第十五話 二つの足音
伯爵邸の一室で、カイル・フォン・ヴァルシュタインは、一枚の紙を何度目かも分からないほど読み返していた。
――心配しないで。私は、私の意志で行きます。
妹の筆跡だった。あの日から、もう何度この文字を目で追っただろう。文面からは、行き先も、理由も、何一つ読み取れない。ただ、妹自身の意志であることだけが、短く記されている。
「……馬鹿な奴だ」
小さく吐き捨てる声には、苛立ちよりも、深い後悔が滲んでいた。
妹が屋敷でどう扱われていたか、カイルは誰よりもよく知っていた。《価値鑑定》の価値を、この家で唯一理解していたのは自分だったはずだ。それなのに、家を守る立場として、妹を庇うために動くことができなかった。
その負い目が、消えないまま、今も胸の奥にわだかまっている。
「――カイル様」
従者の声に、思考が途切れる。
「行商人から、少し気になる話を聞きまして」
「話せ」
「隣町の薬屋に、腕のいい若い娘が働いていると。歳の頃、髪の色、物腰……お嬢様の特徴と、いくつか重なるところがあるようです」
カイルの手が、無意識に紙を握りしめていた。
「――確かか」
「あくまで噂の域は出ませんが」
噂の輪郭を、一つひとつ聞き取っていくうちに、カイルの中で、漠然とした期待が、次第に確信へと近づいていった。
妹には甘い。それは、家中の誰もが知る、カイルの数少ない弱点だった。だが今、込み上げてくるのは、単なる甘さではなかった。心配と、苛立ちと――そして、どこかで「誰かに必要とされている」という話に、複雑な安堵を覚えている自分がいた。
家に報告すべきか。それとも、自分一人で確かめに行くべきか。
しばらくの逡巡の末、カイルは一人で立つことを決めた。
――まずは、この目で確かめる。それからだ。
同じ頃、王都の一角では、まったく違う温度で、同じ噂が処理されていた。
アシュフォード侯爵家の配下の一人が、収集した情報の束を、机の上に並べていた。
「――不自然に有能な、身元不明の若い男。地方の町で、荷運びの仕事をしているとのことです」
「不自然、というのは」
「商人同士の揉め事を、契約の細部まで正確に整理し、瞬時に仲裁したと。荷運びの下働きにしては、些か教養が過ぎるかと」
報告を受ける側の声には、驚きも、興奮もなかった。ただ、事務的な確認だけがあった。
「廃太子の行方は、まだ掴めていない。念のため、確認しておけ」
「かしこまりました」
配下が一礼し、部屋を出ようとしたところで、短い声が背に投げかけられた。
「証拠を掴め。余計な騒ぎは起こすな」
それだけだった。感情の色は、そこにも見当たらない。ただ、静かな指示だけが、部屋の中に残った。
同じ噂が、まったく違う重みを持って、二つの方向から、静かに同じ場所へと収束し始めていた。
一方は、罪悪感と、消えない愛情に突き動かされて。
もう一方は、権力の維持という、冷たい論理に従って。
その頃、当の二人は、いつも通りの一日を終えようとしていた。
「今日は、いい天気だったな」
「うん。明日も、晴れるといいけど」
狭い部屋の窓から見える空には、静かな夕焼けが広がっていた。何も知らないまま、二人はいつも通りの穏やかさの中にいた。
二つの足音が、少しずつ、しかし確かに近づいていることを、まだ、誰も気づいていなかった。




