記憶喪失?
ふと、まぶたの向こうに明るいものを感じて、そっと目を開けると板張りの天井が見えた。
「っ! 竜一! 良かった……」
息を呑む音と、深いため息。そして吐き出された声。
そちらに首を捻ると、女性が一人、隈が出来た目を緩めていた。
「だ……」
口からこぼれたのは、掠れ声。
誰ですか?
そう聞こうとしたと同時に、先程この女性が「竜一」と呼んだことを思い出した。
誰を?
自分を?
竜一? 自分? おれ? ……ぼく?
あれ? ぼくは……誰だ?
全身が、ゾワリと震えた。
「体は大丈夫? 何か食べたいものは? どこか痛いところがあるの? 竜一? まさか、声が出ないんじゃ!?」
何も言えないでいる間に、女性の声は心配から恐慌へと移りかけ、
「落ち着け、母さん。きっと竜一も驚いているんだよ」
頭の後ろから、落ち着いた低い声が響く。
ころりと首を回すと、そちらには男性が立っていた。
「でも、お父さん……」
多分、この二人はぼくの両親なんだろう。
心配そうなのは、何か事故にでもあったのか。それとも急に倒れたとか。
さっき「痛いところは」と聞いていたから、怪我でもしてるのかもしれない。
少し、体の様子を確認するも、どこかが痛いというわけではなかった。
「大丈夫だよ、母さん」
とにかく安心してもらおうと、腕を支えに体を起こそうとした。
だが、どうにも力が入らずにかくりと肘が折れて、再び布団へと仰向けに倒れ込んだ。
「どこが大丈夫なんだ、全くお前は……」
心配しつつも、どこか呆れた父の声。
掛け布団を引き上げられて、頭を軽く叩かれた。
「もうしばらく、おとなしく寝てなさい。この部屋からは出るんじゃないぞ? 外に人を付けておくから、何かあったらそちらに声をかけること」
「……ハイ」
父と母が部屋を後にして、ぱたりと障子が閉じられた。
寝てろと言われたが、首を回して部屋を確認する。
三方を襖、一方を障子で囲まれた部屋だ。
ぼくが寝ている布団以外、何も見当たらない。
足先、障子の向こうは明るいから、窓に面した廊下があるのかもしれない。
首が痛くなってきたため枕へと預け、両手を顔の前で広げた。
しわしわもごつごつもしていない、普通の、ぼくの手。
ぼくって、何だ?
今わかることを確認しよう。
ぼくは竜一。父と母がいて、この部屋で目を覚ました。
布団以外何もない部屋。外には人が付いているらしい。
それと、両親は着物を着ていた。
けっこう裕福な家なのかもしれない。
「っ、はぁ……」
手で顔を覆う。そうしたい気分だったんだ。
布団の外に出していた手は少し冷えていて、それが妙に気持ちが良かった。
父に言われた通り、少し寝ようか。
---
あれからどれだけ経っただろうか。
眠れない。
どこかが「寝るな」と叫んでいるようで、落ちかけるたびにハッと目が覚める。
体は思う通りに動かせないし、頭は考えすぎて疲れ切っている。
それなのに、眠ることができない。
夕方に一度、母が様子を見に来たけれど、寝たふりをしてやり過ごした。
外が暗くなってから、かなりの時間が経っている。
「あぁ、くそっ!」
慎重に体を起こして、小声でつぶやいた。
そもそも何でここから出たらいけないんだ?
あの人たちは本当にぼくの親なのか?
ぼくの名前は本当に竜一なのか?
考えたって答えは出ない。情報が少なすぎる。
寝巻一枚の姿で布団から這い出て、部屋から出ようと障子に向かったところで、ぼくの意識は途切れた。
---
はっ、と目を覚ますと布団の中にいた。
誰かが運んでくれた。
つまり、誰かがこの部屋に入っていたということだ。
いつのまにか寝ていた。意識を手放していた。
それに気付くと鼓動が速まり、どっと冷や汗が出る。
何だ? 寝ることの、何がそんなに怖いんだ?
体を起こして汗をぬぐうと、障子が開いて父が入ってきた。
隙間からわずかに庭が見え、そこが庭に面した廊下だと判った。
父は今日も着物だ。普段からなんだろう。
「……ひどい隈だな。寝なさいと言っただろうに」
「ちょっと……寝付けなくて」
父は何か言いたそうな顔をしたが、そのまま布団の横へと座った。
記憶が不確かなことを言おうかとも思ったが、こういうものは時間とともに回復するなんて話をどこかで聞いた気がした。
余計な心配をかけることはないだろうと、ぼくも何も言わなかった。
「何か食べられそうか? 食べるのなら運ばせるが」
「あ、うん、少しなら。……でもその前に、手水行ってくる」
なぜか人を付けられた。過保護なんだろうか。
手を出そうとするお手伝いさんを断って、用を済ませた帰り道。
ふらついた体を支えようと手を伸ばした先が、ちょうど障子だった。
「もう、竜一さんは! こんな時くらい人を頼って下さい。お部屋まで歩けますか?」
「うん、大丈夫」
あきれて苦笑交じりの声。
障子を破り、仕事を増やしてしまったにもかかわらず、まずはぼくのことを心配するお手伝いさん。
それでもぼくは手を借りずに部屋へと戻った。
中庭では楓の葉色が抜け始めていた。もう秋なのだろう。
父は去り、持ってきてもらったおかゆを食べながら考える。
先ほどの手洗いにあった鏡で自身の姿を見た。
多分ぼくは、成人前の子供だ。
年齢はいまいちわからないが、十二歳から十五歳くらいだと思われる。
黒目黒髪、典型的な日本人顔。
学校に通っているのかいないのか。
何か普通とは違う状況に陥り、両親に心配をかけて、目を覚ました。
お手伝いさんには、日頃からあまり頼らない人間だった。
今のところは、このくらいか。
お椀に半分ほど残ったおかゆをかき混ぜてみる。
作ってもらったものを残すのもなんだが、これ以上食べる気もしない。
ちらりと傍らのお手伝いさんを見ると、「またお昼に温めますね」と言って下げてくれた。
再び、ぼくは一人だ。
横になるもののやっぱり眠れない。眠りたくない。
うつうつしては目を覚ます、を繰り返していると廊下で人の声がした。
「あら、ミルさん。竜一さんは寝てますよ?」
慌てて目を閉じて、寝ているふりをする。
するりと障子が開けられて、閉まる音。
わずかに流れ込んで顔をなでる、外の空気。
ミルさんとかいう「人」が入ってきたのだろうか。
とす
何かを置いた音?
ぞり
「うわっ!?」
ざらついた舌で顔をなめられ、飛び起きた。
目の前には、巨大な猫。
猫? 大型犬より大きい猫なんていたっけ!?
見た目だけは毛の少し短いヒマラヤンだ。
青い綺麗な目がこちらをじっと見つめている。
「ミル……さん?」
なぁお
ミルさんは一声鳴くと、ぼくの後ろに回り込んでごろりと横になった。
ちょうどお腹が枕になる位置。
喉を鳴らしながら尻尾でぼくの体をこてんと倒した。
頭がふわふわの腹に埋まる。
この子は、ぼくのことをよく知ってるみたいだ。
「なあ、ミルさん」
外には聞こえないように、小さな声でささやく。
「ぼく、自分が誰なのかわからないんだよ」
ぐるぐる、ぐるぐる
お腹越しに、音が伝わってくる。
「ぼくの名前は、本当に竜一なのかな?」
なん
短く鳴いて、先が灰色の前足でちょいちょいと引き寄せたそれは、棒だった。
木製の、ぼくの身長より長いただの棒。
「ミルさんのおもちゃ?」
なんとなく手に取り、なんとなく布団に引き込んで抱き込むと、なぜかどっと体の力が抜けた。
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目を覚まして、背中に巨大な毛玉がいることにほっとする。体は明らかに軽くなっていた。
「ちょっといいかな?」
声をかけるとすぐに障子の向こうから声がする。
「はい」
そろっと障子を開き、見上げると、不思議そうに僕の棒を見下ろしていた。
「今日の新聞と、あと、適当に本持ってきてもらえる?」
いくらも経たないうちに新聞と三冊の本、昼食が運ばれてきた。もう昼だったのか。時計、いや、スマホが欲しいな。
ミルさんの腹を背もたれ代わりに、梅干しの加わったおかゆを食べ終えた。
ふむ、今日は永和7年10月8日の水曜日。一面には崩れた公園の写真がでかでかと掲載されている。
『都内公園崩壊、原因は流動化現象』
住民は避難済みで特に怪我人等はいなかったらしい……突然公園が崩れたのに、何で付近住民が避難済みなんだ?
そのあたりには特に触れておらず、流動化現象についての仕組みや詳細がつらつらと書かれていた。
必要と思われる情報もなく、新聞をたたみ直してポイッと横に投げる。
まぁ、一番の目的は本だったからな。ああやって頼めばぼくがよく読んでいるものや、好みそうなものを持ってきてくれるはずだ。
一冊目は『表と裏の交渉術』難しい漢字がたくさん並んでいる。内容は確かに楽しそうだけど、こんな本を読んでいたのか?
次は『妖魔伝記』昔話みたいなものか。
最後に『妖魔辞典1』2以降もあるのか!?
試しに『妖魔伝記』を開いてみたのだが、なぜかところどころに空欄があって読みづらい。
『妖魔辞典』には大き目の挿絵とともに、その妖魔の解説が書かれていた。
ファンタジーとかが好きな子だったのかな?
交渉術を読むみたいに、大人びたところもあったのかもしれない。
うわぁ、解説の所に「肉を割いて骨を取り出す」とか「鼻の穴から舌を入れて鼻水をすする」とか、気持ちの悪いことが書いてある。こんなものを好んで読んでいたのか……。
適当にページをめくっていくと、一番最後に作者の一言が書いてあった。
『この本を読んでいかがでしたか? 妖魔は人を食べるものだという皆様の常識が覆せたのなら幸いです。もちろん日頃見られる妖魔のほとんどは人を糧としており、この本をご覧になられた皆様にとっての脅威とは思われますが、それだけではなく、昔から人と共存関係にある妖魔もいることを心の隅にでも置いて頂けたら、そんな思いでこの『妖魔辞典』を書きあげた次第でございます』
なるほど、ゲームか何かに出てくる敵キャラクターをまとめた図鑑か。こんなものを買ってしまうくらいだから、よっぽどそのゲームが好きだったんだろうな。
でも作者さん、鼻水すするやつとか説明されても、読者は嫌いになるばかりだと思うよ。
ふと顔を上げて障子を見ると、今日はよい天気らしく暖かそうだった。縁側で読むか。
布団から出るとミルさんも立ち上がり、ぐぐぅっと伸びをする。そのまま頭をこすりつけてきて、ちょっとよろめいた。体の大きさ考えてくれよ。
その頭をぽんぽんとなでて、棒を拾い上げて、部屋の外に出ようと障子を開けた。
やっぱりいい天気……?
遠くは少しかすみがかってるな。太陽の光も少しぼやけ気味だ。まぁ、日差しが気持ちいいことには変わりが無い。
外に控えていたお手伝いさんが慌てていたけれど、「大丈夫だから」と縁側に腰を下ろした。隣にはミルさん。
『表と裏の交渉術』を半分ほど読み進めたところで、少し眠くなってきた。まだ本調子じゃないのだろう。
そういえば、一日経ったのに全く記憶が戻る気配が無いな。
一度ぼくの部屋に行くか、アルバムを持ってきてもらうか。
いや、アルバムは怪しまれるか。
「ちょっと部屋に行ってくる」
案内してもらえれば儲け物と、そばにいるお手伝いさんにそう言ったのだが、
「だめですよ、御当主様からも言われてるでしょう? さ、戻ってください」
うながされて素直にミルさんと部屋に戻る。判った事が増えた。
父はこの家の当主、で、ぼくはその息子、お坊ちゃんってわけだ。
それにしても、部屋があるのにそこに戻ってはいけないって、よっぽど散らかってるのか?
ゲーム機とか漫画とかが散乱していたら嫌だな。
当然のように布団の上で横になったミルさんにもたれかかり、本へと挟んでいた指も抜いて横へと置いた。
やっぱりなぜか棒を引き寄せる。
ぽふんと、尻尾が腹の上に置かれる。
ぽふ、ぽふ。
子供のように寝かしつけられてるのに少し複雑な思いにかられたが、まあいいか。
そのままふわふわな腹へと沈んでいった。
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長い髪を後ろでくくった作務衣姿の男が一人、妙な生き物の中で棒を振るっていた。
しましま模様をやけに凶悪にして、赤子ほどに巨大化させたハチのような虫の群れ。
黒と黄色に埋め尽くされた中、灰色が見え隠れしている。
取り囲まれながらも男の振るう棒の威力はすさまじく、一振りで辺りの虫をなぎ払うのだが一向に減る様子が見られない。
男のわずかな隙を狙って襲ってきた虫は、目の前で切り裂かれて散っていった。
「ありがと、ミルさん」
男がこちらを見て笑う。
そんなことを何度繰り返しただろうか。
襲ってくる虫の数も減り、ようやく空が白み始め、男が一瞬東の空を見たその時、地面が陥没した。
下には広い空洞と、ひしめく白い幼虫達。
ぼくの視界はめまぐるしく動き、降りる場所を探しているようだ。
「ぐぅっ!?」
男の声にあわてて振り返ると、手足の細い猿のような動物に襲われていた。
視界が下に向けられる隙を突いて、上から降ってきたのか?
落下する中、瓦礫を蹴って男を助けに向かうと、それはすぐに離れて姿を消した。
どこか見覚えが……いや、それよりもあの人は無事なのか?
「いって……」
首に傷を負ったようだが大事は無いようだ。
と、思ったのだが様子がおかしい。さっきよりも小さくなってないか?
あれは……ぼく?
大きくなってしまった服のせいで動きが制限されてしまい、押され気味になるぼくの姿をした男。
幼虫はハチほど脅威ではないのだが、ひたすら邪魔になる。
さらにハチは目標を変えたのか、生き残った半分が一斉にこちらに向かってきた。
「あぁ、くそっ! ミルさん!!」
男は焦った声を上げると、一枚の紙を取り出して、それをぼくに向かって投げつけた。
---
目を覚ましたのは夕方だった。
何か、すっごく現実的だったんだけど、今の夢。
夢の中でぼく、ミルさんって呼ばれてたよな?
ミルさんの見てた夢?
もしもあれが本当に起きた事なら、ちょっと色々考え直さないといけないんじゃないか?
それにしてもあの猿、どっかで見たような。記憶が無いのに覚えがあるってのも変な話だけど……。
あ、妖魔辞典!
一度見ただけなのによく覚えていたな。あった、これだ。
『トキアサリ。若返りの伝説のある温泉でまれに見かけることがある。生物、無生物問わずに時を食べるが、いまいちよく解っていない妖魔である』
他にもちょこちょこ書いてあるけれど、あんまり関係ないことだから無視。特に最後の『捕まえたら一攫千金間違いなし!』なんて何故書いた。本当に捕まえに行く人がいたら危ないでしょ!?
とにかく、今までのことは頭の隅に置いておいて、この本や、先ほどの夢が現実だとして考え直す必要が出てきた。
ぼくの名前は竜一。父と母がいる。
この家の当主の息子で、多分成人してる。
妖魔と戦うことができて、多分強い。
多勢に無勢でやられて、何とか助かった……のかな?
両親も心配するはずだ。
なぁおん
ミルさんが突然大きな声で鳴いた。寝ぼけたのかきょろきょろと辺りを見回してから、顔をなめられる。
ぞり、ぞり
「ちょっと、ミルさん。痛い」
うつ伏せになって避けようとするが、今度は首筋をなめられる。
「うひ、ちょい、ミルさん、余計痛いって!?」
仕返しだと乗りかかって頭をわしわしなでると、前足でぼくをのっしと押し倒して再びぞりぞり。くっ、負けてなるものか!!
「何をしているんだ、お前達は」
いつの間にやってきたのだろうか。開いた障子の向こうから、父の呆れた声がした。
布団の上で正座をし、隣にミルさんが座る。
目の前には、同じように正座をした父がいる。
ちろりとぼくの横に置いてある棒へと目をやり、わずかに苦笑した。
「何か考えがあるんだろうとあえて聞かなかったが、さすがに今日で二日目だ。竜一、あの時何があったんだ?」
父は真剣な顔をしているのだが、あの時がどの時なのかさえさっぱりだ。
一人で考えていても埒が明かないし、そろそろ正直に言うべきか?
わずかに身構えて、口を開く。
「実は、言いにくいんだけど……記憶が無いんだ」
父の眉間にしわが寄った。
「そういう事なら余計に早く言うべきだったろう。いつから無いんだ? 家を出た時は?」
わずかな苛立ちのこもった声に、続けざまの質問。
ああ、これは記憶の一部が欠けている状態ととらえているんだろうな。
……この先が余計に言いにくい。
「あーっと、自分が誰なのか、から記憶に無い」
しっかり十数秒間、口を半開きにして父は固まった。
「今、何て?」
「とりあえず、名前は竜一で合ってるのか?」
「なぁお」
肯定の返事は、隣から来た。




