♯80 旅の途中 ―夜の喧騒 yellow-bellied-killer.
「重君、今回の件は前回よりも禁足地に近いですから、境には十分に気をつけて行って来て下さい」
重蔵が探し物屋【シーカーズ】で働いていた時に、元直属の上司である志崎月日という男が何度も教えてくれた話の内の一つに、結界が有る。
「何度でも申し上げますけれど、境は現世と常世の境界です、簡単に踏み越える事が出来る事柄を、決して交わる事のない象に変える物、絶対に過信せずに‥‥」
「わーかったって、もー!何度も何度も‥‥」
今居る世界での重蔵の言葉選びは無意識の内にかなり元上司のソレに近い事が分かる。
彼との会話で、重蔵が敬語を使った事なんて本当に最初期の頃だけだったけれど。
結界とは彼方と此方を厳然と隔てる物で、その境界線は酷く曖昧。
簡単に超える事が出来る、一切の侵入を拒む一つの線。
もともと古神道に詳しく、それこそ神社で神主でもやっていた方が余程似合うタイプの男である月日の言葉は理解できない事が多く、この時の言葉もまた当時の重蔵にとっての例外には成り得なかった。
かなり危険な仕事を割り当てる当時の支局長の月日は、しかし毎度過度な心配をしては過剰な安全マージンを取らせるチグハグさを併せ持つ不明瞭な性格に見えて、重蔵にとってはそれもまた理解の及ばない処で精神的な負担となっていた。
「ふむ‥‥、では一つだけ。今後使う事が有るかも知れませんし、これだけは覚えて置いて下さい」
重蔵の気持ちを知ってか知らずか、月日は重蔵に言葉を告げる。
数か月もの間、海外にまで出張っていた重蔵が久し振りに日本での仕事を終えた後の探し屋での、最後の仕事の前にもらったアドバイス‥‥。
「もしも何か有ったら、その時は動物の姿を思い描いて下さい」
呼べばきっと、助けてくれますよ。
なんて‥‥。
不明瞭というか漠然とし過ぎていて意味不明というか、少なくとも当時の重蔵にはさっぱり理解出来なかった事だけは確かであった。
今も現代日本で生活している彼こそ、ファンタジーな世界がとてもとても似合いそうな気がして止まないと、現在進行形で異世界に身を置いている、他でもない重蔵自信は考えたりもしたけれどそれもまた、どうとも出来ない事で有る。
ともあれ、境、結界。
どちらにせよ、実践できるかは未知数では有るが、一人静かに
『今こそ、ピンチをチャンスに!とまでは言わないけれど、折角相手が結界での防御方法を見せてくれたんだ。僕にだってやって遣れない事は無いはずだ!』
そう気合いを入れ直したのだった。
境内で両手を合わせた、体を失い頭だけになった蜂の姿を。
出先で見かけた、地に横たわる鳩の亡骸を。
皆の最期を静かに思い出しながら、重蔵は自身の式神の名を、改めて呼び直す‥‥。
『‥‥、‥‥、‥‥』
新たな力を得た事に気がついた重蔵が前方に浮かぶ女神の使徒と壮絶な争いに終止符を打つのは、ここから少し時間が経ってからの事だった。
彼女の最期に彼女は何を思い想うのか‥‥、それはきっと彼女や彼女にも分からない、当人の心に生まれた、小さな小さな【何か】。
人跡未踏の森に現れ、ドワーフ達と暮らした重蔵の、数少ない岐路の一つである。
■■■
最初に結界の異変を察知してから既に数十分が経過した。
相変わらずの何処から飛んでくるか分からないアウリョイナさんの魔法と鉄塊に辟易しながら、何とか円月、新月で相手の結界を壊そうと攻撃しているんだけど‥‥。
「恐ろしいですね、貴女の力は‥‥」
『不味いな‥‥、重蔵、目で見ていては次こそ当てられるぞ』
ぎしりと軋む目に見えない壁の立てる不快な音に耳が慣れ始めた頃、アウリョイナさんの言葉を無視する形で、六呂が僕に告げた。
気合いを入れ直したというのに、直後から相手の魔法を食らい始めている辺り、攻めあぐねている僕よりも彼女の方が一枚上手だという事実に頭が痛む‥‥。
『くそう‥‥、似非神主め‥‥』
彼我の距離が開いた所でナイフを投げながら心の中で悪態をついた。
まぁ、そこまで期待していた訳では無いんだけど、こうも相手の攻撃を防げないとなると、若干うんざりしてしまうのも仕方ないと思う。
「いくつかお聞きしても良いですか?」
「答えられる範囲でなら‥‥、って、うぉっ!」
相手の防御方法を、あわよくば盗むつもりで真似てみてはいるものの一向に上手くいかず、そんな僕を嘲笑っているだろう遮られている視線を送り主の前髪越しに感じながら上体を大きく反らす。
『これは無理ゲーすぎる‥‥』
足場にしていた刀鴉の結界は元通りになっている。
先程までの不安定さが嘘のように掻き消え、今では確りと空中で僕の跳躍を支えてくれている。
円月、新月の月刀ペアは、決定打こそ与えられていないとは言え、今まで以上に手に馴染む。
『動物じゃないんだけどなぁ‥‥、っていうか、それよりも』
それよりも、鳥船の様子が先程からおかしい。
薄い靄に覆われた様に視界が霞がかり。盛大にブレるのだ。
鳥船の結界の効果は留める力。
対象を閉じ込めたり、変わろうとする物をそのままにしたり。
つまり、今のこの変化は全くの想定外で有り、結果として寧ろマイナスに働いていると言っても過言じゃない。
『重蔵、後ろからだ!』
「ぬぉぉぉぉぉおおおおお!!!?」
六呂の指示を受け、無様に転がりながら鉄塊を回避した。
そろそろ投擲用のナイフが尽きかけてきて、いい加減に何とかしたいと気ばかりが焦り始めている僕に、宣言通りアウリョイナさんが質問をなげかけてきた。
お互いに攻撃をし合っていた合間にも疑問を感じている様な態度を向けてきていたのだけれど、不意に何か思い付いたかの様な気軽さで
「スキルや魔法を創造するなんて、有り得ないんですよねぇ‥‥、どうやってその力を得たんですか?」
前髪に隠れて窺い知る事は出来ない筈の使徒の視線は、それでも尚、僕の精神の均衡を崩すのに余りある威圧感を吹き荒れさせてきた。
「‥‥気が付いたらいつの間にか。としか‥‥」
此方に掌を向けて、地面から暴風を巻き上げる彼女は、何処か緩慢な動きをしている。
此方の頭の中は『ヤバい』で埋め尽くされているのに、そんな事にはお構いなしといった風情。
「そうですか‥‥、ならステータス。随分と不思議な数値ですけど、これはなんでか分かります?」
普通ならもっとレベルに即した物になるはずなのに‥‥。とか、僕自身も不思議に思っていた事を言われたものの、先程の威圧感が既に精神的な圧迫感に変わっていて、正確に答えないと即刻首を刎ねられかねない危うさが襲いかかってきている。
勿論この会話の最中も僕の特攻とアウリョイナさんの魔法での不意打ちは継続中で
「それは‥‥」
と疑問を口にしようとした僕の左斜め後ろから、頬を掠める形で空気の塊が通り抜けて行った。
高圧縮された空気の塊は鈍器と言っても過言では無い。
タイヤに空気を入れ続けて圧力が強度の限界を超え爆発すると、大人のそれも屈強な男でも簡単に吹き飛ぶほどの威力を発揮する。
正直死ぬかと思った‥‥。
死ぬほど話も進まない。
何度か言葉を交わしているものの、僕らの間には既に密度の高い剣呑な雰囲気が漂い始めていた。
心臓は早鐘を打ち続けているし全身の毛は軒並み逆立っている。
知らない事が多いだけに、自分の心が酷く不安定な状況に追いやられている事に僕自身が気が尽くのは、アウリョイナさんがメシ夫と同じ反則技を使ったその瞬間だった。
どうしてこんな事になったのかを嘆くより事態が急展開を見せる方が速かった事は、頭を襲う激痛に蹲る事になった僕には判然としなかったけれど‥‥。




