第六話 近づく足音
その日、リリアーナが小屋に来たのは、いつもより半刻ほど遅かった。
「――遅くなってごめんなさい」
言葉少なに謝る彼女の表情は、いつもよりわずかに硬かった。アレクシスはそれに気づいたが、理由を尋ねる言葉は、まだ二人の間の距離に馴染まなかった。
「屋敷に、何かあったのか」
代わりに、遠回しにそう聞いた。
「……お客様が来ているの。誰なのかは、私にはよく分からないけど」
リリアーナは薬箱を開けながら、そう答えた。声に、深い関心はない。伯爵家の中で、重要な話が自分のところまで降りてこないことに、彼女はとうに慣れているようだった。
その口調に、アレクシスの中で何かが引っかかった。
「見慣れない人物、ということか」
「そう。父と、兄が対応しているみたい。私は――」
言いかけて、リリアーナは小さく肩をすくめた。呼ばれてもいない、という事実を、わざわざ言葉にする必要もないと感じているようだった。
アレクシスは、それ以上聞かなかった。だが、内側では別の思考が急速に動き出していた。
廃太子事件の後始末は、まだ終わっていない。自分の行方を探る動きが、王宮内外のいくつかの筋から続いていることは、意識を失う前から分かっていた。伯爵家への来訪者。時期。この辺境に近い立地。
偶然だと決めつけるのは、まだ早い。
確証などどこにもない。それでも、可能性を一つでも見落とせば、取り返しのつかないことになる。王太子として叩き込まれてきたのは、そういう思考の癖だった。あらゆる兆候を、最悪の場合を想定して拾い上げていく。天才的な閃きではない。ただ、考え続けることをやめない、それだけだった。
もし自分がここにいると知られたら。
これまでとは違う種類の恐怖が、腹の底から込み上げてきた。自分の身に何が起きるかという恐怖ではない。この娘が、何も知らないまま、廃太子を匿った罪に巻き込まれるかもしれないという恐怖だった。
「――今日は、外に出ない方がいい」
「え?」
「小屋の中に、いてくれ」
思ったより強い声が出た。リリアーナが驚いた顔でこちらを見る。
「何かあったの?」
当然の問いだった。だが、答えようとして、アレクシスは言葉に詰まった。理由を説明すれば、正体を明かさざるを得ない。今はまだ、その資格が自分にあるとは思えなかった。
「……何もない。念のためだ」
我ながら、下手な誤魔化しだと分かっていた。リリアーナも、それ以上追及はしなかったが、微かに寂しそうな色が、その表情をよぎった気がした。
その沈黙を破るように、遠くから声が聞こえた。
「リリアーナ! いるか! 父上がお呼びだ!」
男の声だった。若く、しかしどこか苛立ちを含んだ響き。リリアーナの表情が、わずかに強張った。
「兄の、声よ」
そう呟くと、彼女は立ち上がり、小屋の戸に手をかけた。
「行かないと。また、明日」
いつもの言葉のはずだった。だが、今日はどこか硬く、急いていた。
リリアーナが出ていった後、小屋の中には静けさだけが残った。
アレクシスは、閉じられた戸をしばらく見つめていた。
このままでは、いずれ見つかる。時間の問題だということは、分かりきっていた。今すぐここを離れるべきだという理性の声と、まだここにいたいという、これまで感じたことのない強い感情とが、胸の中でせめぎ合っていた。
王子としての判断であれば、答えは決まっている。危険が及ぶ前に、この場を去るべきだ。
それなのに、体は動かなかった。
外はまだ明るいはずなのに、小屋の中はやけに静かで、やけに冷たく感じられた。




