第五話 言えなかった言葉
夕食の支度をしながら、リリアーナがふと尋ねた。
「あなたは、昔は何をしていたの」
何気ない問いだった。だが、これまでよりも一歩、踏み込んだ質問だということは、アレクシス自身にも分かった。
「……人の上に立つ仕事だった、と言っただろう」
「それは聞いたけど。もっと具体的には」
言葉に詰まった。答えられる範囲でごまかす術は、いくらでも持っているはずだった。政治の駆け引きも、質問をかわす話法も、幼い頃から叩き込まれている。
それなのに、口をついて出たのは、用意していた言葉ではなかった。
「――正しくあることを、ずっと求められてきた」
言ってしまってから、アレクシスは自分でも驚いた。
誰かにこぼしたことなど、一度もない感覚だった。王太子として、常に模範であれと言われ続けてきた重さを、こんなにも簡単な一言で口にしてしまうとは思わなかった。
「正しくあること」
リリアーナは、その言葉を静かに繰り返した。
「それって、疲れそうね」
同情でも、憐れみでもない口調だった。ただ、その事実を、そのまま受け止めているだけの声。
「……疲れる、と思ったことはなかった。それが当然だと、そう教えられてきたから」
「思ったことがないのと、疲れていないのは、違う気がするけど」
その一言に、アレクシスは何も返せなかった。
考えてみれば、これまで自分の重さを、誰かに測ってもらったことなどなかった。周囲は皆、王太子としての自分にどう応えるかばかりを考えていた。重いかどうかを尋ねる者など、いなかった。
リリアーナは深く詮索せず、鍋の中身をかき混ぜる手を止めなかった。「役に立たない」と言われ続けた自分と、「正しくあれ」と言われ続けた彼と。背負わされたものの形は違う。それでも、二人ともどこかで、他人の期待という檻の中にいたのかもしれない――そんなことを、アレクシスはぼんやりと考えた。言葉にはしなかった。まだ、うまく言葉にできる形をしていなかったから。
今、自分は肩書きを一つも名乗っていない。それなのに、これまでのどんな会話よりも、素のままで聞いてもらえている気がした。
正しい答えを用意する必要がない。間違ってもいい。そう思えることが、こんなにも軽いのだと、アレクシスは初めて知った。
「王になるべきだから」
そうやって、ずっと自分に言い聞かせてきた言葉が、ふと、頼りなく感じられた。
「――そろそろ、できるわ」
リリアーナの声で、我に返る。鍋からは、湯気とともに柔らかな匂いが立ち上っていた。重くなりかけた空気を、彼女はさりげなく払っていた。
「今日は多めに作ったの。傷を治すには、ちゃんと食べないと」
「……ああ」
短く答えて、アレクシスは椀を受け取った。
夜、リリアーナが小屋を出ていった後、アレクシスは一人、寝台に横たわりながら天井を見つめた。
「アレク」として過ごす時間は、思っていたよりずっと心地よかった。手放したくない、とさえ思う自分がいる。
だが同時に、分かってもいた。
この名もなき生活が、いつまでも続くはずはない。傷が完全に癒えれば、いずれ選ばなければならない日が来る。
その静かな時間に終わりが近づいていることを、アレクシスはまだ知らなかった。




