第四十六話 セレナ、聖女候補を降りる
その日も、セレナは、聖女候補としての務めをこなしていた。
祈りの儀式、公務としての奉仕活動。幼い頃から、当たり前のように積み重ねてきた所作の一つ一つに、寸分の乱れもなかった。
だが、その完璧な所作の端々に、以前にはなかった、かすかな迷いが、静かに滲み始めていた。
務めを終えた後、セレナは、温室に立ち寄った。
そこには、セドリックの姿があった。
「――セレナ嬢」
「セドリック様」
二人は、いつものように、短く言葉を交わした。
「最近、少し、変わったことを始めました」
セドリックが、何気ない調子で切り出した。
「書庫で、自分の興味のある記録を、読み漁っています。誰かに命じられたわけでもなく」
その言葉に、セレナは、小さく目を見開いた。
「――ご自分の意志で」
「ええ。まだ、何のためになるかも、分かりません。ただ、俺自身が、そうしたいと思ったので」
その言葉は、セレナの中に、静かに、しかし確かに、波紋を広げた。
これまで、抑え込んできた問いが、再び、頭をもたげてくる。
――私も、そんな風に、生きられるのだろうか。
幼い頃から、「選ばれた存在」として扱われてきた。「聖女候補」という肩書きの外側で、自分がどうありたいのか。それを、まともに考えたことすら、これまでなかった。
「――怖いのです」
セレナは、思わず、そう漏らしていた。
「聖女候補ではない自分が、どういう人間なのか。今更、分からなくて」
その本音に、セドリックは、静かに耳を傾けていた。
「――分かります」
セドリックは、そう答えた。
「俺も、まだ、途中です。役割を降りることは、怖い。今でも、時々、分からなくなります」
その言葉には、慰めではなく、対等な共感があった。
「それでも」
セドリックは、続けた。
「少しずつでいい、と思うんです。俺も、まだ、自分の答えを、探している最中ですから」
その言葉に、セレナの中の何かが、静かにほどけていくのを感じた。
急いで答えを出す必要はない。完璧に、聖女候補という立場を捨てる必要もない。ただ、少しずつ、自分自身の意志で、その関わり方を、選び直していけばいい。
セレナは、静かに、そう心に決めた。
「私は」
セレナは、ゆっくりと、言葉を紡いだ。
「聖女候補という立場を、完全に手放すつもりは、まだありません」
それから、少し間を置いて、続けた。
「ただ、その立場のために、自分自身を演じ続けることからは、もう降りようと思います」
それが、今のセレナに選べる、最初の一歩だった。
これからは、演じるのではなく、自分の意志で、選び取っていく。
その声には、これまでの、完璧に整えられた響きとは違う、初めての、素の強さがあった。
セドリックは、その言葉を、静かに受け止めた。
「――良い選択だと、思います」
二人は、しばらく、無言のまま、向かい合っていた。恋愛的な言葉は、まだ交わされなかった。それでも、互いの中に、これまでとは違う、確かな何かが、育ち始めていることは、疑いようがなかった。
温室のガラス越しに差し込む光が、二人を、柔らかく包んでいた。
それぞれが、自分の意志で、人生を選び始めていた。
その先に、新しい季節が、静かに、しかし確かに、待っていた。




