第三十話 まだ名前のない関係
庭園を後にしたセドリックは、しばらく王宮の廊下を、当てもなく歩いていた。
「――兄上は、ずるいですね」
誰もいない廊下で、独り言のように呟く。
怒っているわけではなかった。むしろ、その逆だった。今まで、ずっと欲しかった言葉を、今になって差し出されたことへの、戸惑いだった。
嬉しいはずなのに、素直に受け取れない。長年、心の奥に押し込めてきたものは、そう簡単には溶けてくれなかった。
気づけば、セドリックは、王宮の温室に足を踏み入れていた。
人気の少ない、静かな場所だった。ガラス越しの光が、緑の葉々を柔らかく照らしている。
その奥に、一人の少女の姿があった。
淡い金髪、緑の瞳。丁寧な手つきで、花の手入れをしている。聖女候補、セレナ・アルフォードだった。
「――セドリック様」
セレナは、セドリックに気づくと、すぐに礼儀正しく一礼した。所作の一つ一つに、寸分の乱れもない。「期待される聖女像」を、完璧に体現するような立ち居振る舞いだった。
「こんな場所で、お一人ですか」
「少し、気持ちを整理したくて」
セドリックは、当たり障りのない返事をした。本来なら、それだけで、儀礼的な会話を終えて立ち去るつもりだった。
だが、花の手入れを続けるセレナの横顔を、ふと見つめているうちに、思いがけない言葉が、口をついて出た。
「――あなたは、いつも、そんな顔をしているのですね」
セレナの手が、一瞬止まった。
「どんな、顔でしょうか」
「誰かの、期待に応えようとしている顔です」
その一言に、セレナの表情が、わずかに揺らいだ。
図星を突かれた驚きと、これまで誰にも見抜かれたことのなかった何かを、初めて言い当てられた動揺とが、その一瞬の表情に、静かに滲んでいた。
「――どうして、そう思われるのですか」
声が、わずかに硬かった。セドリックは、静かに答えた。
「俺も、似たような顔を、鏡の中で見たことがあるので」
セレナは、しばらく何も言わなかった。手にしていた花鋏を、そっと置く。
「――セドリック様も、同じ顔を、しておられますよ」
その言葉には、これまでの儀礼的な響きとは違う、初めての、素の色があった。
二人は、しばらく無言のまま、向かい合っていた。恋愛的な高揚があるわけではなかった。ただ、互いの中にある、同じ種類の何かを、静かに認め合うような時間だった。
「――変なことを、言いましたね」
セドリックが、少し照れくさそうに言った。
「いいえ」
セレナは、小さく首を振った。
「少しだけ、分かる気がしただけです」
それ以上、どちらも多くを語らなかった。
この出会いに、まだ名前をつける必要はなかった。ただ、互いの中に、静かな何かの種が、確かに一つ、蒔かれていた。
温室のガラス越しに差し込む光が、二人を、柔らかく包んでいた。
セドリックとセレナは、それぞれ、何事もなかったかのように、それぞれの日常へと戻っていった。




