第二十五話 セドリックの内側
中庭を辞した後、セドリックは自室の窓辺で、一人、長い時間を過ごしていた。
兄と交わした短い会話が、頭の中で何度も繰り返される。
――兄上は、変わられましたね。
自分でも、なぜあんな言葉が口をついて出たのか、うまく説明できなかった。ただ、あの落ち着いた佇まいを目にした瞬間、これまで抱いたことのない感情が、胸の奥で静かに波立った。
優秀な兄の陰にいることには、幼い頃から慣れていた。
剣術も、学問も、政治の駆け引きも。何をやっても、兄には及ばなかった。それでも、兄を憎いと思ったことは、一度もなかった。
ただ、心の底に、消えない不安があった。
――自分は、永遠に、兄の控えなのではないか。
その不安は、誰にも打ち明けたことがなかった。口にすれば、みっともない嫉妬だと思われる気がして、ずっと胸の奥に押し込めてきた。
そして、廃太子事件が起きた。
望んでいた立場では、決してなかった。それなのに、気づけば、自分が第一王子に近い扱いを受けるようになっていた。喜びよりも先に、戸惑いと、うっすらとした罪悪感が込み上げた。自分の力で得たものではない。ただ、兄が失ったものが、なし崩しに転がり込んできただけだった。
「――セドリック」
物思いに沈んでいたところに、静かな声がかけられた。母、マリアンヌだった。
「アレクシス様が、王都にお戻りになったそうですね」
「……はい」
「あなたは、大丈夫なの?」
その問いには、確かな気遣いが滲んでいた。セドリックは、それを疑ったことは、一度もなかった。
「――大丈夫です、母上」
「そう。なら、良かったわ」
マリアンヌは、優しく微笑んだ。それから、ふと、付け加えるように言った。
「あなたが、ここまで努力してきたこと、私はよく知っています。この機会に、ちゃんと示していきなさい。あなたなら、きっと認められるはずよ」
その言葉は、間違いなく愛情から出たものだった。だが、その奥に、「王になれば、認められる」という考えが、無意識に滲んでいることに、セドリックは、うっすらと気づいていた。
気づかないふりをした。母の愛情を、疑いたくなかったから。
マリアンヌが去った後、セドリックは、再び一人になった。
兄が戻ってきたことに、確かに安堵している自分がいる。だが同時に、その安堵の奥に、名づけようのない、失望に近い何かが、静かに横たわっていることにも、気づいていた。
――兄でも、自分でもない、誰かになれたら。
そんなことを、かつて一度だけ、誰にも言わずに願ったことがあった。兄の代わりでもなく、母の期待に応える駒でもなく、ただの、セドリックという一人の人間として。
その願いは、これまで、誰にも打ち明けたことがなかった。
ふと、脳裏に、今日見た兄の姿がよぎった。
王太子でもなく、廃太子でもなく、ただ穏やかに、自分の言葉で語っていたあの姿。あれは、羨ましさだけでは片付けられない何かだった。
もしかしたら――自分にも、同じように、選び直せる道があるのだろうか。
その考えは、まだ、はっきりとした形を持っていなかった。
窓の外、日が傾き始めた頃、一人の使者が、セドリックの部屋の前に立った。
「――アシュフォード侯爵家より、セドリック様へ。折り入って、お話ししたいことがあると」
その言葉に、セドリックの心が、静かにざわめいた。
セドリックは、静かに目を閉じた。
自分が選び直せる道を、まだ漠然とだが、考え始めたばかりだった。その矢先だった。




