第三十六話 マリアンヌの選択
セドリックは、自ら母、マリアンヌのもとを訪れていた。
これまで、母の愛情を疑いたくないという思いから、避け続けてきた対話だった。だが、兄との対話を経て、そして自らの記憶と向き合った今、もう避けてはいられないと感じていた。
「――セドリック。どうしたの、改まって」
マリアンヌは、いつも通りの、穏やかな笑みを浮かべていた。
「母上に、伺いたいことがあります」
セドリックは、まっすぐに母を見た。
「あの事件の当時、母上は、何をご存知だったのですか」
その問いに、マリアンヌの笑みが、一瞬、揺らいだ。
「――何を、今更」
「はぐらかさないでください」
セドリックの声は、静かだったが、揺るがなかった。
「俺は、事件の中心にいたはずなのに、多くのことを知らされていませんでした。母上は、ご存知だったのではないですか」
マリアンヌは、しばらく、何も言えずにいた。取り繕おうとする表情が、少しずつ、崩れていった。
「――あなたを、王にしたいと、思っていたわ」
ようやく漏れたその一言は、これまでの穏やかな声とは違う、震えを帯びていた。
「あなたには、その資格があると思っていた。兄君の陰で、ずっと努力を重ねてきたことを、私は知っていたから」
「それで」
「レオンハルト卿から、話を持ちかけられたの。『機会を作ることができる』と」
マリアンヌは、そこで、大きく息をついた。
「詳しいことまでは、私も知らなかった。ただ、あなたに、機会を掴んでほしいと、それだけを、願っていた」
その告白に、セドリックは、しばらく言葉を失っていた。
「――母上は」
声が、かすかに震えた。
「俺が、何を望んでいるか、聞いたことが、ありましたか」
その問いに、マリアンヌは、はっと息を呑んだ。
「……セドリック」
「俺が、王になりたいと、思っているかどうか。俺自身の言葉で、聞いたことが、あったでしょうか」
マリアンヌは、答えられなかった。
これまで、息子の努力を、息子の頑張りを、確かに見てきたつもりだった。だが、その先にある、息子自身の望みを、正面から尋ねたことは、一度もなかった。
その事実に、マリアンヌ自身、初めて気づかされていた。
「――ごめんなさい」
声が、小さく震えた。
「私は、あなたを、愛していた。それだけは、本当よ。でも」
「でも、俺自身ではなく、『王になるセドリック』を、見ていた」
セドリックが、静かに、その先を続けた。
マリアンヌは、何も言えず、ただ小さく頷いた。
セドリックの中に、怒りは、あまり湧いてこなかった。それよりも、深い悲しみに近い感情が、胸を満たしていた。母を憎みきれない自分と、確かに傷ついている自分とが、同時にそこにあった。
「――母上も、俺を、俺自身として見ていなかったんですね」
その一言に、マリアンヌの目から、静かに涙がこぼれた。
「本当に、ごめんなさい」
その謝罪は、遅すぎたかもしれない。それでも、初めて交わされた、偽りのない言葉だった。
完全な和解には、まだ遠かった。だが、二人の間に、これまでとは違う何かが、確かに生まれていた。
セドリックは、静かに部屋を辞した。
事件の輪郭は、また一段、明確になっていた。次に向き合うべき相手が、誰であるか――アレクシスにも、伝えなければならなかった。




