第二十七話 忍び寄る手
王宮の一室に、セドリックは通されていた。
対面に座るのは、アシュフォード侯爵、レオンハルト・フォン・アシュフォードだった。
「――このたびは、突然のお申し出、失礼いたしました」
レオンハルトの物腰は、丁寧で、隙のないものだった。表向きは、廃太子事件後の政局についての、儀礼的な相談という体裁を取っている。
「兄君が、ご無事でお戻りになったこと、まことに喜ばしく存じます」
その第一声には、何の不自然さもなかった。だが、続く言葉に、セドリックはかすかな緊張を覚えた。
「ですが――王宮内の空気が、一枚岩とは、申し上げにくい状況でもございます」
「――どういう、意味でしょうか」
「兄君は、市井で長く過ごされていました。その経験は、確かに得難いものでしょう。しかし、王宮の作法や、貴族社会の均衡というものは、また別の重みを持ちます」
レオンハルトの言葉は、直接的に「セドリックこそが王にふさわしい」とは、決して口にしなかった。ただ、じわじわと、聞く者の不安を刺激するような話法だった。
「あなた様は、この数ヶ月、王家の代表として、立派に立ち回ってこられました。その積み重ねを、無に帰す必要はないのです」
「――兄上の帰還を、否定するおつもりですか」
「まさか。私はただ、あなた様ご自身の立場を、案じているだけです」
その言葉に、セドリックの中で、消えたはずの不安が、再び頭をもたげた。
――自分は、また、兄の控えに戻るのだろうか。
あの日、兄と対面した後、芽生えたばかりの「選び直したい」という漠然とした意志と、長年染みついたこの不安とが、胸の中で激しくせめぎ合った。
完全に、レオンハルトの言葉に乗る気はなかった。だが、完全に拒絶することも、セドリックにはできなかった。
「――お心遣いは、感謝します。ですが、今は、何も申し上げられません」
曖昧な返答に留め、セドリックはその場を辞した。
王宮の廊下を歩きながら、セドリックの心は、依然として揺れていた。敵にも、味方にも、まだ完全には振り切れない、宙吊りの状態のままだった。
その頃、王宮の別の一角では、様々な思惑が、静かに交錯し始めていた。
アレクシスの帰還を素直に喜ぶ者。様子見を決め込み、どちらにもつかず情勢を窺う者。そして、アシュフォード侯爵家に近い立場から、この機に乗じようとする者。
王宮全体に、目に見えない緊張が、じわじわと広がりつつあった。
「――厄介なことになってきたな」
カイルが、独自の伝手を使って集めた情報を持ち、アレクシスのもとを訪れていた。
「アシュフォード侯爵が、セドリック殿に接触した。まだ、完全に取り込まれたわけじゃない。だが、時間の問題かもしれん」
その報告に、アレクシスの表情が、静かに引き締まった。
中庭で交わした、あの短いやり取り以来、感じ続けていた、弟との間の見えない距離。その正体が、ここで初めて、具体的な輪郭を持ち始めていた。
「――セドリックを、敵として切り捨てるつもりはない」
アレクシスは、静かに、しかしはっきりと言った。
「もう一度、あいつと向き合う」
その言葉に、カイルは、しばらく黙っていた。それから、小さく頷いた。
「――お前らしいな」
王宮の空気は、一段と張り詰めていた。
この静けさの奥で、既に何かが、確実に動き始めていた。




