第二十六話 リリアーナ、王宮に立つ
王宮の廊下を歩くたび、リリアーナは、まだどこか慣れない緊張を感じていた。
磨き上げられた床、金の縁取りが施された調度品、すれ違う人々の洗練された所作。市井での日々とは、あまりにも違う空気が、そこには満ちていた。
伯爵令嬢として、最低限の礼儀作法は身についている。だが、この場所の"格"そのものには、まだ馴染めずにいた。
「――あの方が、殿下が連れてこられたという」
「田舎の伯爵家の娘だとか。薬草に詳しいらしいけれど……」
すれ違いざま、女官たちの囁きが、聞こえるとはなしに耳に届く。あからさまな悪意ではない。だが、値踏みするような、どこか見下したような響きが、その声には滲んでいた。
その視線に、リリアーナの胸の奥が、一瞬、ちくりと痛んだ。
屋敷にいた頃、自分に向けられていた視線と、どこか似ている。「役立たずの令嬢」と呼ばれていたあの頃の空気と、「素性の知れない娘」として扱われる今の空気は、地続きのもののように感じられた。
――以前なら、この視線に、すぐに萎縮していただろう。
俯いて、目立たないように、なるべく早くその場を通り過ぎようとしていたはずだった。
だが今、リリアーナは、足を止めなかった。
萎縮しない自分に、リリアーナ自身が、少し驚いていた。市井で得たもの――薬草の知識、誰かに必要とされた記憶、《価値鑑定》を実際に人のために使った経験――それらが、今の自分を、静かに支えているのが分かった。
強くなったわけではないかもしれない。それでも、以前とは違う場所に、確かに自分は立っている。その実感だけは、確かにあった。
その日の午後、廊下の向こうで、小さな騒ぎが起きた。
「誰か、水を……! フィオナ様が、お倒れに」
若い女官の一人が、顔面蒼白で、廊下にうずくまっていた。周囲の者たちは、慌てるばかりで、なかなか的確な対処ができずにいる。
リリアーナは、迷わずその場に駆け寄った。
「――少し、失礼します」
脈を確かめ、顔色と呼吸を見る。長時間の緊張と、慣れない気候による軽い貧血のようだった。命に関わるものではない。
「水を、少しずつで構いません。それから、風通しのいい場所で、横にならせてあげてください」
持ち歩いていた薬草の中から、気付け代わりになるものを選び出し、手早く処置をする。
「――令嬢の身で、そんなことまで、分かるのですか」
周囲の誰かが、驚いたように呟いた。その声には、もはや先ほどのような、値踏みする響きはなかった。純粋な驚きと、素直な感心が、そこにはあった。
しばらくして、女官の顔色は落ち着きを取り戻した。
「――ありがとうございます。助かりました」
深く頭を下げるその女官に、リリアーナは、小さく微笑んだ。
《価値鑑定》の力だけではない。これまで自分の手と目で積み上げてきたものが、この王宮という場所でも、確かに誰かの役に立つ。その事実が、じんわりと胸に染みた。
その夜、狭くはないが、まだどこか他人の部屋のように感じられる私室で、リリアーナはアレクシスと今日のことを話していた。
「まだ、慣れない場所だけど」
リリアーナは、少し苦笑しながら言った。
「屋敷にいた頃と、似たような目で見られることもある。でも」
「――でも?」
「今は、それに負けない自分がいる気がするの。前の私なら、きっと違った」
アレクシスは、静かにその言葉を聞いていた。
「お前は、変わった」
「あなたもね」
二人は、どちらからともなく、小さく笑い合った。
王宮という、かつては縁のなかった場所に、リリアーナは今、自分自身の足で立っていた。
だが、この静けさが、いつまで続くのかは、まだ誰にも分からなかった。




