第一話 役立たず令嬢、名もなき男を拾う
夜明け前の森は、しんと冷えていた。
リリアーナ・フォン・アルフォードは、露に濡れた下草を踏み分けながら、慣れた足取りで森の奥へと進んでいく。籠の中には、朝一番でなければ効能が落ちてしまう薬草が数本。それだけを目的に、彼女は毎朝この道を歩いていた。
このごろ、朝の空気だけは前より澄んで感じる。
誰かに合わせて微笑む必要も、期待に応えられず俯く必要もない。ただ、薬草を摘んで、屋敷に戻るだけの朝。それが今のリリアーナには、ちょうどよかった。
「お嬢様、またお一人で……。せめて護衛くらいお連れくださいと、あれほど」
屋敷を出るとき、老齢の侍女にそう窘められたのを思い出す。リリアーナは苦笑して答えた。
「大丈夫よ。《価値鑑定》しか能のない令嬢を、わざわざ襲う物好きなんていないもの」
自分で言って、自分で笑う。惨めさより先に、乾いたおかしみが込み上げてくる。戦う力も、癒す力もない。ただ相手の「価値」とやらを見るだけの、王国では誰も欲しがらない力。それが、リリアーナ・フォン・アルフォードという人間の、唯一の肩書きだった。
薬草を三本摘み終えたところで、いつもと違う気配に気づいた。
鳥の声が、ふつりと止んでいる。
リリアーナは足を止め、耳を澄ませた。獣か、それとも――。籠を抱え直し、音のした方向へ、慎重に近づいていく。
木立の隙間に、それはあった。
人が一人、倒れている。
上等な仕立ての上着は泥にまみれ、金の髪には枯れ葉がからみついている。身分を示す紋章の類は、どこにも見当たらない。ただ、身につけているものの質だけが、この人物が只者ではないことを物語っていた。
関わるべきか。屋敷に知らせを走らせるべきか。
一瞬、迷いが胸をよぎる。助けたところで、この人が自分に何かを返してくれるとは思えない。見ず知らずの、しかも身元も知れない相手だ。
――でも。
気づけば、リリアーナは膝をついていた。
恐る恐る手を伸ばし、その首筋に触れる。かすかに、しかし確かに、脈がある。息もある。ただ気を失っているだけのようだった。
安堵した瞬間、指先から淡い光が滲むように広がった。
《価値鑑定》。
意図せず発動した力に、リリアーナ自身が小さく息を呑む。普段は人前で使うことを避けている力だった。何を見せられても、どうせ「役に立たない」結果しか出ないと分かっているから。
けれど、視界に浮かび上がった言葉は、これまで見たどの鑑定結果とも違っていた。
――この人は、まだ自分の価値を知らない。
地位でも、能力でも、財産でもない。そんな、曖昧で、どこか意味深な一文。
リリアーナは眉をひそめた。今まで《価値鑑定》がこんな言葉を映したことはなかった。役に立たない力のはずなのに、今この瞬間だけは、妙に的を射ているような気がしてならない。
男が小さく呻いた。
その拍子に我に返り、リリアーナは立ち上がる。屋敷に連れて帰れば、間違いなく騒ぎになる。父も兄も、正体の知れない人間を歓迎するはずがない。何より――誰かに知られる前に、この人がどういう人なのか、リリアーナ自身が確かめてみたかった。
迷いは一瞬だった。リリアーナは薬草の籠を置くと、少し離れた場所に停めてあった手押しの荷車を引いてきた。薬草を運ぶための、小さくて頼りない荷車だ。
男の体を荷台に乗せるだけで、息が上がった。ただでさえ細い腕には、成人男性の重みは応えた。何度も手を止め、荷車の縁に額を押し当てて息を整えながら、それでもリリアーナは荷車を押し続けた。
――重い。
――でも、ここで諦めたら、この人は朝露に濡れたまま、また一人になる。
根を詰めれば十分ほどの距離を、その倍近い時間をかけて、リリアーナは屋敷の裏手にある古い離れ小屋まで辿り着いた。誰も使っていない、両親も兄も存在を忘れているような小屋だ。そこになら、しばらく人目を避けて休ませられる。
名前も、身分も知らない。
けれど、なぜか――放っておけなかった。
小屋の粗末な寝台に男を横たえ、リリアーナが息をついたそのとき。
閉じられていた男の瞼が、ふるりと震えた。
意識が沈んでいく間際、男――アレクシスの中に浮かんだのは、痛みでも、恐怖でもなかった。
(なぜ……)
自分にはもう、何もない。
王太子でもない。守るべき国民がいるわけでもない。誰かにとって利用する価値のある存在でもない。
これまで自分に向けられてきた手は、すべて理由があった。忠誠のため。利害のため。あるいは、いずれ王になる者への打算のため。
それなのに、この見知らぬ娘は。
何も持たない自分に、なぜ手を伸ばした。
答えの出ないまま、意識は闇の底へと沈んでいった。




