第四話 彼女が見ていないもの
傷が塞がり始めたのは、小屋での生活が始まって五日目のことだった。
「もう、そんなに気を遣わなくていい。歩ける」
「無理はしないで。まだ完全じゃないんだから」
そう言いながらも、リリアーナはそれ以上止めはしなかった。アレクシスは寝台を離れ、小屋の戸口までゆっくりと歩いてみせる。痛みはまだ残っていたが、行動範囲が広がる感覚は、思いのほか心地よかった。
戸口から見える景色の中に、リリアーナが向かう先――屋敷が見えた。
その日の午後、水を汲みに行くリリアーナの後を、アレクシスは少し離れてついていった。屋敷の裏手、井戸のある一角。すれ違う使用人たちの様子に、アレクシスは目を留めた。
「お嬢様」
声をかける者はいる。だが、そこに込められているのは親しみというより、どこか及び腰な丁寧さだった。まるで、扱いを間違えれば壊れてしまう硝子細工にでも触れるような。
誰も邪険にはしない。だが、誰もそれ以上踏み込まない。
リリアーナはそれを気にする様子もなく、水桶を提げて淡々と歩いていく。慣れた足取り。誰かに気にかけられることを、初めから期待していない歩き方だった。
小屋に戻ると、アレクシスは黙って水桶を受け取り、水を注ぎ分けるリリアーナの手際を見ていた。薬草の見分け方、傷の縫い方、身を隠す判断の速さ。この五日間だけでも、数えきれないほど彼女の技量を目にしてきた。
「――なあ」
「何?」
「お前の、その《価値鑑定》とは別に聞きたいんだが」
アレクシスは言葉を選びながら続けた。
「薬草の知識も、傷の手当ても、正体の知れない人間を匿う判断も、お前は一人でこなしている。それのどこが、役に立たないんだ」
リリアーナは、一瞬、虚を突かれたような顔をした。
「……それは、誰にでもできることだもの」
「誰にでもできることを、誰もがやっているわけじゃないだろう」
リリアーナは視線を落とし、桶の水面を見つめた。
「そういうことじゃないの。私が言っているのは、《価値鑑定》の話。戦えない。癒せない。国のために役立つ力じゃない。それだけで、私は――」
言葉が、そこで一度途切れた。
「私がいなくても、困る人はいないもの」
静かな声だった。悲観でも、自己憐憫でもない。ただ、長い時間をかけて、そう思い込むことに慣れてしまった声だった。
アレクシスは、何かがおかしいと感じた。
この娘は、自分の行動そのものは正確に把握している。誰かを助けたことも、判断を誤らなかったことも、覚えている。それなのに、それを「自分の価値」として数えることだけが、できずにいる。
証明できるものしか、自分の価値だと思えない。
――それは、どこかで聞いた話だ。
自分自身のことだと、アレクシスは思わず苦く笑いそうになった。王太子という肩書きを失った瞬間、自分に何が残っているのか分からなくなった、あの感覚と同じだった。
この娘は、《価値鑑定》で他人の価値を見る力を持ちながら、自分自身にだけは、その力を向けたことがないのかもしれない。
何か言おうとして、アレクシスは口をつぐんだ。
今の自分に、それを言う資格があるのか。名も名乗れず、身分も明かせない自分が、彼女に「お前には価値がある」と告げたところで、何の重みも持たないのではないか。
言葉の代わりに、アレクシスは水桶に手を伸ばした。
「――運ぶくらいは、俺にもできる」
「怪我人が無理しないで」
「これくらいは、いいだろう」
押し問答の末、結局二人で桶を運ぶことになった。他愛のないやり取りだったが、リリアーナはそのとき、小さく笑った。
まだ言葉にできることは少ない。
それでも、行動でなら、少しずつ示していける。アレクシスはそう思いながら、痛む腕で桶の取っ手を握り直した。




