第七話 初めての「嫌」
翌朝、リリアーナは小屋に来なかった。
昼を過ぎても、姿はない。アレクシスは戸口に何度も目をやりながら、昨夜の緊張が、形を変えた不安になっていくのを感じていた。
夕刻近くになって、ようやく戸が開いた。
「――遅くなってごめんなさい」
息を切らせたリリアーナの顔には、疲労と、それでも隠しきれない安堵が混じっていた。
「客人は、別の貴族家との縁談の話だったみたい。王宮とは関係のない話」
その報告に、アレクシスの肩から力が抜けた。だが、リリアーナの表情は、完全には晴れていなかった。
「ただ……使用人たちの間で、噂が出始めているの。離れ小屋に、誰かがいるんじゃないかって」
その一言で、緩んだはずの空気が再び張り詰めた。
時間の問題だった。いずれ知られる。分かっていたことのはずなのに、実際にその足音が近づいてきたことを、アレクシスは今、はっきりと感じ取った。
「――ここを出る」
静かに、しかしはっきりと、アレクシスは告げた。
「これ以上、お前や、この家を巻き込むわけにはいかない」
「――どこへ、行くの」
リリアーナの声は、わずかに震えていた。
アレクシスはすぐには答えられなかった。
王宮に戻る、とは言えなかった。戻ったところで、自分に何ができるのか、まだ分からない。「王になるべきだから」という、これまで自分を支えてきた言葉は、今のアレクシスの中で、以前ほどの重みを持たなくなっていた。
行き先も、名乗るべき言葉も、まだ何一つ定まっていなかった。
「決めていない。それでも、行く」
正直にそう答えるしかなかった。
リリアーナは、しばらく黙ってアレクシスを見つめていた。
「――嫌よ」
小さな、しかしはっきりとした声だった。
「その傷で、行く当てもなく? 無理に決まってる」
「傷なら、もう動ける」
「動けることと、無事でいられることは違うでしょう」
リリアーナらしくない、強い口調だった。アレクシスは、その勢いに一瞬、言葉を失った。
「……お前には関係のないことだ。これ以上、巻き込むわけにはいかない」
「関係ない、なんて」
リリアーナは、俯いたまま、絞り出すように続けた。
「関係ない人のために、私がここまでするとでも思ってるの」
その声が、わずかに掠れた。
「あなたが、いなくなるのが――嫌なだけ」
言ってしまってから、リリアーナ自身が一番驚いているようだった。目を見開き、それから、逃げるように視線を落とす。
これまで自分に向けられてきた言葉は、すべて理由があった。忠誠のため。国のため。あるいは打算のため。だが今、目の前の娘が口にしたのは、そのどれとも違う、ただの一つの願いだった。役に立ちたいからでも、恩を返したいからでもない。
初めて、彼女は「自分がどうしたいか」だけを口にしていた。
アレクシスは、何か言おうと口を開きかけた。だが、言葉が見つからなかった。
行くべきだという理性の声と、今の一言を無視して立ち去ることなどできないという感情とが、胸の奥でぶつかり合っていた。どちらの声にも、答える言葉を持っていなかった。
小屋の中に、沈黙だけが満ちていく。
行くべきだ。
頭では、何度もそう繰り返した。だがそのたびに、胸の奥で、たった一つの言葉が決意を鈍らせる。
――嫌。
その一言だけが、何度も耳の奥で繰り返されていた。
窓の外では、日が静かに沈んでいった。




