第九話 鏡見ユウの憂鬱
父と母の仲が悪い。
それは、家に漂う底冷えする空気として、ユウにはわかっていた。
詳しい事情は知らない。知りたくもなかった。
リビングで響く声のトゲが、やがて「離婚」という冷たい刃になって、いつかこの平穏を切り裂くだろう。
私はミュージックが好きだ。
冷え切った家庭内で唯一、色彩を持つものだった。そして、多くの時間を私はアコースティックな楽器の響きに没頭した。ピアノ、ヴァイオリン、ギター。どれも「趣味」の範疇だったが、その音はユウの魂をやさしく包み込んでくれた。
併せて、作曲も手掛けていた。ネットの配信サービスに、いくつか曲を登録している。主なジャンルは、山に関係するチャンネル向けだ。山岳写真、動画、登山、ハイキングなどだ。
静かに広大な景色を彩る音。
大量の荷物を背負い、とつとつと歩く歩荷さんと共にある音。
眼下に広がる雄大な山並みを讃える音。
『坊がつる讃歌』いいなあ。行ってみたいなあ、坊がつる。
まだ子供なので自由に山歩きには行けない。それ故に創造の音を紡ぐ。
あの日、学校から帰ると、全てが終わっていた。玄関のドアを開けた私を迎えたのは、リビングのソファに座る母の、妙に落ち着いた声だった。
「ユウ、お父さんは家を出たわ。離婚したの」
そうか。予想はできた。むしろ、いつまでも冷戦を続けるよりはマシかもしれない。
何も聞かなかった。理由を尋ねても、それはすでに過ぎ去った過去の出来事だ。
私はこれからのことを考えていた。
高校を卒業したら、音大へ行って本格的に音楽の基礎を学びたい。漠然とした夢が、急に現実味を帯びてきた。
「でも、なんだか面白くないね」
小さく呟いた。
母と二人の生活が、一か月過ぎた頃だった。夕食の後、母は私の顔を見ようとせず、テーブルの木目に視線を落としたまま、冷たい言葉を吐き出した。
「親権は私が持っているけれど……、あの男の血が半分は入っていると思うと、これ以上、一緒に居られないわ」
その一言で、私の心は『ピキッ』と凍り付いた。
母は次の日の朝、何の感傷もなく家を出て行った。置き手紙には、この家の登記がユウ名義に変更されていること、そして、生活に困らないだけの金銭が振り込まれていることが、事務的に記されていた。
なんだかなあ……。
自分たちの都合で私を生み、そして都合が悪くなったら離婚して「後は知らない」と放り出す。ユウは呆れて笑うしかなかった。インターネットで「親の離婚 見捨てられた」といったキーワードで色々調べてみたが、すぐに「まあ、よくある話」だと結論づいた。そして、家とお金を譲渡されたユウのケースは「ラッキー」なのだそうだ。その「ラッキー」という言葉も、なんだかなあぁ・・・・。
そんなある日のこと。見知らぬアドレスから一通のメールが届いた。
差出人は『未知のゲート管理研究所 大野クズメ』。
タイトルは『あなたに新しい世界を』。
「怪しさ一〇〇〇%だよ、これ」
ユウは嘲笑いながらも、指先は画面をタップしていた。完全に自暴自棄になっていたのかもしれない。失うものなど、もう何もないのだ。
メールの内容は、拍子抜けするほど真面だった。未知のゲート管理研究所で働かないか、という誘い。
(でも私、一六歳で高校生だけど?)
私は眉をひそめたが、続きには「とにかく会って話をしたい。〇日〇〇時 加皿木公園西口にて待っている」と、詳細な指定があった。
「まあ、いいや」と声を出して、肯定した。
奇妙な出来事があったら面白いかも。
当日、指定の時刻に指定の場所へ向かった。昼間から人が多いこの場所で、まさか拉致されることはないだろう、という僅かに警戒しながら、待つことにした。
ぼんやりと公園の入り口に立っていると、前からスーツ姿の女性が二人、まっすぐこちらへやってきた。彼女たちは正確に私の前で立ち止まった。
「鏡見ユウさんですね。私は大野クズメと申します。先日Eメールをさせていただきました」
その一人が、硬い表情でそう言って、名刺を差し出した。名刺には、確かに「未知のゲート管理研究所」の文字が刻まれていた。
「あなたのお父さん、鏡見敏夫さんからも推薦がありまして。詳しくは場所を変えましょう」
抵抗する気もなく、案内されるまま黒塗りの車に連行された。
車が動き出した瞬間、ユウの頭の中を一つの温かいものが通り過ぎた。
(お父さんは……、私のことを忘れてなかった?)




