第三話 名前のない生活
小屋での二日目の朝は、意外なほど穏やかに始まった。
「動かないで。まだ傷が塞がっていないんだから」
リリアーナは寝台の脇に膝をつき、慣れた手つきで包帯を巻き直していく。薬草の知識だけは、屋敷でも一応褒められる程度にはあるらしい。
「……手際がいいな」
「これくらいしか、褒められるところがないもの」
さらりと返された自嘲に、アレクシスは何も言えなかった。
名前だけで呼び合う奇妙な距離感は、思っていたよりずっと居心地が良かった。「殿下」でも「王子」でもなく、ただ「アレク」。誰の期待も背負っていないその響きに、体の力が少しずつ抜けていくのが分かった。
包帯を替え終えると、リリアーナは椅子に腰を下ろし、簡単な朝食を差し出した。硬いパンと、薄い野菜のスープ。王宮の食卓とは比べようもない質素さだったが、アレクシスはそれを不快には感じなかった。
「あなたは、何をしていた人なの」
当たり障りのない問いだった。アレクシスは言葉を選びながら答える。
「……人に仕える仕事、のようなものをしていた」
嘘ではない。国に仕える身だったのだから。
リリアーナはそれ以上追及せず、「そう」とだけ言って、自分のスープに口をつけた。
「私は、役立たずよ」
唐突に、彼女はそう言った。自嘲というより、事実を淡々と述べるような口調だった。
「《価値鑑定》っていう力があるの。でも、戦えるわけでも、癒せるわけでもない。ただ、相手の価値とやらを見るだけの、誰の役にも立たない力」
アレクシスは、その名を初めて耳にした。
「――価値を、見る」
「そう。でも実際には、地位とか、能力とか、そういうものすら測れない。曖昧な言葉が浮かぶだけの、飾りみたいな力よ」
自嘲気味に笑うリリアーナを見ながら、アレクシスの中に小さな違和感が生まれた。
地位も能力も測れないのに、なぜその力は存在するのか。何かを見ているはずだ。ただ、それが何なのか、この娘自身にも分かっていないだけではないか――。
王太子として、成果の見えないものを評価する術を、これまで教えられてこなかった。それでも、なぜかこの話が、頭の片隅に引っかかって離れなかった。
朝食を終えると、アレクシスは無言のまま、皿を重ねて脇へ寄せた。
「――いいのに、そんなの」
「体に染みついているだけだ」
短くそう答えたが、内心では自分でも意外だった。王宮では誰かがすべてを片付けてくれた。皿を重ねる仕草など、身につけた覚えはない。それでも、手は自然に動いていた。
リリアーナは、それを見て一瞬だけ目を止めた。
「……几帳面なのね」
何気ない一言だった。だが、その響きが、なぜか彼女の記憶に小さく残った。理由は、リリアーナ自身にもまだ分からなかった。
日が傾き始めると、リリアーナは小屋を出る支度を始めた。
「また明日、来るから」
「……世話をかける」
「別に。放っておけないだけよ」
言い残して、リリアーナは小屋を後にした。
一人になったアレクシスは、木の椀に残ったスープの薄い湯気を眺めながら、ふと思った。
この娘は、なぜ毎日ここに来るのだろう。
世話をするだけなら、最低限の頻度で構わないはずだ。それなのに、今日も、明日も、と当然のように口にする。
深く考えるほどのことでもない。そう自分に言い聞かせながらも、アレクシスは、次にリリアーナが小屋の戸を開ける瞬間を、少しだけ待ち遠しく思っている自分に気づいていた。




