、関係のないことじゃ」
その声は、さっきより少しだけ低かった。完全に切り捨てる声ではなかった。
リィナ「そうですか」
リィナは頷いて、静かに一歩下がった。それ以上は言わなかった。押しつけがましくなく、ただ言葉を置いて離れた。
直也
俺は何も言えなかった。俺が百の言葉を尽くしても届かなかった場所に、あいつはたった数言で触れた。
ボレアスの理屈を崩したわけじゃない。言い負かしたわけでもない。ただ、理屈の外側にある「冷え」を、生活の言葉で指さした。それだけで、あの氷みたいな少女の視線が揺れた。
ゼピュロス「……」
ゼピュロスも珍しく黙っていた。ボレアスを見る目が、さっきとは少しだけ違う。
ムカつく相手を見る目のままではある。だが、そこに「分からないけど嫌だ」だけじゃない何かが混じり始めていた。
ポン太「へへっ。さすが小娘。旦那より先に、氷の隙間を見つけやがる」
直也「笑うな。俺だって一応考えてたんだよ」
ポン太「考えてただけだろ」
直也「否定はしない」
ALMA『観測記録を更新。対象ボレアスの外部反応に、明確な揺らぎを確認しました。原因はリィナの発話内容に起因すると推定。……補足。理屈ではなく生活経験に基づく言語が、対象の防御的応答を部分的に鈍らせています』
直也「お前、今のをそんな分析の仕方するのか」
ALMA『事実です』
直也「事実だけど、もう少し言い方ってもんがあるだろ……」
リィナは何も言わず、元の位置へ戻ってきた。
その横顔は、少しだけ強ばっていた。怖くなかったわけじゃない。ただ、それでも聞かずにいられなかった顔だ。
ボレアスは再び静けさを纏っていた。
でも、さっきまでと同じ静けさじゃない。
ほんの少しだけ、そこに隙間ができた。
氷はまだ厚い。だけど、完全な一枚岩じゃなくなった。
その程度の変化が、今は十分に大きかった。
◆◆◆(氷の隙間)◆◆◆
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