第十六話 違和感
その朝、いつもと同じ道を歩きながら、アレクシスはふと足を止めた。
何がおかしいのか、はっきりとは言えなかった。ただ、通りの向こう、露店の陰に立つ男の視線が、少しだけ長く自分に留まっていたような気がした。
振り返ったときには、もう誰もいなかった。
「――どうかした?」
隣を歩いていたリリアーナが、不思議そうに尋ねる。
「……いや。何でもない」
そう答えながらも、アレクシスの中で、小さな警戒の芯が再び灯っていた。
王太子として培われた感覚は、平穏な日々の中でも、完全には消えていなかった。具体的な証拠は、何一つない。それでも、「見られている」という感触は、これまでの人生で幾度となく味わってきたものだった。
気のせいだと思いたい。だが、この感覚を無視してはいけないことも、経験として知っていた。
その日一日、荷運びの合間にも、アレクシスは何度か周囲に目を配った。はっきりとした尾行の影は見えない。だが、いつもとは違う、微かな空気の淀みのようなものが、確かにあった。
夕方、宿に戻ってから、アレクシスは迷った末に、リリアーナに切り出した。
「――最近、誰かに見られている気がする」
リリアーナを不安にさせたくない、という気持ちと、隠しておくべきではない、という気持ちが、胸の中でせめぎ合っていた。結局、正直に、しかし努めて静かな声で伝えることにした。
リリアーナは、一瞬息を呑んだ。それから、記憶をたどるように視線を落とした。
「……そういえば」
「何か、あったのか」
「先週、店に来たお客さんの中に、妙に町のことを詳しく聞いてくる旅人がいたの。薬屋の場所とか、私たちがいつからここにいるのかとか」
その時は、ただの世間話だと思っていた。だが、今こうして思い返すと、確かに引っかかる。
「気のせいかもしれないけど」
「いや」
アレクシスは、静かに首を振った。
「その手の違和感は、大抵、気のせいでは終わらない」
二人は、その夜、いつもより注意深く町を見渡した。だが、これといった確証は得られなかった。ただ、これまでと違う何かが、町の端々に漂い始めていることだけは、二人とも肌で感じ取っていた。
「――この生活、終わるのかな」
リリアーナが、ぽつりと呟いた。声に、隠しきれない不安が滲んでいた。
「兄ちゃんとか、リリアーナさんとか。ここでの呼び名も、居場所も、全部」
アレクシスは、すぐには答えられなかった。
「大丈夫だ」
結局、それだけを口にした。根拠のある言葉ではなかった。それでも、今は、それしか言えなかった。
リリアーナは、小さく頷いた。完全に安心したわけではない。それでも、隣にアレクシスがいることが、わずかな支えになっているようだった。
その夜、アレクシスは一人、狭い部屋の窓辺に立ち、暗い通りを見つめていた。
口では「大丈夫だ」と言った。だが、内心では、もう分かっていた。
失うものなど、もう何もないと思っていた。
王太子の座を追われたあの日、自分にはもう、何一つ残っていないのだと感じていた。
だが、違った。
今のアレクシスには、この町があった。荷運びの仕事があり、「兄ちゃん」と呼んでくれる人たちがいた。そして――隣には、リリアーナがいる。
守りたいものができたからこそ、この違和感は、これまで感じたどんな脅威よりも、恐ろしかった。




