第二話 名もなき男、名乗らないと決める
意識が浮上する感覚とともに、まず感じたのは体の芯まで染みる重だるさだった。
見知らぬ天井。粗末な板張り、隙間から差し込む朝の光。ここは、どこだ。
起き上がろうとした瞬間、鈍い痛みが全身を貫いた。呻き声を噛み殺しながらも、意識だけは急速に研ぎ澄まされていく。
――襲われたのか。
廃太子となってから、命を狙われる可能性を考えなかった日はない。寝台の脇に人の気配を感じ取った瞬間、アレクシスの体は考えるより先に強張った。得物になりそうなものを、視界の端で無意識に探す。
「あ、起きた」
声のした方に視線を走らせた瞬間、教育された反射が働いた。部屋の出口の位置、明かり取りの窓の高さ、逃げ道になりうる隙間。枕元に置かれた水の器――口をつける前に、色と匂いだけで確かめる癖が、体に染みついている。
そして、声の主。
部屋の隅の椅子に座っていたのは、若い娘だった。粗末な服装、荒れた指先。剣を扱う手ではない。殺気もなければ、隠し持った得物の膨らみもない。数秒とかからず、アレクシスは「敵ではない」という結論に達した。
だが、それとほぼ同時に、別の違和感が頭をもたげた。
――この娘は、あまりにも無防備すぎる。
素性の知れない、しかも上等な身なりをした男を、たった一人で助け出し、こうして寝台の脇に座っている。用心する素振りが、まるでない。身元も分からない相手を、なぜここまで無警戒に扱えるのか。
聞こえてきた声も、拍子抜けするほど呑気だった。刃物も殺気も、この娘のどこにも見当たらない。
警戒は解けないまでも、少なくとも命を狙う相手ではなさそうだと、アレクシスは判断を下した。
「森で倒れていたの。ここは、私の家の裏手にある小屋。誰にも言っていないから、安心して」
娘は淡々とそう説明した。まるで、行き倒れの動物でも拾ったかのような口調だった。
アレクシスは記憶をたどる。森を彷徨っていたところまでは覚えている。その先は、途切れている。
「……助けて、くれたのか」
「そう見えなかった?」
娘は少しおかしそうに笑った。それから、当然の問いを続けた。
「あなた、名前は?」
その一言に、アレクシスは息を止めた。
――フォン・ヴァレンティア。名乗るべき名は、それだけだ。生まれてからずっと、その名を口にすれば、誰もが跪いた。
だが今、その名を口にしたらどうなる。
薄汚れた身なりで、森に行き倒れていた男が「第一王子」だと名乗る。滑稽だ。まず信じてはもらえないだろう。あるいは、万が一信じられたとして――廃太子された王子の身柄を匿っていると知れれば、この娘や、この家に、どれほどの災いが降りかかるか分からない。政争の駒として利用されるかもしれない。命すら狙われるかもしれない。
これ以上、この娘を巻き込むわけにはいかない。
そう考えた自分に、アレクシスは一瞬遅れて気づいた。
――いつから自分は、この見知らぬ娘を、守るべき対象として数えていたのか。
答えの出ないまま、思考は次の迷いへと押し流されていった。
名乗ろうとして、アレクシスは自分の内側に、もう一つ別の躊躇があることに気づいた。
「第一王子」と名乗ったところで――今の自分に、その名に見合う中身が、まだ残っているのか。
王太子として教育され、王太子として振る舞い、王太子として周囲に応えてきた。だがその肩書きを剥ぎ取られた今、そこに残っているのが何なのか、アレクシス自身にも分からなかった。
名乗ることが、こんなにも怖いと感じたのは、生まれて初めてだった。
娘は急かさなかった。答えを待つでもなく、ただ静かにこちらを見ている。その静けさに、かえって追い詰められる気がした。
「……アレク」
気づけば、そう口にしていた。本名を切り詰めただけの、ほとんど誤魔化しにもならない偽名。
「アレク」
娘はその名を、確かめるように一度繰り返した。それから、深くは追及せず、あっさりと頷いた。
「私はリリアーナ。ここの家の娘よ」
姓を名乗らなかったのは、彼女なりの配慮なのか、それとも単に、名乗るほどのものでもないと思っているのか。アレクシスには判別がつかなかった。
「怪我が治るまで、ここにいていいわ。ただし――」
リリアーナは少し声を落とした。
「屋敷の人には、しばらく知らせない。父も兄も、素性の分からない人間を歓迎するような人たちじゃないもの」
その言い方に、アレクシスはわずかな違和感を覚えた。家族を庇うでも誇るでもない、どこか距離のある口調。この娘にも、何か事情があるのかもしれない。だが、それを尋ねる立場に自分はない。
「……助かる」
短く、それだけを返した。
リリアーナは小さく頷くと、椅子から立ち上がり、水の入った器を寝台の脇に置いた。
「傷が治るまでよ。それまでは、大人しくしていて」
言い残して、小屋を出ていく。
一人残されたアレクシスは、木目の粗い天井を見上げた。
王子でもない。王太子でもない。名乗る名すら、偽りのものしか持たない。
それなのに、なぜだか、体の芯にあった重苦しさが、少しだけ軽くなった気がした。
王子でも、令嬢でもない。ただの「アレク」と「リリアーナ」としての日々が、こうして始まった。




