第二十話 逃亡か、対峙か
一晩の猶予が、アレクシスに与えられていた。
狭い部屋の窓辺で、アレクシスは一人、考え続けていた。
逃げる、という選択肢は、確かにあった。この町を捨て、また別の場所で、名もなき者として生きていく。今のリリアーナとの暮らし、この居場所を守るには、それが最も安全な道のように思えた。
だが、それは同時に、終わりのない道でもあった。逃げ続ける限り、いつかまた同じ危険が、リリアーナに、カイルに、そしてこの町の人々にまで及ぶかもしれない。
答えの出ないまま、夜は更けていった。
「――眠れないの?」
いつの間にか、リリアーナが隣に立っていた。
「ああ」
「何を、迷っているの」
アレクシスは、しばらく黙っていた。それから、静かに答えた。
「逃げれば、今のままでいられる。だが、それは、いつまでも安全でいられるという意味じゃない」
「対峙すれば?」
「――分からない。だが、少なくとも、終わらせることはできるかもしれない」
リリアーナは、しばらくアレクシスを見つめていた。それから、これまで誰も彼に投げかけたことのない問いを、静かに口にした。
「あなたは、本当はどうしたいの」
その一言に、アレクシスは息を止めた。
これまで、常に「王太子として何をすべきか」を考えてきた。廃太子となってからも、「王になるべきかどうか」という、義務に近い問いの形でしか、自分の未来を考えたことがなかった。
だが今、聞かれているのは、それとは違う問いだった。
――お前は、どうしたいのか。
アレクシスは、これまでの日々を思い返した。荷運びの現場で流した汗。薪を割った手応え。「兄ちゃん」と呼ばれた、あの気安さ。市場で見た、名もない人々の暮らし。
それらすべてが、王宮にいた頃には、決して見えなかった景色だった。
「――俺は」
言葉を選びながら、アレクシスは続けた。
「あの町で見た暮らしを、守れる国にしたい。王になるべきだから、じゃない。俺自身が、そう思ったからだ」
それは、王子に戻るための言葉ではなかった。
「王になる」
その一言には、これまでとは違う響きがあった。義務ではなく、自分の意志で選び取った言葉だった。
リリアーナは、静かにその言葉を受け止めた。
「なら、行きましょう」
「――お前まで、危険に晒すことになる」
「知ってる。それでも、隣を歩くと決めたのは、私自身よ」
その声に、迷いはなかった。感情に流された勢いではない。落ち着いた、確かな意志だった。
翌朝、事情を聞いたカイルは、しばらく腕を組んで考え込んでいた。
「――正直、まだお前が何者かは知らん。だが、覚悟は決まったようだな」
「ああ」
「なら、俺にできることを考えよう。王都までの道中、安全に動く手立てはある。伯爵家の伝手も、使えるだけ使ってやる」
現実主義者らしい、実務的な口調だった。だが、その言葉の端々に、妹とその隣に立つ男への、静かな信頼が滲んでいた。
夜明け前、三人は町を発つ支度を整えた。
薬屋の店主が、眠い目をこすりながら見送りに出てきた。
「また、こっちに来ることがあったら、寄りな」
いつもと変わらない、何気ない一言だった。宿の女将も、戸口までついてきて、そっけなく手を振った。
「気をつけて帰りな」
「兄ちゃん」「リリアーナさん」――そう呼んでくれた声の一つ一つが、耳の奥に残っていた。
「名前のない季節」を経て、この町で「名前で生きる季節」を過ごした。
肩書きを取り戻すためではない。
かつて手放したものと、これから守りたいもの。その両方を抱えるために、三人は今、過去と向き合う道へと、足を踏み出そうとしていた。
東の空が、白み始めている。
もう、迷いはなかった。




