かいだん5
帰路につこうと、女子生徒は廊下に出た。
「……さま…………」
今日は見たい番組があるし、急がなくちゃ!
「……ひ……さ……」
その前に、まずはお風呂に入って。 ご飯を食べて……。
「ひめ……さ……」
「…………っ!」
そこで、とうとう無視をすることが出来なくなってしまった彼女は、思考を中断した。
「うそ……。 うそよね……?」
そのまま無視を続けていれば──、聞こえないフリを決め込んでいれば、どんなに救われたことだろう?
女子生徒は、ひどく後悔したという。
「…………………」
耳を澄ます。
特に音はない。
梅雨期における空気の重さが、鼓膜にジットリと張りつくのみで、際立った音を、拾うことは出来なかった。
強いて挙げるとすれば、車の走行音か。
学校の近辺に敷かれた舗道を、時おり通りかかる自動車が、何台かあった。
それらも、結局はどこまでも無関心な様子で、遠くへ走り去ってゆく。
「………………」
怖々と、視線をあたりに巡らせる。
長い廊下の先は、どっぷりと暗闇に飲まれており、濁った海中のように、視界が悪い。
今夜は月も出ていないのか、整然と並ぶ窓ガラスは、街灯の頼りない明かりを、ひっそりと反射するのみだった。
「………………」
湿気を大いに含んだ宵の空気が、漫然と肌身にまとわりついてくる。
けれど、それも現状では──、彼女にとっては、ひどく空々しい印象だった。
暑さが目立ち始めた時季なのに、不思議とそうは感じない。
むしろ、自分の吐息は、真っ白な色をしているんじゃないかと、そんな錯覚さえする。
頬をひとすじ、汗が伝い落ちた。
冷たい汗だ。
「………………」
廊下にひとり、ジッと立ちすくんだ女子生徒は、ひたすら耳を澄ます作業に没頭した。
“聞きまちがい”
“気のせい”
かたく念じ、自分に言い聞かせる。
そういった思考を、何度も何度も空転させ続けた。
「……うん!」
“やっぱり、気のせいだった”
どれほど時間が経ったか。
やがて、良識的な自己完結に行き着いた彼女は、ひとつ息を吐き出した。
「そうよね? そんな事、あるはず無いし……。 あはは。 疲れてるのかしら? あっ、早く帰らないと!」
人間だれしも、余計な緊張を経ると、多弁になる。
それが独り言であろうと。
会話であろうと。
「えっと? まずは鍵! うん! カギ鍵ぃ! ちゃんと職員室に返さないとねっ?」
「……ひ……さ………」
「え……っ」
いや。 “ひとり”では無かったのだ。
もちろん、彼女が行っているものは、歴とした独り言だった。
身辺に、会話をかわす相手などいない。
「ひめ……さま……」
しかし、廊下にいた者は、彼女ひとりでは無かったのだ。
「………………」
愕然と、満面から生気を損なった彼女は、たしかに聴いたのだった。
「姫さま……。 姫さまぁ……」
濡れた真綿がズルリと撓み、水滴を揺り落とすように。
あるいは、ガラスの表面を、爪の尖端で掻き毟るように。
「えぅ……。 姫……、姫さまぁ……」
何処からともなく聞こる声が──、すすり泣くような声が、そう呼び続けていたのだという。




